須賀神社 懸想文売り

2011年02月03日 01:16

須賀神社 懸想文売り

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京都市左京区の聖護院にある須賀神社は別名・交通神社とも言い、交通安全の神として敬われている小さな神社です。

創建は、康治元(1142)年、美福門院(鳥羽上皇の皇后)の建てた歓喜光院の鎮守として祀られ、平安神宮蒼竜楼の東北にある西天王塚にあり、西天王社と呼ばれていたのだとか。

その後、吉田神楽岡に移り、さらに大正13(1924)年に現在の地に移ってきたそうです。

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現在は、聖護院一帯の産土神として信仰を集めながら、縁結び、厄除け、交通安全を祈る人々が時折、参詣するひっそりとした神社なのです。


普段は静かなこの神社も、2月2、3日に催される節分祭には多くの参詣者で賑わいます。
そこには全国的にもこの神社だけかと思われる“懸想文売り”がいるのです。

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〈境内の懸想文売りは常に二人いらっしゃいます〉

烏帽子に水干姿の懸想文売りが梅の木の枝に文をつけ、境内で縁結びの文を授与しています。この優雅な格好の懸想文売りがあらわれるのは、節分会の時のみっ。京都でもここだけですっ。

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〈ちなみに懸想文は千円。まっ、こういうものは縁起物ですから(笑)〉


“懸想文”とは現代で言うところの“ラブレター”ですね。

そもそも、当時の公家はラブレターの代筆を請け負うことで、小銭を稼いでいました。文字は、男のもの・・・でもあったのでしょう。
高貴な家柄でありながら、お金に困っていた彼らは背に腹は代えられず、このような商売をしていたのですが、やはりそこは公家。恥ずかしさを隠すために、顔には覆面をしているのです。

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〈懸想文売りの方は、ホント親切。カメラを向けると、わざわざ正面を向いて立ち止まってくれました〉

現在の懸想文はラブレターとしてではなく、お守りの役割となっています。

この懸想文は縁談や商売繁盛など人々の欲望をかなえる符札で、この文を鏡台やタンスの引き出しに隠し入れておくと、“顔かたちがいっそう良くなり”良縁が早く来たり、着物が増える、と平安の世から京の町で買い求められてきたということです。

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吉田神社 節分祭 その1

2011年02月03日 01:23

吉田神社 節分祭

吉田神社の節分祭は2月2、3、4日の3日間にわたり催されます。
そして2日、3日の両日には参道や境内に800軒もの露店がならび、人出の多さは・・・とんでもない。

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2日から3日にかけては一晩中この賑わいが続き、あたかも大晦日の雰囲気。

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節分祭の見どころは、2日午後6時からの追儺式(鬼やらい神事)と、3日午後11時からの火炉祭(古神札焼納神事)。

追儺式は、平安初期より宮中で執り行われたものを、形を変えることなく伝承している神事のひとつなのです。

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〈赤鬼・青鬼・黄鬼は、それぞれ怒り・悲しみ・悩みをあらわしています。〉

黄金四つ目の奇抜な仮面を被った方相氏(ほうそうし)が盾矛を持ち、童子を引き連れ、鬼を追い詰めます。それを上卿以下の殿上人が桃弓で葦矢を放ち疫鬼を追い払うのです。

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〈この方が、方相氏ですが・・・形相は鬼よりも怖い〉


火炉祭は、本社の三ノ鳥居前に直径5m高さ5mもの巨大な八角柱型の火炉があり、参拝者が持参した旧い神札をこの中に放り込み、積み上げます。それを焼き上げることで、立春を迎え、参拝者の一年の無病息災を願うのです。

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ちなみに・・・、悲しみをあらわす青鬼は、優しいので、

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子どもとも握手をします。




吉田神社 節分祭 その2

2011年02月03日 01:29

しかし、吉田神社の節分祭の見どころは、これだけではありません。
やはり「大元宮」に足を向けないとね。

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南に位置する大元宮は吉田神社の末社の一つですが、祭神は“天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)”。ひらたく言えば3132もの全国の神を祀っているのです。
つまり、このお社にお参りすると、全国の神社に詣でたのと同じ効験がある、ということ。

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〈延喜式に記載されている社の全3132座を祀り、八角形の本殿に六角の後房を付けた、特異な形状(重要文化財)〉

大元宮の内部拝観は、正月三が日、節分祭の2月2日、3日、そして毎月1日のみですので、この機会は逃せませんね。


吉田神社と言えば、かの『徒然草』の作者・吉田兼好もこの神社の神官の家系に生まれたことでも有名。

そもそもは、いにしえより藤原氏の氏神として崇拝されてきた神社ですが、室町時代の末期になって状況は一変します。
吉田兼倶(永享7(1435)年―永正8(1511)年)が吉田神道(唯一神道)を創設し、その拠点として文明16(1484)年には、境内に末社・斎場所「大元宮」を創建、現在の吉田神社の形として整えました。

近世初めには吉田兼見(天文4(1535)年―慶長15(1610)年)が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(天皇を守護する八神を祀る神殿)を境内の斎場に移し、これを神祇官代としました。つまり吉田家が全国の神官の任免権を一手に握り、明治になるまでは“神職界の宗家”と崇められるほどに大きな権威を持っていたのです。


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本殿は「正面八角に六角の後方を付し、屋根は入母屋造の茅葺、棟には千木をあげ、中央に露盤宝珠を置き、前後に鰹木を置く特殊な構造」です。この形は神仏習合、陰陽五行などあらゆる説を融合しようとした吉田神道の理想をあらわしたもの。


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〈本殿のまわりには、全国の社がならんでいます〉


DSC03640.jpg 〈八神殿のあった場所〉

本殿の後方にはかつて八神殿(天皇を守護する八神を祀る神殿)がありました。
本来は宮中にあったものが応仁の乱で焼失してしまい、その後、吉田神社のこの地に遷され、明治2(1869)年に再び皇居に遷されたのです。

都名所図会『神楽岡吉田社』
〈安永9(1780)年刊行の『都名所図会』より 神楽岡吉田社〉



小説家 中谷孝雄 その1

2011年02月05日 01:06

小説家 中谷孝雄

20110125172301f2b[1] 〈中谷孝雄著『春の絵巻』(勉誠出版)〉


失礼ながら、この人も小説家としてはマイナーな存在です。
しかし、梶井基次郎フリークの中では、外村繁とともに特別な存在ではないでしょうか。


中谷孝雄は1901(明治34)年、三重県生まれ。
1919(大正8)年、第三高等学校に進学し、寄宿舎の同室が梶井基次郎でした。
また、後に妻となり小説家ともなる平林英子とは三高在学中に出会い、半年ほど同棲をしていました。

その後、東京帝国大学文学部独文科に進み、梶井、外村らと同人誌『青空』を創刊。
1935(昭和10)年には保田與重郎、亀井勝一郎、木山捷平らと『日本浪曼派』を創刊。この『日本浪漫派』には後に太宰治や檀一雄らも参加しています。

1937(昭和12)年7月刊行の初の小説単行本『春の絵巻』(赤塚書房)の中の表題作「春の絵巻」(初出は1934(昭和9)年の『行動』)が第6回芥川賞候補に挙がり、川端康成、久米正雄に高く評価されますが、受賞にはいたりませんでした。
1968(昭和43)年には「招魂の賦」(『群像』)で芸術選奨文部大臣賞を受賞。

1995(平成7)年、93歳で死去。妻の平林英子は2001(平成13)年に99歳で亡くなり、夫婦揃って天寿を全うしました。



2003(平成15)年に勉誠出版から刊行された『春の絵巻』には、五編の小説が収められています。

高等学校を落第し、父親に罵倒されることを恐れて遁走。さらに自堕落な生活へと落ちていく主人公が、父親の手紙から自分に対する希望を見いだし、もう一度学校をやり直そうと決意する――「春」(初出『麒麟』昭和8年)。

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今夜だけはゆっくりと花を見てやろう。そして彼はざわめく乗客たちの陽気な空気に次第に同化して、電車が祇園の終点に止まると、そのまま公園の石段を雑踏する人々に押されながら登っていった。(「春」より)

花見の季節。高等学校の男子学生三人は嵐山での花見の帰り、京極のレストランで三人連れの娘たちと同じ卓になる。石田は、花見の夜に出会った民子のことが忘れられず・・・。中谷孝雄と、当時、事務員をしていた平林英子との出会いを想起させる――「春の絵巻」(初出『行動』昭和9年)。

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公園の入り口の石段で、みんなはまた一緒になって、それから花に酔った公園のなかへはいっていった。花は松明の火に白っぽく夜空に浮きだして、群衆はここにもまた身動きの出来ないまでに押し合っていた。(「春の絵巻」より)

学校生活での葛藤と、帰省している同棲相手を待ちわびる青春の束の間の孤独を描く――「二十歳」(初出『日本浪漫派』昭和10年)。

中谷や梶井、外村ら三高出身の東大生を中心に創刊した同人誌『青空』を巡る回想物語――「青空」(初出『群像』昭和44年)。

友人・外村繁の病気を案じ、彼の最期を見届ける――「抱影」(初出『群像』昭和36年)。


「春」「春の絵巻」「二十歳」の三編だけで、小説家としての中谷孝雄を評価するのは乱暴ですが・・・きわめて凡庸です。
ただその一方で、「青空」と「抱影」は、作者・中谷や梶井、外村らの人となりが生き生きと描かれ、興味深い作品・・・もとい、文学的資料となっています。




小説家 中谷孝雄 その2

2011年02月05日 01:10

梶井基次郎はエンジニアを目指して、大阪の旧制北野中学校から京都の第三高等学校理科甲類に入学するものの、寄宿舎で同室となった中谷孝雄に影響を受け、文学青年になってしまいます。

外村繁(本名、外村茂)は高校に入った当初、彼ら二人の二年後輩だったのですが、中谷も梶井も二度ずつ落第し、結局、卒業は同じ年となりました。そして三人は揃って東京帝国大学へと進むのです(年齢は外村が他の二人より一つ年少です)。

三人は三高時代、文芸愛好家の集まりであった劇研究会に所属し、『真素木(ましろき)』という機関誌に小説を書いたりもしていました。この時に梶井が筆名として用いていたのが、ポール・セザンヌをもじった、「瀬山極」です。

欠席日数が多く、成績も良くなかった梶井は、卒業を絶望視されていましたが、「彼は卒業試験が済むと、病人を装って人力車で教授達を歴訪し、家庭の貧しいことや自身の病気のことなどをあることないことさまざまにこしらえて百方陳弁して教授達の同情を買い、やっとのことで及第点を取りつけることに成功したのだった。こういう時の彼は普段の外見の温厚さにも似ず、目的のためには手段を選ばないような厚かましさがあった。」(「青空」より)と中谷は振り返っています。


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〈京都大学吉田寮。かつての第三高等学校の寄宿舎です。現在も現役の建物として200名ちかい学生が生活しています。〉

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〈木造二階建ての三棟が連なっていて、和室が120部屋。建てられたのは1913(大正2)年。日本最古の学生寮です。〉

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〈寄宿料は月額400円。水道光熱費と自治会費が別途必要ですが、あわせても月2500円ほどで生活出来ます。ただし、入寮希望者も多く、選考に通らなければ入寮することは出来ません。〉

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〈これまでも幾度か、閉寮騒動や建て替えが取りざたされてきたものの、寮生の頑なな反対の前に、現在の建物が残ってきたのですが・・・、建物の老朽化は否めません。いつまでこの姿がみられることやら・・・。〉


東京帝国大学では、中谷は独文科、梶井は英文科、外村は経済学部へと進みますが、文学への傾倒はかわりません。
東京に出てきた彼らが、同人誌を立ち上げようとしていた時、ライバルとして意識したのは、第七次『新思潮』の存在でした。その中心人物として、同じ三高出身の大宅壮一や飯島正らがいたことに大きく刺激されたようです(ただし、第七次『新思潮』は長く続かず、三号で潰れてしまいます)。

中谷や梶井の同人誌は初め、名前を「鴉」に決めようとしていたらしく、それは京都時代に彼らがよく通ったカフェ「RAVEN」の名前にちなんででした。加えて、エドガー・アラン・ポーに同名の詩があったことも理由の一つだったとか。
ところが実際、中谷の部屋に同人が集まって決める段になると、なかなかまとまりません。部屋の中には煙草の煙が渦巻いていました。
そんな時、平林英子が部屋の空気を入れ換えようと、窓を開き、そのまましばらく空を眺めていたかと思うと、中谷を呼んで「青空という名前はどうですか、武者小路先生の詩に――騒ぐ者は騒げ、おれは青空、というのがありますが」と耳打ちします。中谷の眼に見えた10月の空は、美しく哀しいまでに晴れ上がっていたのです。

この、平林英子の意見が夫の中谷を通じて間接的に採用され、同人誌『青空』は誕生したのでした。



さて、平林英子と中谷孝雄の関係ですが・・・。

平林英子は、1902(明治35)年に長野で生まれました。
京都で事務の仕事をしていた時に学生だった中谷と知り合い、1921(大正10)年、当時高校二年生だった中谷と、春から夏まで同棲し、その二人の住処に梶井もたびたび訪れていたといいます。その後、一時、中谷と英子は不和となり、関係が途絶えます(この頃の心情が中谷の小説「二十歳」に記されているのです)。
英子は傷心の影響もあったのでしょう、武者小路実篤が主宰していた「新しき村」に入村することを決意します。ところが村へ赴く途中に京都に寄ったことから、二人の関係はあえなく復活し、翌年には英子は「新しき村」を離れます。
その後、地元長野で婦人記者をしていましたが、1924(大正13)年、中谷が大学入学で東京に腰を落ち着けたのを機に夏には上京し、結婚したのです(ただし当初は中谷の両親には、この結婚は隠されていました。それは、京都時代に中谷が事務員の英子と付き合っていたことがわかった際、家柄を重んじる中谷家では大騒動になった経緯があったのです。翌年には子供に恵まれますが、その時もまだ、事実上の結婚を家には打ち明けていませんでした)。

20110125175203f66[1] 〈平林英子〉


『青空』発足時の同人は、中谷孝雄、梶井基次郎、外村繁、小林馨、惣那吉之助、稲森宗太郎の六名。その中でも、経済的には外村に頼る部分が大きかったようです。外村の実家はそもそも近江の木綿問屋で、東京日本橋に店があり、近江の本宅とは別に、東京にも控家をもつ裕福な家庭だったのです。外村の家が『青空』の事務所も兼ねていました。

当初、1924年10月に出そうとしていた『青空』創刊号が刷り上がったのは12月20日過ぎ。結局、発刊は翌1925(大正14)年1月となります。創刊号には梶井の代表作「檸檬」が巻頭に掲載されましたが、雑誌自体がまったく反響を呼ばなかった上に、「檸檬」はといえば同人の間ですら評価はなされていなかったと、中谷は回想しています。

その後、順調に同人は増えていきます。三高時代の後輩だった淀野隆三が参加し、1926年には三好達治、飯島正、北川冬彦、阿部知二などが加わりました。

しかし、1927(昭和2)年になると金融恐慌がおこり、裕福な商家であった外村や淀野の家にも少なからずの影響を与え、経済的に頼みとすることも出来なくなって、6月の二十八号を持って、梶井基次郎の数々の名作を生み出した『青空』は二年半で廃刊となったのです。のちに文壇に登場する彼ら同人たちも、この時はまだ無名の文学青年のままでした。

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〈左から梶井基次郎、中谷孝雄、外村繁。三高時代の写真〉

「いすに座った私を中央に、向かって左に梶井、右に外村が立っていた。三尊仏ならば、さしずめ私が本尊、梶井と外村が脇侍というところであった。なぜそのようになったかというと、当時、三人で写真を撮ると真ん中の者が死ぬという迷信があり、思いなしか梶井も外村も躊躇の様子に見えたので、進んで私がそのいすに座ったのだった。」(「抱影」より)
外村が息絶えようとしていた頃、見舞いから帰った中谷が自著『梶井基次郎』の口絵に掲載された三高の卒業記念に撮った写真を眺め、当時を思い出している場面です。