--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

三社詣り

2012年02月03日 00:17

三社詣り


京都人にもあまり知られていないのが、節分の2月2、3日に「熊野神社」「御辰稲荷神社」「満足稲荷神社」をめぐる“三社詣り”です。

おそらく、そう古い風習でもないのでしょうが、三つの神社は歩いてまわれる近い距離にあり、東大路丸太町交差点の「熊野神社」は有名でも、平安神宮の北、丸太町通に面した「御辰稲荷」や東大路三条上ルの「満足稲荷」は、こういった機会がないとなかなか境内に足を立ち入れないですからネ。

DSC06024.jpg 〈熊野神社〉

三社詣りの綴り券1500円を購入すると、各社で福袋がもらえ、熊野神社で福引きができる・・・という、ただそれだけのことですが、吉田神社、壬生寺、廬山寺、聖護院・・・と京都で催される主な節分をまわり尽くした人にとっては、足を運ぶのにオススメです。

DSC04712_20120202230839.jpg 〈御辰稲荷神社〉

これで、ご利益も三倍になることでしょう。決して福袋の中身や福引きには期待しないように・・・(苦笑)。

DSC04655.jpg 〈満足稲荷神社〉



スポンサーサイト

熊野神社

2012年02月03日 00:18

熊野神社

DSC04726.jpg


縁結び、安産、健康長寿のご利益があります。
縁結びは、祭神が本邦最初の夫婦神でもある伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)ということから。

DSC04730.jpg


弘仁2(811)年に修験道の日圓上人が国家安泰のため、紀州熊野大神を勧請したのがはじまりとされ、寛治4(1090)年に創建されたすぐ近くの聖護院は、この熊野神社を守護神として別当職をおいていたという深い関係。聖護院は熊野三山の別当職でもありました。

熊野信仰が盛んだった平安末期には後白河法皇が、たびたび熊野御幸(熊野詣)を行い、この熊野神社も厚い庇護を受けます。
室町時代になっても、足利義満から広大な社域を寄進され、その広さは鴨川にまで及んだのだとか。

DSC06027.jpg

その後も天皇をはじめ貴族から、庶民にいたるまで信仰を集めるものの、都を焼き尽くした応仁の乱で荒廃。

聖護院門跡であった道法親王によって社が再興されたのが、寛文6(1666)年。天保6(1835)年には大改修が行われ、現在の本殿はその際に、下鴨神社の旧本殿を移築したものです。
大正元(1912)年に市電丸太町線が開通し、昭和元(1926)年に東大路通の拡幅によって、再び社域は狭められ、現在の大きさとなりました。

熊野権現社 - コピー
〔聖護院杜にあり。鳥居の額、日本第一大霊験所熊野権現〕当宮は後白河上皇の勅願にして、熊野新宮を勧請し給ふ。初めは封境広くして、宮殿には金沙を鏤め、楼門廻廊祓舎経堂巍々たり。〔最初建立の時は、熊野より土砂を運ばしめて宮殿の地を築き、樹木花草に至るまで熊野よりこゝにうつし植給ふなり。故に新熊野新宮と称す。共に応仁の兵火に焦土となりぬ。今ある所は本社、富士浅間社、稲荷社、役行者堂あり〕
惣じて此杜は方境広からずといへども、老樹森々として木陰蓊欝とし、炎暑の時納涼の地なり。
〈安永9(1780)年刊行の『都名所図会』より 熊野権現社〉


神紋はもちろん「八咫烏」。熊野の神々の使いで、神武天皇が東征の際には熊野から大和への道案内をしたという三本足の烏。

DSC04737.jpg DSC04732.jpg


本殿の阿吽の獅子鼻(獅子の頭部の彫刻を施した木鼻)も愛嬌満点。

DSC06034.jpg
〈木鼻とは頭貫などの横木が突き出した部分に施された彫刻〉

DSC06060.jpg
〈界隈には聖護院ゆかりの京都銘菓「八つ橋」のお店がいたるところにあります〉


御辰稲荷神社

2012年02月03日 00:18

御辰稲荷神社

DSC04709.jpg


京都にはかつて有名な二匹のキツネがいました。それが琴の上手な“お辰の白キツネ”と、相国寺に住んだ碁の好きな“宗旦キツネ”です。

琴をつまびく京都一の風流キツネを祀っているのが、この「御辰(おたつ)稲荷神社」(左京区聖護院円頓美町)。

DSC04695.jpg

ご利益は、芸能上達。そして、厄除け、商売繁盛。
節分の時期は、小さい社ながらも女性の参拝者が多く訪れます。

DSC06007.jpg

宝永2(1705)年に東山天皇の典侍・新崇賢門院が白キツネの霊夢を見たことが創建の起こり。

ある夜、新崇賢門院の枕元に白キツネが立って「御所の巽(東南)の方角に小高い森がある。そこに祀ってほしい」と告げ、消えました。
翌朝、キツネのお告げにそって、その場所に赴くと鬱蒼と木々が生い茂る聖護院の森。
早速、小さな社を建てて、その方角が“辰”だったことから「御辰稲荷」と名づけたのでした。
以来、「辰」が芸道上達の「達」に通じることから、花街の芸妓たちからの信仰を集めるようになり、その噂が町衆の、とくに若い女性に広がって今日に至るのです。

聖護院の森は、明治の頃まで京都でも有名な深い森で、この中を通るとどこからともなく琴の音が聞こえ、人びとは“お辰キツネ”が琴を弾いていると噂し合ったものです。


DSC04685.jpg

本殿の東には、末社「初辰大明神」と「福石大明神」があります。
特に、あらゆる願い事が叶い幸福になるという福石大明神には、いわれが・・・

DSC04691.jpg

白川に住み日頃から御辰稲荷を信心していた貧しい夫婦。子宝に授からなかった妻がある時、境内にあった小さな黒く珍しい石を持ち帰り、神棚に祀って祈願していたところ子宝に恵まれ、その子は名のある大名に嫁いで、幸せになった・・・とか。

DSC05994.jpg

そして、今では、社で授与される真黒秘石といわれる真っ黒な小さい石を、福石大明神に供えて祈り、それを持ち帰ると祈願が成就するといわれています。

DSC06013.jpg



満足稲荷神社

2012年02月03日 00:18

満足稲荷神社

DSC05949.jpg


“満足”という、めでたい名がついた「満足稲荷神社」(左京区東大路仁王門下ル)は、豊臣秀吉と深い関係にあります。
もちろんご利益は、商売繁盛。その他にも、家内安全、厄除け、開運、良縁と多彩。

DSC04674.jpg

もともとは伏見城の守護神として城内に祀られていた稲荷社でしたが、その加護のため朝鮮出兵に連勝したことを満足に思った秀吉が「余は満足に思うぞ」と言ったことから、「満足稲荷」となったのだとか。

このあたりの由縁は千本丸太町下ルにある「出世稲荷神社」とよく似ています(「出世稲荷」は、はじめ聚楽第の中に祀られ、秀吉の出世にあやかり名づけられましたが、豊臣家も滅び聚楽第なき後の寛文3(1663)年に現在地に遷されました)。

DSC04666.jpg DSC04668.jpg

伏見城の城主が豊臣家から徳川家に移るにおよんで、満足稲荷は元禄6(1693)年に徳川綱吉によって東山三条にあった法皇寺の鎮守社として遷され、さらに明治になって(廃仏毀釈が関係していたのでしょう)法皇寺が南禅寺に移転させられ(現在、南禅寺塔頭の牧護庵(ぼくごあん)に合併しています)、鎮守社である満足稲荷だけがそのまま残ったということです。

明治10年に当時の知事・槇村正直が、京都市内にあった辻堂の廃止をすすめたとき、土地の人たちがこの稲荷だけは祀りたいと府へ嘆願し、残ったという経緯のある深い地元の信仰に根ざした神社なのです。

DSC05953.jpg


みどころは、立派なご神木“クロガネモチ”。通称、もちの木。

DSC05979.jpg DSC05963.jpg

樹齢400年に及び、京阪神百銘木の一つに数えられています。全国的にもクロガネモチが「金持ち」に通じると、縁起のいい、まさに稲荷神社にふさわしいご神木。


そして、ご神木のそばにあるのが、“岩神さん”。

DSC05966.jpg

この奇石をさすり頭をなでると頭がよくなり、痛いところ悪いところをさすると治る・・・のだとか。


DSC04681.jpg DSC04682.jpg

この満足稲荷には、多くの狛狐がいて、それなりに朽ちていていい味を出しているのですが、これはさすがに・・・(苦笑)。

DSC05981.jpg



廬山寺 その1

2012年02月03日 23:43

廬山寺

DSC05116.jpg


廬山寺(ろざんじ)の大師堂で毎年2月3日に催される追儺式「鬼法楽」は、京都で最も有名な節分行事の一つ。通称は「鬼おどり」。

DSC05126.jpg

これは廬山寺の開山・元三大師(がんざんだいし)が村上天皇の時代に宮中で三百日の護摩供を修したとき、人間の善根を毒する三匹の鬼が出現し、その鬼たちを独鈷、三鈷の法器で退散させたという故事によるもの。
鬼を節分に追い払うことで、福寿増長を祈念し、一切の悪疫災難を払います。


元三大師こと良源(延喜12(912)年―永観3(985)年)は、第18代天台座主をつとめた人物。当時の宗教界に君臨する比叡山延暦寺の最高位として荒廃していた伽藍を復興し“比叡山中興の祖”と現在に至るまで尊ばれている僧侶ですが・・・

永観2年に都に疫病が流行り、元三大師の元にも疫病神が近づいてたとき、角を生やした鬼に変身して追いやった・・・おみくじを創始した・・・など、様々な逸話を持つ人物。

角大師
〈元三大師が鬼に変身した姿をあらわす「角(つの)大師」の護符。玄関に貼ればすべての災厄から守られる〉

命日が正月の三日であったことから「元三大師」とよばれました。


廬山寺の正式名称は、廬山天台講寺。

DSC05028.jpg

現在の廬山寺は御所の東、寺町通に面して建っていますが、移転してきたのは豊臣秀吉の天正の区画整理によって。
もともとは、船岡山の麓に廬山寺の前身「与願金剛院」として天慶元(938)年に創建。寛元3(1245)年には覚瑜(かくゆ、浄土宗の開祖・法然の弟子)が出雲路に「廬山寺」を開き、二ヵ寺を統合し四宗兼学(円・浄土・戒・密)の寺院として栄えます。
しかし応仁の乱で、ほかの都の寺院同様焼失し、天正元(1573)年に現在地に移ってきたのでした。

DSC05063.jpg

ちなみに、その後も天明の大火(1788年)に遭い、現在の本堂は寛政6(1794)年に再建したもの。


廬山寺
廬山天台講寺は浄華院の南にあり、宗旨〔天台、律、法相、浄土〕兼学なり。開基は慈恵大師にして、与願金剛院と号し、中興は住心上人なり。一日化人来つてわれは唐の恵遠法師なりとて、廬山の二字を書し住心和尚に与ふ、故に廬山寺と改む。本尊は元三大師自作の像なり、南の壇上には薬師仏を安ず。〔聖徳太子の作なり、世に小屋の薬師と称す〕北の壇上には聖観音を安ず。〔伝教大師の作なり。世に船来迎観音と称す〕当寺の什物に法然上人自筆の選択集あり、又親鸞上人自筆の四句の文あり。〔是六角堂観世音より授与し給ふ四句の偈文なり〕
〈安永9(1780)年刊行の『都名所図会』より 廬山天台講寺〉

DSC05107.jpg





Twitterボタン

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。