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染殿院

2012年01月22日 23:54

染殿院

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京都で雰囲気のいい寺といえば・・・この染殿院(そめどのいん)は、その一つ。
といっても、本堂があるだけの至極狭い、路地奥にたたずむ小寺ですが。

染殿院があるのは京都一の繁華街のさらに一等地、四条通と新京極通の交わるところ・・・とはいえ、界隈を歩く人びとからも残念ながら見過ごされてしまっています。

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〈四条通りの林万昌堂の前に建つ「染殿地蔵尊」の碑〉

それもそのはず、四条通から入ろうとすれば、甘栗の老舗「林万昌堂」さんの店内を通らなければならず、新京極通の入り口はわずか人ひとりがようやく通れるかどうかというくらいの狭い入り口なのですから。

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〈新京極通の入り口〉

しかし、一歩境内に足を踏み入れると、境内そのものの狭さも相まって日中でも薄暗いなか、列べられた提灯の灯りがなんとも幻想的。まわりの買い物客の喧騒をよそに、異世界へ突如迷い込んだような不思議な感覚にもなるのです。

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そもそも染殿院は、“四條道場”とよばれた時宗・金蓮寺(こんれんじ)の塔頭で、本寺である金蓮寺が昭和3(1928)年に京都郊外の鷹峯に移転した後も現在地にとどまり、“知る人ぞ知る”安産祈願の寺として崇敬を集めつづけてきました。

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天正年間に行われた豊臣秀吉の区画整理で、市中に散在していた寺院が現在の寺町通に沿って集められましたが、現在の新京極周辺は浄土宗(西山派)の誓願寺と時宗の金蓮寺(四條道場)という二つの大寺院の境内地でした。

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ところが明治になり都が東京に移った際、沈滞した京都市民を元気づけるために当時の京都府参事・槇村正直(後の京都府知事)が明治5(1872)年に歓楽街をつくることを計画。その場所として目をつけたのが、誓願寺や金蓮寺の参拝客目当ての見せ物小屋が建っていた現在の新京極だったのです。


名所図会 四条道場
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 祇園御旅所 四條道場〉

染殿院の歴史は古く、大同3(808)年に弘法大師空海により開かれました。唐で修行を終えた空海が「十住心論」をこの地で清書調巻したことから十住心院とよばれます。

名所図会 染殿院
十住心院は四条道場の南口にあり、真言宗にして、本尊地蔵尊は弘法大師の作なり、染殿皇后常に尊信ありて当院を建立し給ふ、故に染殿地蔵と称す。〔額は染殿と書して僧正賢賀の筆なり〕
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 十住心院〉

その後、釈迦院、敬禮寺、清和院釈迦堂・・・と様々に呼び名が変わるものの、本尊の染殿地蔵により、染殿院として現在は親しまれています。


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〈境内より林万昌堂の店内を通して眺めた四条通〉

染殿院が安産祈願の寺たる由縁は、文徳天皇(在位850年~858年)の后(染殿皇后)がこの地蔵に安産を祈って清和天皇を産んだことから。

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本尊の染殿地蔵は秘仏で開帳は50年に一度。高さ2メートルあまりの裸形立像という大変珍しい地蔵菩薩で、さらに面白いいわれも・・・。
室町時代の暦応2(1339)年に夢窓国師が松尾の西芳寺を再興し、庭園を造っていた時。
築山をつくろうと国師自ら庭造りに精を出していましたが、どうしても石が重くて動きません。そこに不思議な法師があらわれ、石を軽々と動かしはじめ、国師の思い通りの庭が完成します。
喜んだ国師が法師の素性をたずねると、「四条あたりの者」とだけ答え、国師はお礼に袈裟を与えると、その不思議な法師は錫杖をその場に残して姿を消してしまいました。
その後、夢窓国師が四条に托鉢に出かけ、たまたま四条京極の染殿地蔵に詣で、本尊の扉を開けてみると、地蔵菩薩の肩にはお礼に与えたはずの自分の袈裟が掛かっていて、手には錫杖はなく、あの時の不思議な法師はこの地蔵尊の化身であったことを悟り、大いにありがたがった・・・という話です。ちなみにその時の錫杖は今も西芳寺の南地蔵院に残されているのだとか。

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現在の染殿院の建物は、元治元(1864)年の蛤御門の変(禁門の変)で生じた“どんどん焼け”で焼失した後に建てられた仮堂だそうです。

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愛欲

2012年01月22日 23:55

愛欲 監督・佐藤純彌 1966年

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名作『廓育ち』から2年、1966年に佐藤純彌が監督した『愛欲』には、前作に引き続き三田佳子が佐久間良子とともに主演をつとめています。

しかし『廓育ち』が、川野彰子の同名小説を原作に、棚田吾郎が見事な脚色をしたのに比べ、
『愛欲』は森川英太郎と佐藤純彌が共同で脚本を作っていますが・・・お世辞にもよく出来た脚本とは言えません。


“東映女性大作”と題するこの映画の予告編では「華麗なる対決」だの「惜しみなく競う二つの愛」だの「現代の愛を問う」だのと大時代的なキャッチフレーズが冠されていますが、大袈裟すぎ(苦笑)。


麻生食品の宣伝課長補佐・江崎哲也(三國連太郎)をめぐる、銀座のマダム・野村奈津子(三田佳子)と京都で旅館を営む清水由喜(佐久間良子)との“女の対決”?? いえ、女の対決だとか、男を取り合うというほどドロドロした女の情念が表れているかといえば・・・それほどでもなく、しかもこの作品がどうして成人映画に指定されているのかも理解できないのです(過激なシーンや表現もないのに・・・)。

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〈佐久間良子演じる由喜が営む旅館があるのは清水二年坂のふもと〉


キューピットマークでおなじみの麻生食品。その製菓会社で年間40億円もの広告費を一手に担っているのが三國連太郎演じる江崎哲也。とにかくやり手社員という設定です。
缶ジュースで中毒事件を起こしても、保身を気にする上司とは裏腹に、素早く対応する敏腕社員。

恋人は銀座の高級バーを営む野村奈津子(三田佳子)。
麻生食品の専務・麻生公輔(丹波哲郎)とは学生時代からの友人という関係。

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ところが・・・京都に出張した際、旅館を営む未亡人の清水由喜(佐久間良子)と恋に落ちてしまったから、さあ大変。魔性の女・由喜に惚れ込んでしまったことから彼の人生の歯車が狂いだし・・・。

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〈このロケ地は、東山の大谷本廟の墓地。二人の向こうに見える広い道が五条通です〉

由喜に逢いたい一心で、当時はまだ運行していた東京・大阪間の深夜便の飛行機に乗って京都に向かったり、恋人・奈津子を振り切ったその足で東京から京都までタクシーで駆けつけたり・・・。


女にうつつを抜かしている江崎を見て、親友で上司でもある麻生は心配し、それでも我に返らない彼に向かって言い放った「40億の後光がなければ、鉛同然の人間だ」との言葉がずっと心にわだかまりとして残り、さらに江崎を後戻りできない窮地へと追い込んでいきます。

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由喜に江崎のことを諦めさせようと説得する麻生と彼女が一緒にいる場面に江崎が遭遇し、由喜の煮え切らない態度に激怒。ついには恋人の奈津子との結婚を決意しますが・・・。

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婚約の披露パーティーの日、もう別れたはずの由喜が東京にやってきて「東京と京都に離れてても、よう聞こえました。由喜、由喜って、あんさんの呼ぶお声が・・・」と泣きつかれては、もう江崎は暴走モードに突入です。由喜と一夜をともにして、パーティーをドタキャン。

しかも、悪いことは重なるもので(笑)、その日にはもうひとつの大きなトラブルが発生。広告の企画としてあたためていた麻生食品の“世界一周の懸賞”を発表する直前に、他社に同じ企画を先に発表されるという大失態が明らかになったのです(ありがちな展開です(苦笑))。翌日の朝刊に間に合うよう、新聞社の輪転機を止め、広告を掲載させる力を持っている存在は江崎だけ・・・。しかし、江崎の所在は不明のままで・・・。

翌日、出社した江崎は親友の麻生から北海道への左遷の辞令を受けますが、自ら辞表を提出し、退社。
40億円の後光を断ち切り、自分だけの力で広告代理店を作ろうと画策するも、見込んでいた人間からは一緒に仕事をすることを断られる始末で。悲しいかな、麻生食品の大看板がなければ江崎も所詮、ただの人・・・だったのです。

失意のうちに、すがりつける人間といえば京都にいる由喜のみ。
そして由喜の旅館に転がり込んでいた間に、奈津子は自室で服毒自殺を図り、そのことを東京からの電話で知った由喜はショックを受け、江崎に内緒で抹茶に毒を盛り無理心中を図ります。

そして、奈津子と江崎は一命を取り止め、由喜だけが命を落とす・・・と(恋に生きる魔性の女も脚本の上では、これもまた悲しいかな、使い捨て(泣))。

最後は・・・何もかもをも失ったただの江崎を、それでもなお、店の権利書を差し出してまで支えようとする奈津子。しかし由喜の墓前で江崎は奈津子に誓うのです。
「もう一度自分の中の何かをたたき壊して、何かを築き上げてみたいんだ・・・その本当の何かをつかんだと思った時、その時に君と会おう」と。もう、目の前の墓に眠る由喜のことはないがしろです(苦笑)。

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こういうドラマをフェミニストは評するのでしょう「オトコ目線のメロドラマ」だと。しかし、フェミニストでなくても思いますヨ。ちょっと筋書きが安易すぎる上に、オトコに都合よすぎ・・とネ。


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野村奈津子(三田佳子)が運転するのはターコイズブルーの190SL。名車中の名車です。さすがは銀座の一流ママ。


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この映画の衝撃シーン度から言えば、由喜を演じる佐久間良子が着物のままでドブ池に入っていくこの場面がMAXでした。次点は同じく佐久間良子がビールの注がれたガラスコップを握りつぶすという場面でしょうか。



2012年01月22日 23:55

鍵 監督・市川崑 1959年 大映


原作は、谷崎潤一郎が1956年1月号の『中央公論』に発表した同名小説。
小説の発表時は国会でもその扇情的なストーリーや表現方法を巡って問題になったという、いわく付きの作品です。

物語が時代を超えて受けるのか、この市川崑監督の『鍵』(1959年、大映)を皮切りに、谷崎潤一郎の「鍵」は現在まで五本の映画化がなされています。

市川崑(1959年、大映)
神代辰巳(1974年、日活)
木俣堯喬(1983年、東映)
ティント・ブラス(1984年、ベニスを舞台としたフランス・イタリア映画)
池田敏春(1997年、東映)


さて、市川崑監督の『鍵』(大映東京)は、前年に公開された同監督の代表作の一つ『炎上』(1958年、大映京都)で脚本を担当した和田夏十と長谷部慶次に加え、監督自身も脚本に携わり、出演者も『炎上』から中村鴈治郎、仲代達矢、北林谷栄を、そしてカメラマンには宮川一夫を、と常連を起用しているのですが・・・、
エキセントリックな役者の演技と演出は、果たして受けを狙ったものなのか、そしてそれが狙い通り観客に受けたのか・・・評価に困る作品です。

仲代達也の大袈裟なジェスチャーによる独白から始まる展開。そして、登場人物すべてが道化をイメージするかのように、強すぎる白粉で化粧をし、ただならぬ雰囲気を出しています。

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京マチ子にいたっては、あり得ない角度の眉毛! もはや触覚です(苦笑)。

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1960年にカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞するなど“世間的”には評判の高い作品なのですが・・・個人的には“よくできた作品”とは言い難いですネ。


オープニングのクレジットは、京都市電の底部の影を利用した斬新なカットで映され、さすが宮川一夫と思わせたのですが・・・いかんせん、その後は驚くほどの突飛なカメラワークはありませんでした。

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あらすじ・・・、

いつまでも若さを保っていたい古美術鑑定家の剣持(二代目中村鴈治郎)。彼が通う病院の若い医師・木村(仲代達矢)は剣持の娘・敏子(叶順子)の恋人でもありました。
剣持は若さを保つため、密かにある計画を企てます。器量のよい妻の郁子(京マチ子)に木村を近づかせ、彼らの睦まじい関係をのぞき見ることで、自ら嫉妬と興奮を呼び起こし、若返る術にしようというのです。

日頃から剣持家に出入りする木村が、剣持やその娘で決して器量がいいとは言えない敏子と親密になっているのにも理由がありました。
それは、美術界の大家である剣持の名声という後ろ盾と、裕福な家庭の敏子との結婚で開業医への道が開けるかもしれないという打算があったのです。

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〈敏子役の叶順子は、大映のスター候補として活躍するほどの美貌を持つ女優ですが、この作品では野暮ったい化粧と、無表情な演技で、魅力のない不気味な女性を演じています〉

木村と郁子は剣持の思惑通り、お互いが惹かれ合います。しかし一方で、木村から距離を置かれた敏子は家を飛び出してしまって・・・。

これ以上、木村と妻の郁子が深い関係になるのは危険と感じた剣持は、木村と娘・敏子との結婚を急いで決めてしまうのです。しかし時すでに遅し。日頃から血圧の高かった剣持が倒れ、そのまま息を引き取ってしまいました。

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〈夫の剣持が亡くなり、妻の郁子はこの表情!〉

剣持が亡くなり、家にあった美術品のほとんどが美術商からの借り物で、家すらも抵当に入っていることを知った木村は、母娘の前から姿を消そうと決意します。

葬式も終わり、一段落した三人だけの団欒の席で、娘の敏子は母親の毒殺を謀ろうとして・・・。そして、この家庭の異常な様子の一部始終を静かに見守っていたお手伝いの婆や・はな(北林谷栄)は作っていたサラダに農薬を振りかけて・・・。

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WS000058_R_20110829002451.jpg 〈岡崎の天王町〉



菊野大明神(法雲寺) その1

2012年01月22日 23:56

菊野大明神(法雲寺)

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京都で最も縁切りの霊験があるとされるのが「菊野大明神」。
河原町二条を上がった法雲寺という浄土宗の寺の中にあり、“知る人ぞ知る”縁切り祈願の祠です。

大明神とはいうものの、祀られているのは「菊野さん」とよばれる自然石。

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今の法雲寺は本堂の東に庫裏、そして庫裏のさらに東に「菊野大明神」があるだけの閑散とした寺域となっています。

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〈まわりには高層マンションが建ち並び、境内も駐車場と化し、かなり経済的に厳しい状況をうかがわせる〉

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もともとこの場所は、正暦元(990)年に関白太政大臣・藤原兼家が邸宅を寺に改めて創建した法興院があったところ。その後、兼家の私寺は廃絶し、邸宅の池水の跡の泉だけが残っていましたが、そこに永禄10(1567)年、源蓮社清善という僧侶が草庵をむすび、さらに元和元(1615)年に堂宇が建立され伽藍が整ったのが法雲寺の始まりとされています。

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〈本堂は火災により焼失後、文化15(1818)年に再建されたもの。屋根瓦には獅子の他に、めずらしく金剛力士像が備え付けられている〉


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「菊野さん」は明治の初めまで、中京区東洞院三条角にあった曇華院という寺の前に祀られていました。婚姻の行列は、この石の前を避けて通るほど、有名な石だったようです。


さて、「菊野さん」へは・・・、

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庫裏に入ると、「菊野大明神へご参拝の方は、ローソク、線香を二本ずつお供えしてください。お代は百円です」と書かれ、香灯代入れの箱が置かれています。

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そして庫裏を抜けると、東庭があって、その一角にお堂というよりも納屋風の建物があり、その中に目当ての菊野大明神が祀られています。

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菊野大明神(法雲寺) その2

2012年01月22日 23:57

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〈お堂の中は供えられた線香の煙が満ち、無数の提灯が天井からぶら下がっている〉

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縁切り石となった由縁は、「宇治の橋姫」が宇治から貴船神社へと通う毎夜、この石に腰を掛けて休んだからだとか。
「宇治の橋姫」といえば、男への深い嫉妬から、相手の女を呪い殺そうと貴船神社に七日間通って丑の刻参りをし、生きながら鬼となった人物。渡辺綱が一条戻橋で出会った鬼も、この宇治の橋姫でした。

また、一説には小野小町に恋した深草の少将が、腰掛けて休んだことから、縁切り石になったとも言われています。
深草の少将は小町の元に百夜通いをし、その最後の晩にあえなく亡くなってしまい、その無念の思いが「菊野さん」に乗り移ったのだとも。

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ともあれ、明治5年に曇華院が嵯峨野に移転し、その後どういうわけか「菊野さん」は法雲寺の境内に移されます。ところが、その存在を寺の人間すら忘れていた時、ある山伏が法雲寺を訪れ、「この寺に菊野という石があるはずだが?」と住職に尋ねました。菊野とよばれる石を知らなかった住職が、境内に置かれている縁切りの言い伝えがある石を示すと、山伏は「それだ」といって、石の前にぬかずき法楽をはじめ、東庭に西に向かって安置し、祭礼は3月16日、さらに毎月16日には法要をして厚く敬えば、「この石に祈る人には、悪縁を切って良縁となる」と言い残して去っていった・・・という奇妙な出来事があったそうです。
それ以来、境内の東庭に移し、祠がつくられ、恋人や夫の浮気を断ってほしいという女性や、娘と恋愛関係にある男性との縁を断ってほしいと願う親など様々な人たちが、現在も“ひっそり”と訪れてくるのです。


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祠は、山伏の言ったとおり、西に向かって安置されていますが、祠の中に「菊野さん」らしき石があるのかどうかはうかがえません。


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お堂の東壁、菊野大明神の祠の裏側には、仏画の額縁が飾られ、その横には残念な貼り紙が・・・。

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そしてどうやら、2000万円をかけた菊野大明神の新堂建築の寄進を募っているようですが・・・、

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10年以上前の平成12年3月現在で、寄付金の合計が215万円あまり、寺自体の積立金が200万円と、かなり厳しい状況のようです・・・。


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最後に、祠の正面の提灯をよくよく見ると・・・、

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「菊川大明神」・・・名前が間違ってる・・・。


もう少し、人に知られて一日も早く新堂が建つといいですね。





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