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蔵の中 その1

2011年09月02日 00:48

蔵の中 監督・高林陽一 1981年


あらすじ。

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昭和10年、京都にある出版社「象徴社」の編集長・磯貝三四郎(中尾彬)の元へ、蕗谷笛二(山中康仁)という胸を病んだ青年が小説原稿を持ち込んできた。

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評論雑誌『象徴』を出版する磯貝だが、小説の持ち込み原稿は受けないと断ろうとする。しかし笛二は読んでもらわないと、転地療養にも行けないと頑なに居座った。仕方なく預かることを承知した磯貝に、「おもしろいに決まっていますよ、少なくとも先生には・・・」と意味深な言葉と笑みを残して、笛二は象徴社を後にした。

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原稿の題名は「蔵の中」。そこには肺を病んだ姉・小雪(松原留美子)を慕い、姉が隔離された蕗谷家の別邸にある蔵の中に入り浸る弟・笛二との暮らしが描かれていた。

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小雪は五歳の時に中耳炎に罹り、聾唖となった。そして胸をも病んでしまった今、他人にうつさないようにと薄暗い蔵の中で、からくり人形や錦絵を見て、ひっそりと暮らしていた。

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弟の笛二は、女中の婆や(小林加奈枝)が病気がうつると心配するのをよそに、姉がいる蔵の中に出入りする。弟が姉を思う愛情は、体を拭いてやったり、喀血した姉の唇から、血を吸い取って楽にしてやるほど偏狂なものだった。

いつしか姉と弟は男女の関係となる。しかし、弟は背徳の行為に後ろめたさを感じ、一方では姉の儚い運命に同情を寄せ、断り切れずに姉との情愛に溺れていく・・・。

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ある時、笛二は蔵の中で遠眼鏡を見つける。蔵の窓からその遠眼鏡で覗くと、京都の町が一望できた。白川の行者橋を金魚売りが歩く姿。南禅寺の水路閣では意味ありげな男女が、物憂げに佇んでいる姿・・・。
そして、笛二と小雪のいる蔵から、そう遠くない一軒家の座敷には、かの「象徴社」の磯貝と、その愛人・お静(吉行和子)の姿があった。

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磯貝は妻を亡くしたばかりで、お静は高利貸しの未亡人。磯貝がまだ三高の書生で、お静が新京極のカフェで女中をしていた頃からの知り合いだった。
しかし、若かりし頃の磯貝が出版事業の援助をしてくれる資産家の妻と結婚したことから、お静は歳の離れた高利貸しと仕方なく結婚した。

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そんな二人の事情は、姉と会話をするために幼い頃から読心術を会得していた笛二にとっては、容易いことだった。

お静は磯貝に、儲からず忙しいだけの出版社を辞め、自分が養うから一緒になろうと、言い寄っていた。
磯貝は出版事業への思いを断ち切れずに、また妻が亡くなって四十九日も経っていないことから、結婚はすぐには出来ないと口よどむ。

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日に日に感情的になっていくお静は、不審な最期を遂げた磯貝の妻は、実は磯貝が財産目当てで毒殺したのだろうと核心をつき、磯貝の弱みを握ることで結婚を迫る。しかも磯貝はお静に借金を背負っていた。

次第にヒステリックになるお静に、激高する磯貝。そしてついにお静の首を縁側で締め、殺してしまった。

その殺人を蔵の中から見ていた、笛二と小雪。

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将来を儚む小雪は、笛二にあのように首を絞めて殺してくれと頼む。
もちろん拒絶する笛二だったが、そこに蔵の外から婆やの声が。笛二が訝しんで様子をうかがうと父親も一緒にいて自分を引き戻しに来たようだった。

姉と引き離される事態に戸惑った笛二は蔵の階段で、血を吐く。姉の肺病がいつしか彼にもうつっていた。
そして笛二は自らの血がついた手で、姉の首を締めていた・・・。

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象徴社の事務所で「蔵の中」を読み終えた磯貝は、急いでお静と暮らしていた家に向かった。そこから見回すと、確かに一軒の蔵が見える。

蔵のある「蕗谷別邸」と書かれた門扉を入ると、ひとりの若い女中(上中美樹子)がいた。

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しかし、その女中によると、かつても今も蔵の中にいるのは笛二だけで、婆やという人物は自分が奉公する二年前に亡くなったといい、姉の小雪なる人物もいないという。


そして、笛二がいるという蔵に上がり込み、磯貝が蔵の中で見たものは・・・。

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蔵の中 その2

2011年09月02日 00:48

「蔵の中」は昭和10年8月号の『新青年』に発表された横溝正史の小説。文庫本にして40ページにも満たない短編小説です。

監督の高林陽一にとって、横溝作品の映画化は『本陣殺人事件』(1975年)に次ぐ二作目でした。

横溝正史といえば、市川崑監督による『犬神家の一族』(1976年、角川春樹事務所)からはじまった横溝シリーズの映画化が一大ブームをもたらしましたが、『病院坂の首縊りの家』(1979年、東宝)でいったん終了。

しかし、このブームを挟むように、横溝正史原作による高林映画が『本陣殺人事件』(1975年、ATG)と『蔵の中』(1981年、東映、制作・角川春樹)としてあったのです(ちなみに、『蔵の中』と同時上映されたのは、篠田正浩監督による『獄門島』でした)。

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『蔵の中』では、翌年の高林監督による『雪華葬刺し』(原作・赤江瀑)も手がけた桂千穂が脚本を担当していますが、高林監督と桂千穂の脚本は相性が良かったのでしょうか。原作とは物語の内容は異なるものの、原作に大きく発想を得た見事な脚色がなされています。

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〈映画のオープニングは中尾彬扮する磯貝三四郎が雨の中、亡き妻の墓参りをする怪しげなシーンから。内藤丈草の「かげろうや塚よりそとにすむばかり」の句が、これから始まる物語を象徴しています〉

耽美、幻想、頽廃・・・に満ちた『蔵の中』『雪華葬刺し』の両作品は、高林陽一にとっても監督キャリアでの全盛期を象徴する作品といって間違いないでしょう。


「蔵の中」の原作では・・・物語の舞台は東京本郷、小石川あたり。姉と弟との情交はなく、慕っていた姉が亡くなった後、自らも肺を病み転地療養から戻ってきた笛二が、かつて姉と遊んだ蔵の中でひとり、白粉や口紅、眉墨を塗って化粧をし、姉の形見の振り袖を身につけ、その美しさにうっとりとするのです。
そして、そんなひとり遊びにも飽きた笛二が遠眼鏡を手にし、覗いた先が磯貝とお静が過ごす座敷だったというわけです。
妻を殺し、愛人であったお静をも殺した出版社「象徴社」の名編集長・磯貝のもとに、遠眼鏡で出来事の一部始終をうかがっていた笛二がそのあらましを描いた小説を持っていくというストーリーですが・・・実際には妻も愛人も殺していない磯貝は、ただお静との情事を覗かれていたことに激怒して、笛二に原稿を送り返します。が、その後、新聞記事で笛二が病気を苦にして蔵の中で自殺したことを知り、愕然とする、という内容です。

江戸川乱歩はこの作品を、横溝が谷崎潤一郎の「恐ろしき戯曲」に刺激されて書いたのではないかと指摘したのだとか。

そして原作の中には、映画の持つ妖しさの雰囲気はそれほど見あたりません。

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映画の脚本では、原作の笛二の内面から姉・小雪を引きはがし、別人格として蔵の中に据え付けることによって、蔵の中を笛二の内面そのものとして描きだすことに成功。現実と虚構の世界を浮遊するかのような幻想的な物語たらしめているのです。


そして映画『蔵の中』では胸を病んで蔵の中に隔離されている聾唖の姉と、その姉を慕う弟とのいけない性愛が物語の大半を占めています・・・が、ここで重要なのが、実はこの姉・小雪を演じる松原留美子はニューハーフだということです。

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公開当初は、その話題性もあり、恐らく多くの人がその事実を知った上で観たのでしょうが、後に観た人の中には、松原留美子を女性だと思って自然と観ていた人も多かったようです。
しかし、ニューハーフが演じる姉と弟との情交という事実と彼女を起用した監督の狙いこそが、この映画をより耽美、幻想、頽廃の世界へと誘う役割を高めていたと考えるのが自然です(知ってから観た方が、より世界観を楽しめる・・・でしょう)。

1980年頃に「ニューハーフ」という呼称が生まれ、その中でも松原留美子はニューハーフを初めてキャッチフレーズにしたタレントとして知られています。
キャバレーにホステスとして勤めていた1981年、六本木フェニックスのイメージガール「六本木美人」に男性であることを隠して応募し、起用された後に、男性であることが発覚(最近も、そんなニューハーフの人がいましたね)。マスコミはこぞって彼女を取り上げ、同じ年にこの『蔵の中』で主演デビューを果たすのです。その後も歌手デビューをしたり、テレビ出演をしたりするものの、その活動期間は一年ほどと短かったようです。

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しかし・・・当時は“どこから見ても女性”と評判だった松原留美子さんですが、映画の中では、髪型のせいもあるのでしょうが・・・ところどころ男性に見えてしまう場面も(むしろ、ニューハーフと知らずに観れば、映画全体の印象もまた違ったものになったのかも知れませんネ。どうしても、あら探しをしてしまうのです・・・)。

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そして弟役を演じた山中康仁は、黒澤明監督の『影武者』(1980年)では森蘭丸を演じ、大林宣彦監督の『転校生』(1982年)や鈴木則文監督の『パンツの穴』(1984年)にも出演。すでに引退していますが、線の細い肺病の文学青年役としては、なかなかの存在感です。

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演技がうまいというよりも、虚構の幻想世界を生きる人間としての存在感が抜群なのです。

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松原留美子も山中康仁も、この映画のためだけに存在したような役者でした。


また、カメオ出演として、ともに8ミリ映画の自主制作映画出身で高林監督の盟友とも言うべき、大林宣彦が金魚売りの役で登場。

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ちなみに、高林監督も大林監督の『ねらわれた学園』(1981年)や『時をかける少女』(1983年)に出演しています。

さらに制作に関わった角川春樹も南禅寺の水路閣で女性と二人、所在なさげに佇んでいます。

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この隣の女性は、特別出演でクレジットもされている、きたむらあきこ、です。


最後に・・・主題歌である桃山晴衣の「遊びをせんとや生まれけん」という曲、映画の世界観に合いすぎで、怪しすぎます・・・。



夢の浮橋

2011年09月07日 01:14

夢の浮橋 谷崎潤一郎 1959年

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『夢の浮橋』といえば1971年に倉橋由美子が同名の小説を発表していますが、今回取り上げるのは、1959年10月号の『中央公論』に発表された谷崎潤一郎の「夢の浮橋」です。

舞台は京都下鴨にある「五位庵」という邸宅。これは谷崎が1949(昭和24)年4月から1956(昭和31)年の暮れまで下鴨泉川町に住んだ「潺湲亭(せんかんてい)」がモデルとなっています。

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〈右が「糺の森」、左が「潺湲亭(現在の「石村亭」)〉

その邸宅は後に谷崎から日新電機に譲られ同社の迎賓館「石村亭(せきそんてい)」として、今も谷崎が住んでいた当時の赴きそのままに同地に存在します。
(ちなみに余談ですが、「石村亭」のすぐ北にある「下鴨泉川亭」(前の「葵亭」)は、かつて川端康成が『古都』(1961年10月から1962年1月まで『朝日新聞』に連載)執筆のため住んでいた西陣の織物会社「とみや織物」の別荘でした。)

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〈「下鴨泉川亭」(前の「葵亭」)〉


小説中では、この邸宅の庭に五位鷺がよく飛んでくるので、祖父の時代から「五位庵」と呼び習わしているという記述が出てきますが、実際、賀茂川と高野川が交差する一帯は五位鷺、コサギ、アオサギ、鴨の生息地でもあり、谷崎が住んだ「潺湲亭」の庭にもそれらの野鳥が訪れていたのでしょう。
五位庵の場所は、糺の森を西から東へ横切ったところにある。下鴨神社の社殿を左に見て、森の中の小径を少し行くと、小川にかけた幅の狭い石の橋があって、それを渡れば五位庵の門の前に出る。

“かろうじて背徳に陥っていない”近親相姦、母恋い(マザーコンプレックス)を具現化した作品で、そのギリギリの線の狙い所とストーリーの発想は谷崎晩年の名作・・・でしょう。

主人公の名は、その名も「糺」。
糺の森という単なる近くにあった地名を取って安易に付けられた名というよりも、下鴨神社(賀茂御祖神社)の祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の“人々の訴えをこの森の中で聞き、訴えの裁きをしていたという言い伝えから発祥した「糺の森」という語源”の意味を含ませた主人公の人生を象徴する名前としての意味合いを持たせた・・・、もしくは、主人公「糺」の生き方を読者に問うというような意味を含んでいる・・・と思いたかったのですが・・・。

この主人公「糺」は、生母に「数え年六つの秋」に死別し、「そして二年餘りを過ぎて第二の母を迎え」てから、倒錯の愛情の渦中へと“我知らず”誘われるのです。
全ての元凶は、「糺」の父親にありました。

「糺」の生母は、彼の弟か妹を宿し、23歳で子癇(妊婦特有の脳の循環障害)に罹って亡くなります。
そして父親は、幼い「糺」のことを思ってか、第二の母との結婚に際し、「お前は二度目のお母さんが来たと思たらいかん。お前を生んだお母さんが今も生きてゝ、暫くどこぞへ行てたんが帰って来やはったと思たらえゝ」と念押し、実際、父親は第二の母を「茅渟(ちぬ)」という第一の母と同じ名で呼びつづけるのです(この時点で父親がかなりおかしな人間だとわかるはず(苦笑))。

そしてある晩、「糺」が乳母と一緒に寝ようとすると、継母が入ってきて言うのです。
「糺さん、あんた五つぐらいになるまでお母ちゃんのお乳吸うておいたの覚えといるか」「あんた、今でもお母ちゃんにそないして欲しいと思いやへんか」と。
もはや生母も継母もあやふやになりつつある「糺」にとっては、胸がときめく行為でしかなく、それ以来、十三四歳になり一人で寝るようになっても、母の懐が恋しくなると「お母ちゃん、一緒に寝さして」と継母の出ない乳を吸って子守歌を聴きながら眠りにつくのです。もちろん父親も公認で・・・。

そのような自分の行為を、主人公の「糺」もいけないこととは気づいているものの、しかし、やめることができません。

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継母と父親が結婚して11年目。「糺」が府立一中を出て三高に在学していた20歳の時、継母が身ごもります。
初めての弟・武を持つことが出来て喜ぶ「糺」でしたが、武は生まれてすぐに、しかも「糺」には知らされぬままに、京都の北、静市の百姓家へと貰われていったのです。


この時、父親と継母の「糺」自身への気兼ねから、武を手放したと思っていた「糺」でしたが・・・。

またもや三人だけになった家族に繰り返される、変態的家族関係・・・。
子は手放しましたが乳が張ってくる継母が、搾乳器で乳を搾り出している場に遭遇する「糺」。
乳の溜まっているコップを差し出し、飲んでみろという継母。
さらに「あんた今でも乳吸うたりお出来るやろか、吸えるのやったら吸わしたげるえ」と乳首を「糺」の方に向ける継母・・・(苦笑)。

そして腎臓結核を患う父親の寿命が残り少ないことがわかると、「お母さんを仕合せにするためには、お前が嫁を貰う必要があるが、それはお前のための嫁ではのうて、夫婦でお母さんに仕えるための嫁でないといかん」と、有無をいわさず出入りしている植木屋の娘・澤子が父親によって「糺」の妻に決められてしまうのです。


父親を中心に「五位庵」の中で繰り広げられている倒錯した偏執的な家族愛。しかもそのことに、かすかな違和感を持ちながらもただ流されていくだけの主人公「糺」。

そんな「糺」が父親も亡くなった後、ようやく最後に疑問に思うのです。
幼い武が、田舎の農家に貰われなければならなかったのは、「人目を盗んで丹波の田舎へ里子に遣られた武と云う子は誰の子なのか、あれは父の子ではなくて倅の子なのではないか」と親戚の人々が噂し、そんな息子のもとへ嫁に来るのは丙午生まれの澤子くらいしかいないことを父親は知っていたからで・・・と。そして植木屋としても、「糺」の家の財産目当ての婚姻でしかないという事実を。

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結局、物語の結末は、継母が不審な死を遂げ、「糺」はその死に妻の澤子が関係していると疑い、妻とは離別。そして「糺」が幼い頃より信頼し、田舎に帰っていた乳母を呼び寄せ、さらに唯一の身寄りである異母弟の武を引き取って「せめて武が一人前になるまでは生きながらえて、この弟にだけはあのような思いをさせたくない」と願う、なんともやるせない小説なのでした。


「糺」の独白で貫かれたこの小説。当初は「糺」という名に“糺の森の語源の由来”を意味づけしたのだろうと感じたのですが、しかし振り返ってみると「糺」は問題提起もせず、訴えもせず、ただ父親のいいなりという作者が意図的につくりだした宿命を生きてきただけのことで、主人公を中心に見れば、何とも不満の残る一作でしかありません。
しかし、近親相姦願望の相手が継母というひと捻りした、“いかにも”谷崎潤一郎的設定と展開(源氏物語に出てくる継母恋より病的です)が、背徳の香り漂う淫靡で陰湿な興味深い小説世界を繰り広げているのも、また事実なのです。



醍醐寺(下醍醐) その1

2011年09月10日 00:30

醍醐寺(下醍醐)


伏見区でも山科に近い醍醐にある、その名も醍醐寺。世界遺産にして、豊臣秀吉の“醍醐の花見”でも有名なこの寺院は真言宗醍醐派の総本山です。


醍醐寺の創建は貞観16(874)年。空海の孫弟子である理源大師・聖宝(しょうぼう)が准胝(じゅんてい)・如意輪の両観音像を刻み、笠取山の山頂に祀ったのが始まり。その後“上醍醐”といわれる笠取山山頂一帯は修験道者の修行場として発展しました。
また、醍醐・朱雀・村上の三代にわたる天皇の帰依もあり、麓には五重塔をはじめとする雄壮な大伽藍が建ち並び、麓の寺域は“下醍醐”と呼ばれるようになったのです。

都名所図会「下醍醐」
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 下醍醐〉

“上醍醐”と“下醍醐”とは同じ醍醐寺の中にあっても、険しい山道を隔てて一時間(2.5キロメートル)ほどの距離があり、また伽藍の成り立ちも少し違うことから、当ブログでは別々に紹介いたします。


しかし、この醍醐寺・・・どこでも、かしこでも拝観料を取りすぎっ・・・。


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〈旧奈良街道の松並木沿いに建つのが「総門」〉

まず総門を入って左にあるのが「三宝院」。醍醐寺は皇室をはじめ貴族や武士の帰依を受けて発展してきましたが、もっとも影響を与えたのが豊臣秀吉でした。

DSC03749_R.jpg 〈三宝院の入り口〉

永久3(1115)年、第14世座主・勝覚が創建し、歴代の座主が住まいとした三宝院ですが、現在の建物は秀吉によって慶長3(1598)年に再建されたものです。
唐門や表書院は国宝に、その他の建物の多くも重要文化財に指定されています。また庭園の設計には秀吉自身が関与したともいわれ、確かに桃山時代の絢爛さを伝える建物、庭園は見応えがあるものの・・・拝観料大人600円で写真撮影は一切禁止。

三宝院の庭園はすばらしいのですが、拝観に600円なら、参道から唐門を眺めているだけでも十分でしょうか。

DSC02274_R.jpg 〈国宝の「唐門」〉

唐門はおそらく修復されたばかりなのでしょう、漆黒の門に金箔が施された菊と桐の門は迫力満点です。

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三宝院を挟んで参道の反対側にあるのが「霊宝館」。もちろん入館料大人600円が必要です。

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昭和5(1930)年の醍醐天皇一千年遠忌記念として建設が計画され、昭和10(1935)年に開館。その後、旧来の収蔵スペースでは手狭になったこともあり昭和54(1979)年に新たな収蔵庫3棟を新築。さらに平成13(2001)年には平成館が増築されました。
霊宝館の中には4万点の国宝や重文、そして10万点におよぶ寺宝が納められていますが・・・多数の寺宝が集められているのには、醍醐寺の中でも、特に上醍醐のある地理的な背景と関係があるのです。

霊宝館の平成館大展示室には国宝の薬師如来坐像と、脇侍の日光・月光菩薩像の薬師三尊像が収蔵されていて、しかもこれは上醍醐にある薬師堂の本尊です。どうして上醍醐の本尊までもが霊宝館にあるのかといえば、笠取山の山上は今でも道が非常に狭く、消防車すら入ることが出来ません。そのために数々の寺宝が本来のあるべき場所ではなく、この霊宝館に集められ護られているのです・・・が、こうなっては仏像は“信仰の対象ではなく美術品”と揶揄されても仕方ありませんね。

近年では、平成20(2008)年に落雷による火災で上醍醐の准胝堂(昭和43(1968)年に再建)が全焼し、本尊の准胝観音も焼失してしまいました。
携帯電話も通じず、落雷の停電で電話も通じなかったようで、寺務所に泊まり込んでいた僧侶が山道を下山し知らせに行ったとのことです。しかも消防は20分かけて辿り着くような有様で・・・。

霊宝館の中には「本館」「平成館」「仏像棟」の三つがありますが、フルに開館している時期は、春と秋の“特別展”の時だけのようで・・・通常は「平成館」だけだったり「仏像棟」だけの開館だったりと通年で全てが見られるわけでもないようです。



・・・さて、下醍醐の伽藍に戻りましょう。

参道の正面に見えてきたのが西大門。通称、仁王門です。

DSC03757_R.jpg 〈西大門(仁王門)〉

慶長10(1605)年に豊臣秀頼により再建され、左右に控える仁王像は平安後期の作。平安後期の長承3(1134)年に仏師の勢増・仁増によって造立されました。もともとは醍醐寺の正門であった南大門に安置されていたものが南大門の焼失後に、この西大門に移されてきたのです。
並ぶ二体の仁王像は、頭の鉢の大きさのわりに小さい顔というアンバランスさから、従来の仁王像のもつ迫力に欠け、むしろ愛嬌のある滑稽な顔立ちが特徴。

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〈阿吽の仁王像〉

檜の寄せ木造りで作られた360センチの巨大な像に見えるまだら模様は、補修の跡なのだとか。


そしてこの仁王門をくぐり、ようやく数々の伽藍にお目にかかれるかと思いきや、またもや拝観料大人600円の徴収です・・・。



醍醐寺(下醍醐) その2

2011年09月10日 00:30

境内でまず目に入るのが、国宝の「金堂」。

DSC03533_R.jpg 〈金堂〉

もともと平安後期に建てられていた金堂が二度の焼失に遭い、現在の伽藍は秀吉の命によって紀州の湯浅から移築され、秀頼の時代の慶長5(1600)年に完成しました。

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内陣に安置されている薬師如来坐像(重要文化財)が本尊です。


そして、醍醐寺の中でもっとも文化財的価値があるのが金堂と同じく国宝の「五重塔」でしょう。なんといっても京都で最古の木造建築なのですから。

DSC03549_R.jpg 〈五重塔〉

応仁の乱で、伽藍の大部分を失いながらも、これだけが創建当時から残っているのです。

この五重塔は醍醐天皇の菩提を弔うため、第一皇子であった朱雀天皇が承平6(936)年に着工し、第二皇子の村上天皇の天暦5(951)年に完成したもの。高さはおよそ38メートル。そのうち屋根の上の相輪は約13メートルあり全体の三割を占めているのも特徴の一つ。

DSC02294_R.jpg 〈五重塔の相輪〉

天正13(1585)年の地震では軒が垂れ下がる被害を受けたり、昭和25(1950)年の台風で被害を受けたものの、現在にまで至っているのです(昭和29年から35年にかけて全面的な解体修理が行われました)。

また、初重内部にある両界曼荼羅や真言八祖の壁画は平安絵画の重要遺産として、建物とは別に国宝に指定されてもいます。


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〈清瀧宮本殿(右)と拝殿(左)〉

五重塔の西にある醍醐寺の鎮守社。上醍醐にあった清瀧宮の分身を移したもので、現在の社殿は永正14(1517)年に再建されました。


DSC03555_R.jpg 〈不動堂・護摩道場〉

五体の不動明王像を安置し、堂前では柴燈護摩が焚かれます。


DSC02298_R.jpg 〈大講堂〉

下醍醐の伽藍の中でも上の方にあるこの「大講堂」を中心とした林泉や弁天堂、鐘楼、伝法学院等を総称して大伝法院といい、醍醐天皇一千年御忌を記念し、昭和5(1930)年に造築された、比較的新しい伽藍群です。

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〈大講堂から見た弁天堂と弁天池〉

大講堂の堂内には平安末期に製作されたといわれる醍醐寺最大の丈六の木造・阿弥陀如来坐像が祀られています。


下醍醐の見どころは、京都で最古の木造建築を謳う五重塔くらいで、比較的広い境内にポツリポツリと立つ伽藍の印象は閑散としたもの。残念ながら600円の感動は得られませんでした。


そして、下醍醐の伽藍を上っていった先には・・・回転式のゲートが・・・。しかも「再入場はできません」との念押しです(苦笑)。

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