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古都 その3

2011年01月04日 01:05

古都 監督・中村登 1963年


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いやはや、年が明けましたね。ということで、新年第一弾は少しお正月っぽく・・・もないですが(笑)、岩下志麻の着物姿が艶やかな映画の紹介です。

京都を舞台にした映画の中で、もっとも美しい作品の一つがこの1963年に制作された『古都』かもしれませんね。
京都が町としての奥ゆかしさを残していた最後の一瞬を奇跡的にとらえた映画・・・といえば大袈裟でしょうか。第36回アカデミー賞外国賞にノミネートされますが、残念ながら受賞にはいたりませんでした。

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〈宵山の御旅所〉


川端康成の原作発表から時を経ず、京都の町には高層ビルも見あたらない時代。墨色、鼠色の甍がまさに碁盤の目のように整然とならぶ背の低い京都の町では、町家の室内もどこか陰気で薄暗く、もの悲しさすら感じさせます。

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〈甍のならぶ京の町〉

そんな町家の日常とは対照的に、平安神宮の桜、清水寺の夕景、嵯峨の竹林、北山杉の緑、祇園祭の提灯、大文字の灯、時代祭の祭列・・・さらに何よりも主人公・千重子の美しさは、その着物の着こなしとともに、凛とした艶やかさがスクリーンにいっそう映えて見えるのです。


東京生まれの岩下志麻が京都弁に苦労したであろうことは、劇中のイントネーションを聞けばわかりますが(笑)、千重子と苗子の演じ分けは見事です。

古都000286 〈千重子〉

もし一人二役と言われなければ、よく似た役者を起用しているのかと思うほど・・・言い過ぎかな。少なくとも一人二役によくある安っぽい違和感は全く感じられません。

古都000284 〈苗子〉

町育ちで洗練された着こなしの千重子と、山育ちで朴訥な苗子ですが、苗子の方が眉毛が太く、頬もふっくらしていますね。


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川端康成の『古都』はいくつかの映像作品となっていますが、この作品ほど原作を忠実に再現している映像はありません。撮影現場に足を運び、監督よりも口うるさくリアリティを追求した川端康成のこと。作品の改変なんてもってのほかだったのでしょう。
1980年に制作され山口百恵引退記念作品『古都』(監督・市川崑)では、原作にない清作という役を三浦友和が演じていますが、川端康成が健在であれば卒倒ものだったことでしょうに(笑)。


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本作の中村登監督は、千重子と苗子の姉妹のほかに、京都の町そのものを物語の主役として捉えていたようです。原作の通り、四季や祭りを描き出すとともに、町かどや山々のカット等をふんだんに多用し、情感豊かな映像美に仕上げました。




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古都 その4

2011年01月04日 01:13

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1960年に松竹へ入社した岩下志麻。『極道の妻たち』シリーズや、象印マホービンの気の抜けたCMなど、最近の岩下志麻しか知らない人にとっては、目を見開くほどの美しさです。これほど“鼻筋の通った”という形容が似合う横顔の女優もそう、いないでしょう。


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平安神宮での枝垂れ桜の観賞シーン。しかし撮影は12月。枯れた桜の枝に造花がつけられての撮影だったとか。


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夕暮れの清水寺で、幼馴染みの真一(早川保)に千重子(岩下志麻)は自分が捨て子だったと打ち明けます。真一は幼い頃に祇園祭のお稚児さんに選ばれた大呉服店の次男坊。千重子をたびたびデートに誘いますが、彼女は彼に男としての魅力は感じていないようです。


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千重子の父・太吉郎(宮口精二)は呉服問屋の商いだけではもの足りず、嵯峨の寺に籠もって帯の下絵を創作します。様子を見に来た千重子が持ってきたのは森嘉の豆腐。


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西陣の織屋の息子・秀男(長門裕之)に千重子の帯の制作を依頼する太吉郎。秀男は職人気質で陰気ですが、若いながらも腕は確か。千重子に憧れを抱くも、父親に身分の差をたしなめられ、諦めます。そして、千重子の双子の妹・苗子に求婚するという役どころです。秀男の父・宗助役には東野英治郎。黄門様より職人役がこの人には似合います。


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友人の真砂子(環三千世)と北山杉の里を訪れる千重子。そこで千重子に瓜二つの女性を見かけるのです。


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祇園祭の宵山の夜。四条寺町の御旅所で、初めて対面する姉妹(岩下志麻の一人二役)。この時代、二重露光という技術が、どれほど難しく面倒な作業だったのかはかわかりませんが、カメラワークも見事ですね。撮影は成島東一郎。成島は後に、赤江瀑原作の映画『オイディプスの刃』(1986年)の監督もしています。


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同じく宵山の夜、四条の橋の上で千重子に間違えられ、秀男に帯をつくらせて欲しいと頼まれる苗子。




古都 その5

2011年01月04日 01:17

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突然、妹に会い、産みの親が亡くなっていることを知って顔色の悪くなった千重子。彼女を気遣って、家まで送ってやる真一とその兄・竜助(吉田輝雄)。四条大橋の後ろに見える建物は、かのCMで有名な「いづもや」です。
この映画で、唯一、役柄として浮いているのが竜助役の吉田輝雄。役の上では千重子を助け、頼もしい彼に千重子も結婚を決意するという設定なのですが・・・顔も演技も“濃すぎ”。堅い無表情が不気味です・・・。


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京都会館前のバス停で顔見知りの上七軒の女将に出会う太吉郎。もちろん女将役は浪花千栄子です。達者すぎて、ちょい役でもインパクト大はさすがっ。溝口健二監督『祇園囃子』でお茶屋のお女将役を好演し、ブルーリボン助演女優賞を受賞して以来、女将役が当たり役となったのですね。


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苗子をたずねて北山杉の里を訪れた千重子。突然の激しい夕立にあうシーン。抱き合う二人が双子であることを強く実感する重要な場面ですね。
雷を怖がる千重子を苗子がかばうこの杉林は、セットでの撮影です。現地の杉林から丸太350本を切り出し、北山を再現したのだとか。


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苗子のために帯を織ってほしいと千重子に頼まれた秀男が、北山杉の里に帯を届けた際、苗子を時代祭に誘います。そして再会した苗子に結婚を申し込むのです。しかし、苗子は秀男が自分に千重子の面影を求めていることを知っていて、素直に申し出を受け入れることができません。


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双子であることを他人に知られては千重子の家族に迷惑が掛かると、店員が帰った夜遅く、千重子の家に泊まりに来る苗子。千重子の両親はそんな彼女を歓迎します。

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一晩、床をならべて一緒に寝るのですが・・・、

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まわりの家々が起き出す前に、千重子に別れを告げ、「また、来とくれやすな」という千重子の言葉には悲しそうに首を振り、雪で白くなった町を駆け足で去って行くのです。



おまけ。

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この映画唯一の、千重子の洋装シーン。フードを被る姿も美しい! 北山杉の里に洒落た着物で来てはいけません。山の天気は移ろいやすいのですから。




京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ

2011年01月06日 01:42

京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ 松原好之 1979年

京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ


とにかくすごいタイトルです。こういう場合、内容がタイトル負けしていることが多いのですが・・・。

作者の松原好之氏は、大阪外国語大学を卒業し、卒業の翌年、この作品で第3回すばる文学賞を受賞します。
「遠く北方の嵐を聞きつつ…」(『すばる』2003年1月号)、「あざやかな場面」(『すばる』2003年5月号) 等、近年でも小説を発表してはいるものの、ほぼ、小説家のキャリアとしては「すばる文学賞受賞作家」で終わってしまっているようです。むしろ、本業は予備校講師、予備校経営で、こちらの分野ではかなり著名な方のようですね。
長年、大手予備校で英語を教え、現在は医学部専門の予備校を経営し、近著は『年収600万、子どもの偏差値40以上なら、医学部に入れなさい』(2009年、講談社)です・・・。

まあ、最近の経歴には関心がないので、とりあえずあらすじから・・・と言いたいところですが、まったくもってこの小説、よくわかりません。むしろ、この作品が受賞した時の選評を読んでみたいくらいです。

もし、この作者がコンスタントに小説を発表しつづけていたなら、この作品に何らかの意味や意図を見いだせたのかもしれません。ところが一発屋的に終わっているところをみると、たいして作品自体を深読みする必要はなさそうなのですが、それでもよくわからないのです。
(たとえば同時代に発表された村上春樹『風の歌を聴け』(1979年)や、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』(1982年)なども、発表当初は首をかしげる老獪な評論家の声も多くあったようですが、その後に続く、両者の一連の創作をみれば、誰もがあの時の評価を納得せざるを得ないわけです。しかし、松原氏には残念ながらそれがなく、フロッグでの受賞と受け取られても仕方ないのかな・・・と)。


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〈主人公が下宿していた上賀茂神社付近。写真は社家町の町並み。社家とは上賀茂神社の神官の邸宅です〉

あらすじ。

時代は学園紛争が鎮まりし頃(でしょうか)。主人公“空知誠(そらちまこと)”は京都大学を目指す浪人生。上賀茂神社近くの下宿に住み、予備校に通っています。そんな主人公の、春の一日から受験の日までを描いていています。

空知の通っていた静岡の高校では学生運動が盛んで、学校には誰からも一目置かれる“吹石”という早熟な煽動者がいました。その吹石が偶然、空知と同じ予備校に通い、しかも同じ下宿にいたということが、空知の浪人生活の運の尽きでもありました。

下宿生はほぼ全員が浪人生で、賀茂川の空き地でソフトボールを楽しんだり、京大生の自転車を赤ペンキで塗りたくり、それを乗り回したりと鬱屈した生活の気晴らしをしますが・・・、下宿の待遇に不満があるからと吹石が先頭に立って「闘争」を行う辺りから、不穏な空気が流れだします。
大家との闘争に失敗し、吹石が一人責任をとって下宿を出、拠り所であった吹石を失った空知が代わりに手に入れたものは八坂神社の露天商から買ったカスタムナイフ。常に吹石の存在を意識し、その姿を追い続ける空知にとって、ひと振りで吹石をも殺すことのできるナイフを持ったという事実が、他愛ない自分の存在を若干解放してくれたのです。

秋の模擬試験の結果は散々な空知でしたが、短大生の彼女“ユウコ”を得て、小さな幸福を手に入れます。が、そう易々と幸福が続くはずもありません。平凡で自分と価値観の違う彼女に苛立ちを見せはじめ、平手打ちをしたり、受験が近づくにつれ、情緒不安定になり・・・。

さらに、彼女ができたことで、吹石に追いついたとの錯覚を持った空知でしたが、彼はやはり一枚上手でした。吹石とともに下宿を出て、その後自殺したかつての学生運動の闘士“祐天寺”の美しい姉を吹石は得ていて、しかも「羨ましいのか。別に俺は例によって、おまえみたいにぐだぐだと恋を拾ったのどうのこうのという気はねえよ。おまえ欲しかったらやってもいいぞ。」とアパートを訪ねてきた空知に言い捨てるくらいなのですから。

受験が近くになって、空知のおかしさが目立つようになります。自分が上賀茂神社の裏山に埋めたはずのナイフを、ユウコが隠したと自室で彼女を殴りつけ、泣く彼女の姿を見て、「ユウコ、何があったんだ。僕が何かしたのか。」って、もう完全に精神分裂病です(笑)。
もちろんユウコはそんな彼に愛想を尽かして別れを決め、彼の元を去りますが、受験当日、北野天満宮でお祓いしてもらった鉛筆を彼に渡すため京大にやってくるのです。
周りでは、「決起せよ。すべての受験生諸君。」と怒鳴る学生。そして受験生と学生を隔てる機動隊の列。
スピーカーでアジっている学生が、吹石に見えてしまった空知は、受験の集合のサイレンが鳴り響く中、ユウコから貰った鉛筆を投げ捨て、「決起せよ」の声に応えるために、武器となる埋めたナイフを取りに走り出すのでした・・・完。


京都大学 時計台DSC04575
〈主人公が受験で目指した京都大学の時計台〉


作者が(登場人物も)、インテリゲンチャだということは文章を読めばわかります。実際、学生運動にかぶれ、左傾学生であったのかどうかは知りませんが(まあ、一昔前の予備校や短期大学あたりの講師には、学生運動くずれの講師がごまんといて、全く珍しい存在でもありませんでしたが)。
すばる文学賞の当時の選考委員は、この辺りの左翼的思想の羅列に圧倒され、惑わされでもしたのでしょうか。
まあ、惑わす力を持った作品だったという点においては評価される作品だったのでしょうが、なにせ、良さがまったくわからないのです・・・。
あえて良さを挙げるとすれば、数多ある学生運動を描いた文学の中で、予備校生を取り扱ったという点でしょうか(そこが、そもそもの失敗だとも言えるのですが(笑))。


あっ、そうそう、主人公が通う予備校は現在も烏丸今出川にある近畿予備校のようです。作者が通っていた頃(1970年前後)の近畿予備校は、小説中に出てくるように夏期講習の申し込みのために前日から徹夜で列ばなければならないほど、隆盛を誇っていました。
理系を目指す受験生にとっては、この予備校に入れず仕方なく他の予備校に通ったり、並の大学より入るのが難しかったのだとも。



西陣京極 千本中立売 その1

2011年01月07日 00:16

京都の町は碁盤の目になっていることもあって、住所を説明する場合、町名や番地だけでなく、縦横の通り名であらわすことが通例です。
「四条河原町」「西大路御池」「堀川今出川」などなど。
そしてその交差点を中心に「上がる」「下がる」「西入る」「東入る」で東西南北の方角を指し示すのです。わかりやすいでしょう?

たとえば大阪の地名では谷町九丁目を谷九(たにきゅう)なんて略したりもしますが、京都ではこの長ったらしい通り名を略すことは、まずありません。一カ所だけを除いては、ね。

その唯一と言っていい例外が、千中(せんなか)。そう、千本中立売(せんぼんなかだちうり)です。


20110105181540dc6[1] 〈千本中立売の交差点〉


千本通りと中立売通りの交わる場所、通称・千中が往年の京都の歓楽街の中心地だったなんて、今の若い人は信じることができませんよね(書いている自分だって知らないです)。

昔は「千ぶら」といって、千本通りの、北は今出川通りから南は丸太町通りまでの1.2kmほどを散策することが流行ったそうです。“千本をぶらぶら”で「千ぶら」です。


201101051815099e8[1]


特に、千本通り一帯の中でも、今出川通りから上長者町通りにかけた長さ約700mの現在の「西陣千本商店街」付近(すこし昔までは「千本ラブ」なんて名前が付いていましたね)は、新京極と並ぶ歓楽街として人の波で溢れていたといいます(新京極に比べれば、かなり庶民的だったとか)。


この地が歓楽街として栄えたのには、いくつかの理由が挙げられます。地元織物業の好景気、映画館の存在、交通の利便性・・・など。

そもそも西陣は日本有数の織物産地として栄えていましたが、特に戦後になると未曾有の糸ヘン景気が到来しました。織物業に従事する職人の多くもその恩恵にあずかり、休日や夜には気分転換と称して多くのお金を落としたことでしょう。

そして、日本映画の父・マキノ省三(1878(明治11)年―1929(昭和4)年)が座主をつとめていた千本座をはじめ、後に映画館となる芝居小屋がいくつか存在し(千本座は、千本一条を上がったところにある現在の「無印良品」の場所に建っていました)、歓楽街としての素地は既に出来上がっていました。最盛期(昭和30年代後半頃まで)には20軒近くもの映画館が存在するほどに。

また、当時の京都の交通を語る上で欠かせない市電の存在があります。この界隈に乗り入れた市電として、北野線(1895(明治28)年~1961(昭和36)年)、千本線(1912(明治45)年~1972(昭和42)年)、今出川線(1912(大正元)年~1976(昭和51)年)と、3つもの路線が通っていたことも町の発展には幸いしたようです。


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〈中立売り通りから千本通りを眺める。かつては市電の北野線が走り、「市電通り」とも呼ばれていました〉


さらにもう一つ、水上勉の『五番町夕霧楼』や、三島由紀夫の『金閣寺』で有名な「五番町」は千本中立売の西南にあり、この北野天満宮の門前茶屋から発展した赤線地帯の存在が町の賑わいに果たした影響も大きかったことでしょう。


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〈千本中立売より一筋西のこの通りが、五番町への入り口でもありました。写真にうつっている雲水さんは妙心寺か等持院のお坊さんでしょうか(笑)〉





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