旧 橋本遊郭 その4

2011年03月04日 00:45

二階の窓や欄干を集めてみました。欄間の華麗な細工にも注目です。


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一様に遊郭建築と言っても、窓枠の意匠や欄干の違いで、これほどまでに違った個性を見せてくれるのですから・・・たいしたものです。


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普通の遊郭街なら「われが、われが」と奇抜な意匠や、ド派手なネオン風の建物がところどころにあっても不思議ではないのですが、どの家も純和風の歴史を感じさせる欄間飾りや彫刻の数々・・・素敵すぎますっ。


それにしても、いっさい手をつけられていない感のある旧遊郭街なのですが・・・、

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やはりこの町にも、時の流れという名の空き地が、ちらほらと(泣)。


最後に・・・、

うらたじゅんさんのマンガ「発禁・櫻御前」の舞台はこの橋本で、どこかで見た情景がそこかしこに描かれています。

20110206192504875[1] 〈うらたじゅん「発禁・櫻御前」〉


また、島原の遊郭を舞台に多くの小説を書いた川野彰子の「狂い咲き」(『小説現代』1964年1月号)にも橋本の様子が少し触れられています。
家を出ても、行くあてはなかったが、財布の底をはたいて「橋本」までの切符を買った。旧京阪電車の橋本というところに、離れ島のような遊郭があると聞いていた。遊郭以外のところでは働く方法を知らなかった。
山と川にはさまれた細長い町で、川向こうの山崎町近在から渡し舟で通ってくる、土地の百姓相手の商売であった。(川野彰子「狂い咲き」より)


他にも、宮尾登美子原作の映画『鬼龍院花子の生涯』(監督・五社英雄、主演・夏目雅子、1982年)や、西村望原作の映画『薄化粧』(監督・五社英雄、主演・緒形拳、1985年)、さらには谷崎潤一郎の『蘆刈』(1932年)など、幾多の文学や映画のロケーションとしても登場しています。




河原町のジュリー その1

2011年03月08日 00:35

河原町のジュリー

DSC04034_R[1] 〈四条大橋〉


“京都の奇人”・・・退屈で面白みもない現代にとっては、何とも懐かしく、いい響きです。


かつて京都には多くの愛すべき奇人がいました。その中でも特に有名な人物としては・・・、


堀宗凡(ほり・そうぼん、1914年―1997年)
裏千家十四世・淡々斎に師事した茶道家。しかし60歳前に突然、裏千家を離れ、下鴨の自宅「玄路庵」で独自の茶事、たとえば民族衣装で点前を行うなどの新境地を開きます。そしてなによりも衆目の的となったのは、女装などの非凡ないでたちで、下鴨の自宅から四条までの河原町通りを散歩する姿でした。「京都を代表する奇人、風流人」として今も知る人は多いはずです。


土井虎賀寿(どい・とらかず、1902年―1971年)
“土井虎”の愛称で親しまれた京都学派の哲学者。「異端児」「奇人哲学者」とも呼ばれ、三高や京大で教鞭を執り、小説家の田宮虎彦や野間宏、ノーベル賞受賞者の江崎玲於奈らは土井の教え子でもあります。三高時代から晩年に勤めた獨協大学まで一貫してその授業内容は特異で、奇行の様子は小説家で教え子の青山光二が記した『われらが風狂の師』に描かれています。


甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと、1894年―1978年)
最近は、岩井志麻子の小説『ぼっけえ、きょうてえ』の表紙にこの人の絵が使われ、その異様さから再評価もされているようですが、画家としてだけでなく、溝口健二映画での風俗考証を担当した人物として有名。その才は、映画『雨月物語』で米アカデミー賞の衣裳デザイン賞にもノミネートされるほどでした。ホモセクシュアルでナルシストで、自らの女装した写真をモチーフに絵を描くなど、自己陶酔の芸術家でもあったのです。


まあ、上記の有名人に限らず、古今を通してこの狭い京都の町で乱痴気騒ぎを繰り返す学生も、
京都の数々の大学で学問に没頭しすぎて頭の中の風通しが悪くなってしまった学者センセイも、
隣近所の眼を気にする必要のないこの町でモラトリアムを満喫しゲージツに没頭する夢想家も、
大なり小なり、奇人の素地を持っていて、そもそもそんな人たちを(自分たちのテリトリーを侵さない限りは)寛容に受け止める風潮がこの町の人々には昔からあったのかもしれません。そして、その中には少なからず“奇人”という人々の生き方への羨望の眼差しだってあったことでしょう。

堀宗凡、土井虎賀寿、甲斐庄楠音ら、その他もろもろの奇人については、また追々機会がある時にでも詳しく紹介するとして・・・。


さて、これら“奇人”とは少し性質の違う“奇人”として忘れてはならない人物が、かつて京都にはいました。

むしろ、まわりの人々から不本意にも“奇人”として仕立てられ、そして京都人から愛された“奇人”が・・・そう、かの有名な「河原町のジュリー」です。

「河原町のジュリー」は1970年代から80年代中頃にかけて、京都の繁華街・河原町通りを徘徊していた浮浪者です。

今でこそ、浮浪者の姿はどの町にあっても珍しくありませんが、30年以上も前の、しかも京都一の繁華街にたびたび出現したこの浮浪者は、一種異様の風体と知性すら感じさせる寡黙で虚ろな歩き方から、何をどう間違えたのか、当時一世を風靡していた京都出身の歌手・沢田研二の愛称そのままに、「河原町のジュリー」と名付けられたのです。

しかし、どうして現在のように口コミのツールも発達していない時代に、誰からも同じ愛称で呼ばれていたのかは、今をもって最大の謎!です。そして、誰がつけたか、この絶妙のネーミングセンス!!


たとえば現在の京都でも、(最近は見かけなくなりましたが)三条大橋の毛布にくるまった物乞いの老婆や、四条大橋で幟を立てた托鉢僧侶など、眼につく“定番の人物”はいるものの、当時の「河原町のジュリー」のように小学生に囃されたり、その人物について語られるほどの“奇人”は出てきていません。そういう意味では、「河原町のジュリー」は本家・沢田研二に負けないくらいの本当のスターでもありました。

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〈最近見かけませんが、三条大橋にいたあの老婆は元気なのでしょうか。賽銭を毛布の中に引き込む時の、その素早さといったら・・・〉

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〈幟を立てた托鉢僧侶。もはや、四条大橋と一体化した光景でありますが、この人の存在も長いものです・・・(数十年前から同じ人物ですよね?)〉



河原町のジュリー その2

2011年03月08日 00:41

当時の京都で、「河原町のジュリー」が町のマスコットのように親しまれていたことは、彼がマンガの題材や音楽に歌われたことからもわかります。

彼が取り上げられた作品を紹介してみましょう。どれほど、この人物が、当時の京都にとって、なくてはならない人だったかがわかる・・・わけではありませんが・・・懐かしい時代が思い起こされます。


以前も紹介しました京都出身のマンガ家・グレゴリ青山さんの『ナマの京都』(2004年、メディアファクトリー刊)では、ゆるキャラの元祖「未来くん」とともに登場し、“京のまぼろしびと”として紹介されています。

20110307211526ca3[1] 〈グレゴリ青山『ナマの京都』より〉


また、こちらも以前に紹介しましたが、1980年代中頃に活躍した京都を代表するバンド“ローザ・ルクセンブルグ”が彼を歌った曲は「だけどジュリー」でしたね。以下に「河原町のジュリー」の風貌が思い出される歌詞の一部を再度紹介しておきましょう。
「あっちのベンチでごろり こっちのベンチでごろり うぉうお
 子供が石ころ投げる 野良犬吠える逃げる ジュリー
 だけどジュリー だいじょうぶ だからジュリー 笑ってね」  
「毎日街をふらり はだしのままでふらり うぉうお
 ぼーぼーヒゲは伸び放題 ラスタヘアーがよく似合う ジュリー」
「ヘビメタのやつより ジュリーの髪長い
 サーファーのやつより ジュリーの顔まっくろ」
「やっぱりベンチでごろり 楽しいユメ見てごろり うぉうお
 めさんこ寒い冬のころ 街から姿を消した ジュリー」


そして、いくつもの叙情的な“ガロ的”マンガを描いている、うらたじゅんさんも彼を題材に書いています。タイトルはそのものズバリ「河原町のジュリー」(2007年、北冬書房刊『幻燈7』所収)です。

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〈うらたじゅん「河原町のジュリー」より 北冬書房刊『幻燈7』所収〉

といっても、ジュリーが主人公の物語ではありません。どこか時代に馴染めず、生き方を模索しているような主人公の女の子が、鴨川の橋の下で分厚い本を読み、道ばたで“しけもく”を拾い、河原町通りで佇むジュリーを気にかけているというセンチメンタルな物語なのです。このマンガの中で彼は、窮屈になりつつあった時代の中でドロップアウトした側の生き方の象徴として重要な役割を担っています。



さて、さて、「河原町のジュリー」の風貌をマンガや音楽で紹介しましたが、彼に対してひとつ多大な誤解がありました。

それは、「河原町のジュリー」は、若くて身なりを綺麗にすれば、沢田研二ばりの今でいうイケメンだと思っていたことです。少なくとも30代、40代の若い浮浪者だとなぜかずっと勘違いしていました。

下にあるのは、彼の死を扱った1984年2月22日付の「過去語らず京の奇人逝く」と題された「京都新聞」夕刊の記事(コラム)です。

20110307211525bf9[1] 〈『京都新聞』1984年2月22日付夕刊〉

意外な情報が“わんさか”載っておりました・・・。

「河原町のジュリー」は1984年2月5日の朝、円山公園の倉庫の下で凍死します。66歳でした。そう、もうかなりのオッチャン、いえ、そこそこのオジイチャンだったのです。
記事には容姿についても詳しく載っています。
黒の背広のボロ着に破れたズボン、素足に長髪の姿は、確かにきれいではないが、猫背に腕を組み、スリ足でチョコチョコと歩く格好に、どこか愛きょうがあった。
どうやら、ねぐらは三条通りのアーケードの下だったらしく、寺町から四条、河原町、三条と一日かけて歩くことが日課だったようです。

DSC00937_R[1] 〈三条河原町〉

そして、遺体を引き取る親類がいたことも意外でした。ジュリーは戦争から復員し、二年間は結婚生活の経験もあり、四国の実家で親の商売を継いでいたようですが、亡くなる26年前にその四国の実家を飛び出し、それ以来、音信不通となっていたのだとか。


「河原町のジュリー」に関する噂話で、もう一つ当時の人々の口に上がっていたのは、「実は実家は大そうな金持ちで、世をはかなんで浮浪者に身をやつした」だの、「大金持ちが酔狂で浮浪者の格好をして人々の反応を楽しみ、夜は大豪邸に帰っていく」との、金持ち伝説がありました。
ただ、これらの噂はおそらく、当時、同じように河原町を闊歩したもう一人の“京都の奇人”堀宗凡が、料亭を営む裕福な家庭の出自であったことから、混同されていたのでは、とも推察できるのです。



奇人が町に出現するのか、町が奇人を生み出すのか・・・。どちらにせよ、今の京都には奇人を生み出す粋な余裕すらないように思えますネ・・・。



酒場ミモザ その3

2011年03月20日 01:08

酒場ミモザ_0002 〈『酒場ミモザ 第4巻』〉


マンガ界のツチノコこと『酒場ミモザ 第4巻』、ようやく手に入れました。


『酒場ミモザ』は京都三条にある、座席7席だけの古びた小さなバーが舞台のマンガで、その店には実際のモデルがありました。河原町三条を二筋下がり、小路を東に入った「リラ亭」です。

1957(昭和32)年に開店した「リラ亭」は、1990(平成2)年にマスターの死去により閉店しました(その後、マンガに登場する常連客によって「カリン亭」と名を変え引き継がれるも、その店も2000年に閉店しています)。

「酒場ミモザ」は1992年から1996年まで「月刊アフタヌーン」に掲載され、単行本として全4巻が刊行されましたが、すでに絶版となり、かなり入手困難な代物となっているのです(特に4巻がね)。

2010年5月には、マニアなファン待望の復刻版がぶんか社より刊行されましたが、その中には20のエピソードしか収められず、しかも第4巻のエピソードはいっさい収録されないという、何とも中途半端なものでした。



さて、世間では狂騒に沸くバブル景気の時も、この狭いバーの中で繰り広げられる物語は、温厚なマスターの人柄をあらわすように、ただただ「ゆるく」「ほっこり」とした人情話や京都の風物詩や料理のことなど・・・連載当時からどこかノスタルジー溢れる逸話ばかり。

しかし、4巻を読み終えると・・・地味なマンガの中にも確実に時は流れていて、4年の連載の間に、登場人物が“成長”していたことがうかがえます。

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東京から京都に嫁いできて料理が一切つくれなかった女性が、マスターのアドバイスで姑の口に合うおせち料理をつくれるようになり、
東京に住む脚本家のカベさんが京都に越してきて、祇園で飲み屋を営む小菊ちゃんと身を固める決心をし、
マスターの次女がボーイフレンドだったアメリカ人・スティーブと結婚をし、
父親の料理屋で働いている京女の、しのちゃんに子どもができ、
絵描き志望の主人公が初めての個展を開いたり・・・と。


景観論争で問題となった「京都ホテル」が建てられているカットが描かれていたり、祇園祭の山だし町にある町家が賃貸マンションに建て替えられるエピソードがあったり・・・京都の町が激しく様変わりする中にあって、

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繁華街の一等地にあるミモザの建物も、大家の代替わりによってテナントビルへと建て替えられることとなり、そのテナントビルに入るか、新しいところに移るかという岐路で、ミモザがいったん休業に入る場面で、この物語は終わるのです。


さて、すべてを読んでの感想は、やはり・・・地味ながらも、いいマンガでした。
マスターをはじめとする登場人物の人柄と、そんなマスターを慕う常連客とのやりとりを愉しんで見つめていたであろう作者・とだともこさんの目線。どの逸話も、おそらく狭いバーの中で実際に繰り広げられていた話なのでしょうが、その柔らかで優しい空気感をこのマンガに描ききった作者の感性は、たいしたもの。

惜しむらくも、4巻で終わってしまった物語ですが・・・おそらくこの作者ならもっと長く書き続けることもできたのでしょうが・・・この長さがちょうどよかったのかも、とも思えます。



最後に、第4巻のエピソードを少々抜粋・・・。

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梶井基次郎「檸檬」でおなじみ、今はなき「八百卯」さんも登場です。



主人公が「大地堂」(賀茂大橋の東にある老舗の画材と額縁の店)を出て、ミモザが開くまでの時間つぶしに見つけたジャズ喫茶、その名も「SM SPOT」。同志社幼稚園の近くにあった、実在のジャズ喫茶のようです。

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SMといっても、もちろんそっちの方の意味ではなく(笑)、「SWING JAZZ」と「MODERN JAZZ」のことですね。当時は、京都にも多くのジャズ喫茶があり、むしろ、このマンガが書かれた当時は、すでにジャズ喫茶の流行は去った後だったのです。
純喫茶だった「SM SPOT」の客足が遠のき、主人公からミモザの評判を聞き、ミモザに倣って、夜はお酒を出す店に変わるエピソードが語られています。



夏は京都の水がかび臭くなる、というバーでの常連客との会話から、マスターたちがいい水と空気を求めて日帰りツアーで行く先は、長岡京の「柳谷観音楊谷寺」。

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ここには眼病に効く霊験あらたかな“独鈷水”が湧いているのです。連載当時は、長岡京市や向日市の水道水は100%の地下水だったことも、描かれていたりして時代を感じますね(後に地下水だけでは供給することができなくなり、2000(平成12)年から府営水道の受水を始めるのです)。



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マスターの口ぐせは「おきばりやっしゃあ!」



廓育ち その1

2011年03月22日 02:07

廓育ち 監督・佐藤純彌 1964年

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監督は巨匠・佐藤純彌。
(まっ、巨匠といえども、日本映画史上最大の迷作『幻の湖』(橋本忍監督、1982年)と並び称される“トンデモ映画”『北京原人 Who are you?』(1997年)のような突飛もない作品も生み出していますが・・・そこはご愛敬ということで)

原作は川野彰子の「廓育ち」(『新潮』1963年7月号)と「狂い咲き」(『小説現代』1964年1月号)で、両作を脚本家の棚田吾郎が大幅に改編して脚色しています。

WS000174_R_20110220110901.jpg 〈島原大門〉

舞台は売春防止法が制定される直前の京都の廓・島原(売春防止法は1957年4月1日から施行されました)。
とにかく、リアル・・・、そして素晴らしい映画です。

WS000028_R_20110220110747.jpg 〈島原西門付近〉


この映画の特筆すべき点は三つ。


まず、地味で人間味のない退屈な原作を、廓に囚われつづけた芸者上がりの若い女将の悲哀あふれる劇的な作品に仕上げた脚本家・棚田吾郎の力量。

そして、赤線防止法施行から6、7年経った島原には、まだ往時の面影が色濃く残っていて、しかもこの内容の映画撮影を、町が許可したという点。

WS000068_R.jpg 〈島原歌舞練場〉

最後は・・・主演・三田佳子の圧倒的な演技力。ツンとしたぶっきらぼうな美しさの影にある憂いが、何とも色っぽいのです。この時はまだ20代前半ですよ!(まさか後年、あれほど凡庸な“大物女優”となるとは、この映画からは想像出来ないですね)

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