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893愚連隊 その1

2011年07月02日 00:53

893愚連隊 監督・中島貞夫 1966年

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登場する人物がどれも信念をもっておらず、イマイチ人間的に格好良くもないのに、なぜか映画全体はやけにスタイリッシュ!

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時代劇に行き詰まっていた東映が1960年頃から徐々にヤクザ映画の制作に乗りだし、『仁義なき戦い』以降は主力商品として力を入れ、爆発的なブームを起こしました。
その東映のヤクザ映画の中でも、任侠路線(鶴田浩二主演の『人生劇場』(1963年)シリーズ)から実録路線(菅原文太主演の『仁義なき戦い』(1973年)シリーズ)へと移り変わる移行期に作られたのがこの『893愚連隊』(1966年)で、位置づけからいってもなかなか重要な作品であるように思われます。


といっても、松方弘樹演じる主人公の「ジロー」らは、ヤクザではなくあくまで愚連隊。シノギとして白タクの斡旋や風俗業への女性の紹介で喰いつないでいる“チンケ”で中途半端な不良でしかないのです。

ジローの後輩で愚連隊仲間には、荒木一郎演じる「参謀」、広瀬義宣演じる「オケラ」。そしてケン・サンダース演じるハーフの「ケン」に、近藤正臣が浪人生で女たらしの「幸一」に扮し、15年もの懲役を終えたムショ帰りの「杉山」には天知茂。

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乗り逃げ、ただ食い、当たり屋、美人局・・・彼らの悪さや、思いつくシノギの種類も中学生の悪ガキレベル(苦笑)。

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〈ジロー(松方弘樹)らが、白タクを斡旋しているのは京都駅〉

彼らの口癖は「愚連隊は民主主義。博打打ちと違って親分もいなければ、儲けた銭は仲間内できれいに分ける」というもの。ちなみに、彼らがいう「博打打ち」とは、いうなればヤクザのこと(この作品では「ヤクザ」との呼称は出てきません)。

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〈オシャレな浪人生の女たらしという役にピッタリな近藤正臣〉


当時、映画撮影の手伝い、特にロケーションの整理などには愚連隊の若者が活躍していたそうで、そんな若者たちと知り合い興味を持ったのが助監督時代の中島貞夫。そして彼らの生態を取材して出来上がったのが、この『893愚連隊』の脚本だったわけです。

まだ、ヤクザ映画が当たるか当たらないかはわからない中で、東映は任侠映画制作を始めていて、若手の中島貞夫を中心に現代の愚連隊を題材とした映画を企画します。

WS000036_R.jpg 〈京都駅周辺〉

京都撮影所長だった岡田茂(後の東映社長)に企画の了解を得て撮り始めたのがこの作品だったのです。しかも、時代劇ばかりを制作していた東映京都撮影所には現代劇を撮るためのノウハウを持った人間もおらず、中島ら若手の制作陣は一から手探りの状態で始め、京都の街中をオールロケーションの無許可撮影という無謀な手段を用いました。それがむしろ当時としては斬新な映画として注目される要因にもなったようです。

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〈大宮通からの東寺五重塔〉

そして1966年といえば、カラーフィルムが浸透していた時代。しかし『893愚連隊』がモノクロフィルムを使って撮影されているのには、若手だけの制作陣で、しかも馴染みのない現代劇という点を憂慮した会社の上層部が、制作費を出し渋ったせいでもあるのですが・・・このモノクロの映像だからこそ、松方弘樹ら愚連隊のスーツにサングラス、そして中折れ帽というスタイルが小粋に映って見えるのです。

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〈軽薄なチンピラ役が憎いほど様になっているのが参謀役の荒木一郎。自ら作詞作曲した『空に星があるように』で歌手デビューする数ヶ月前にこの映画に出演。ここでの好演が認められて中島貞夫作品の常連となります〉



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893愚連隊 その2

2011年07月02日 00:53

特攻帰りで愚連隊の創設者は、天知茂演じる杉山。
15年間のムショ生活で、当時の仲間は博打打ち(ヤクザ)の幹部になっていたり、堅気になって幸せな家庭生活を築いていたり・・・。そして杉山自身もヤクザの道へと誘われるものの、「親分持ちは性に合わん」という理由で、ひとまわり以上も若いジロー(松方弘樹)らとともに、愚連隊としてたむろするのです。まわりからは「兄貴、兄貴」と呼ばれるものの、陰ではジローらに「年増」と蔑まれ・・・。

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イマイチ冴えないジローら愚連隊の連中でしたが、参謀(荒木一郎)が儲け話を拾ってきます。
西陣の倒産会社の社長と手を組み、担保を手に入れようと企むのです。しかし博打打ちの黒川(高松英郎)が債権者会議に乗り込んできて、ジローらは顔に泥を塗られる羽目に・・・。愚連隊のチンピラ風情に本職は手に負えない存在なのでした。


そして黒川ら博打打ちの縄張りの元では、大きなシノギも稼げないことを悟った小賢しい幸一(近藤正臣)は次第に博打打ちに近づき・・・。


ある日、杉山のムショ仲間が大きい儲け話を持ってきます。製薬会社の新薬を輸送中に盗み、それを製薬会社に1000万円で買い取らせようというもの。この話を杉山から聞いた愚連隊の一同は大はしゃぎ。

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〈このロケ地は、かの五條楽園ではありませんか(笑)〉

まんまと新薬を盗んだ連中でしたが、幸一のタレコミでまたしても博打打ちの黒川に介入され、「勝てへん戦争すんのは、アホのするこっちゃないけ」とすんなりと諦め、みすみす新薬を博打打ちへ渡すことに・・・。

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〈ケン(ケン・サンダース)は次第に、杉山(天知茂)を兄貴のように慕うようになって・・・〉

そんな中、杉山とケンはフラフラした愚連隊生活から抜け出すために、二人だけで新薬を密かに運び出そうとします。
しかし、運搬の最中に、博打打ちの一団がやってきて、杉山はあえなく殺されるのです。

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死んだ杉山の愛人だった、のぶ子(稲野和子)に「誰の言うことかて言いなりや。人間やないのや! ウジ虫や! インポ!」と蔑まれたジローは「わい、インポやないで。わいかて男や、人間や。博打打ちと勝負をすんのや!」と奮起し、参謀とオケラを説得。初めて博打打ちと真っ向勝負の金の強奪を企てます。

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ところが、金を強奪したまではよかったもののの、黒川ら博打打ちに追いかけられる愚連隊。車で突っ走った先は、工事中の高速の高架。暴走する車の先は道が途切れていて、愚連隊の車は急停止。その横を博打打ちの車は勢い余って追い越して・・・お陀仏。

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車から降りたジローら三人が、落ちた博打打ちの車をのぞき込んでいる間に、サイドブレーキを引き忘れた自分たちの車はバックで斜面を下っていき、ついにはドラム缶にあたって炎上。車の中に残されていた1000万円の大金も水の泡ならぬ、灰に・・・。

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最後の場面は三条大橋の上での三人。「なんかええことないかいなあ」「しのぎにくい世の中や」と相変わらず甲斐性のない会話をしています(笑)。
そしてジョーを演じる松方弘樹が最後に放った言葉。「まあ、当分あかんで。ネチョネチョ行きとるこっちゃ」。

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そう、『893愚連隊』は、ネチョネチョと京都で生きているどうしようもない若者を描いている映画なのでした。



おまけ・・・博打打ちの黒川の手下には「仮面ライダー」の“地獄大使”でおなじみ、潮健児!

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京の走り坊さん その1

2011年07月06日 00:48

京の走り坊さん

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絵本『京の走り坊さん』(文・東義久、画・無㠯虚几(むいきょふう))は1995年に株式会社クレオから出版されました。


檀家の家にお札を配ったり、和尚さんの言づけを伝えるため、京都中を走り回っていたという足のはやいお坊さんの話です。

一年三百六十五日、毎日毎日、二百軒以上の檀家をまわり、人々はお坊さんのお札をありがたがり、その一途な姿を弥勒菩薩の生まれ変わりだと噂し・・・。
そして、お坊さんの足のはやい評判を聞きつけた殿様から“はやあし比べ”に出されるも、褒美にも目もくれず、すぐに京都に戻ってせっせと飽きもせずお札を配って走る日々。
京の都に大きな台風がやってきて大変な被害が出た時のこと。その日から走り坊さんは寺の仕事のほかに、薬や食べ物を困っている人たちの元へと持って回り、人々にはたいそう喜ばれ、京の人たちが走り坊さんの姿を見かけるとみんながこぞって手を合わせるようになった・・・という、そんなお坊さんの物語です。


この「走り坊さん」にはモデルとなる実在の人物がいました。それが絵本の時代から下ること、明治から大正にかけて京都の町を走り回り「今一休」と崇められた大蓮寺の役僧“籏玄教(はた・げんきょう)”さん、その人です。


その町中を走り回る姿は、当時の大阪朝日新聞で「珍物畫傳(ちんぶつがでん)」の一人として紹介されるほどの奇行の人物として有名で、流行性感冒によって49歳でなくなった際には新聞記事にもなりました。


「今一休と褒められた 走り坊主の大往生 三十年を走つて走つて走り抜いた」

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〈大正7(1918)年12月4日付『大阪朝日新聞 京都附録』(大阪朝日新聞の京都版)〉


お経を読むのもままならぬほどだったといわれる「走り坊さん」のことです。僧侶としての階級(僧階)は最下級に近かったのでしょうが、果たして現代における法主クラスの僧侶の訃報記事でも、これほど大きく扱われることはない、というくらいの記事の大きさ。
いかに「走り坊さん」が当時の京の人々に愛されていたかがわかりますね。

おそらく仙台でいうところの「仙台四郎」さんのような存在・・・でもあったのでしょう。



現在も大蓮寺は東山二条のお寺の多い一画に、“安産祈願の寺”として、また10世紀に造られた由緒ある十一面観音立像を安置することから“洛陽三十三所観音霊場”の第八番札所として存在しています。

しかし、もともとは仏具屋通五条下るの毘沙門町にあって、太平洋戦争時の道路拡張に伴い現在地に移転。つまり実在した「走り坊さん」の話は五条通にまだ大蓮寺があった頃の話なのです。



京の走り坊さん その2

2011年07月06日 00:48

さて、当時の大阪朝日新聞の記事によると・・・、
飛ぶが如く走るが如く洛中洛外を走つて走つて走り通した京都市佛具屋町五條坂下る大蓮寺の役僧籏玄教も流行性感冒には敵し兼ねて眠るが如く大往生を遂げた(中略)第一彼れは大の健脚家で雨が降らうが風が吹かうが彼れの走る姿を見ないことはなかつた
と綴られています。


「走り坊さん」こと籏玄教(本名・新田常治)は、1872(明治5)年に大阪の和泉泉南郡に生まれ、18歳の時に京都の大蓮寺に弟子入りします。
大阪にいた頃は病弱で体も小さく、汽車に乗るのも毎回子ども料金で通るほど。
ところが、入門した大蓮寺は当時、本堂や観音堂の再建途上にあって「走り坊さん」はその勧募(勧進)のため檀家まわりを中心に京都の町を走り回らざるを得なくなります。
すると生まれつき病身だった「走り坊さん」も自然と健康な体となって、むしろ常人以上の健脚ぶりが目につき始めるのです。その頃には町の皆から「常さん」との愛称で呼ばれていたようです。
そして月に一度は未明に起きて、四明ヶ岳(比叡山山頂)から鞍馬山を駈け、さらには愛宕神社に詣でるという到底今では想像できない行程を踏破していたのだとか。しかも『珍物畫傳』によると、その月一回の参詣も「市内數千軒の得意先の商賣繁昌家内安全火難除け等を祈願する爲」だというのです。
また、「常さん」の健脚ぶりに新米の郵便配達員は度々教えを乞いに来たりもして・・・。

そしてこれだけ一日中走り回れば腹が減るのは必定。小さい体ながらもすごい大食漢だったようで「日に飯一升酒一升餅一升に彼れの健啖を語るには餘りに貧弱すぎる正月の雑煮餅なら五十は譯もない、三度の食事は徑五寸に垂んたる朱塗の大椀に五杯乃至六杯は缼かさぬ」というほどに。


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〈大正7(1918)年12月4日付『大阪朝日新聞 京都附録』。新聞の記事には「走り坊主」こと籏玄教の写真の他に、生前愛用していた大椀の写真が載せられるほどの大食漢〉


大好物の酒に関しては幾度も大失敗をしていて、電柱に鼻をぶつけて帰ってきたり、酩酊の末に交番に引っ張ってこられ「走り坊主」とわかって放免されることもあったのだとか(笑)。


それでも人々は「走り坊さん」が「大きな坊主頭の法衣姿に汚い頭陀袋を下げてグッと丹田の邊りに力を罩め乍ら、彼れは緩急よろしきを得た一定の速力を以て毎日毎日」走り回る姿を、ありがたがったのです(亡くなる10年前に紹介していた『珍物畫傳』では「寒中でも貿易品の大扇子をあふりつゝ流汗淋漓と飛び廻つて居る」と形容されています)。


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〈仏画師・藤野正観氏作「走り坊さん」の図。「大蓮寺」と染め抜いたリュックのような頭陀袋。そして番傘に扇子。どこか滑稽で愛嬌のある人柄がにじみ出ています。図は、大蓮寺さんのHPより無断借用です〉


多少のお酒の失敗も許されるには訳があって、この「走り坊さん」、酒が好きな他は全くの無欲で、女性に声を掛けられても見向きもせず、檀家の家々を回る合間に有名だった彼に富豪が喜捨を授けても、いつも貧民窟に出入りしてはそこで困った人々に私財を分け与え、寺に帰ってきた時には嚢中には一文無しの状態だったという有様。そんな“僧侶の鑑”たる彼を人々が「今一休」と崇拝するのは当然のことでした。


さて、往生を遂げる際も、「走り坊さん」の真骨頂たる奇人の様子が見て取れます。
流行性感冒を患い寝込んでいた時、こっそりと起き出しては台所で酒をあおり、その姿に医師も飲酒を許してしまいます。死の直前には師僧の名を呼んでから「末期の酒一杯に舌鼓を打つてグーグー寝込んだ儘で」と酒に関しては満足の限りを尽くして彼岸へと旅立ったのです。1918(大正7)年11月20日、享年49歳でした。

「走り坊さん」の死に際し、師僧である芳井教岸氏(のちの大本山金戒光明寺六十五世法主)のコメントに「到頭西宮に走り込みました」とありますが・・・、いい言葉です(もちろん、酒所としての「西宮」と西方浄土とを掛けているのでしょうネ)。



京都大学の近代建築 その1

2011年07月15日 00:29

京都大学の近代建築 武田五一

京都における建築シリーズとして伊東忠太を取り上げましたが、京都の建築物を語る上で欠かせない人物と言えば・・・そう、武田五一です。

しかし・・・この人、「関西建築界の父」と呼ばれるだけあって、京都にある作品だけでもかなりの数に上ります。

ということで、今回は武田五一の携わった建築物があり、他にも数々の名建築の宝庫でもある、京都大学の建築物をまとめて見てみましょう。

新撰京都名所圖會 巻一 京都大学 - コピー
〈新撰京都名所圖會 巻一 京都大学〉

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〈google earth より〉

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〈google map より〉

京都の大学でもとりわけ、京都大学と同志社大学は開学当初から同じ場所にあって、明治期からの多くのレンガ建築が残っていることで知られています。
同志社は田辺への移転が計画された当時、今出川のレンガ建築群の行方を心配する市民の声も多かったようですが、今もウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計に代表される美しい建物は健在です。
唯一の例外は、1991年に学校OBや多くの市民の反対を押し切って取り壊された同志社女子大学の静和館(1911(明治44年)完成)でしょうか・・・。しかも、この静和館は武田五一の設計でした(苦笑)。もったいないですねえ。


武田五一(1872(明治5)年―1938(昭和13)年)は、備後福山藩(現在の広島県福山市)に生まれ、5歳年長の伊東忠太と同じく東京帝国大学工科大学で“日本建築界の父”辰野金吾に学びます。
東大助教授になって間もなく、イギリスに留学。1903(明治36)年の帰国後は東大に戻らず、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となったことが、関西(特に京都)を中心に活躍するきっかけとなったのです。

WS000001.jpg 〈武田五一〉

1918(大正7)年にはいったん京都を離れ名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)校長となるも、1920(大正9)年には京都帝国大学に工学部建築学科を創設し、初代教授に就任。多くの後進を指導しながら、自らも晩年まで設計意欲は衰えませんでした。

残念ながら、関西を中心とした武田五一の活動が、彼の日本建築界における過小評価に繋がっているとの意見もあります。しかし、京都の目を引く建築物は、あれもこれも、武田五一の設計だったりするのです。


ちょうど、武田五一がヨーロッパに留学した1900年代初頭は、アール・ヌーヴォーそしてアール・デコといったデザインや意匠の新しい潮流が出てきた頃で、武田五一の一連の作品にはその風潮が色濃く映し出されています。





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