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西陣京極 千本中立売 その2

2011年01月07日 00:23

この界隈の往時の“残滓”を探してみようとしたのですが・・・、完全に町は終わっていました。
千本中立売の交差点から北東にある「西陣京極」もその中の一つです。ここを今のうちに触れておかないと、もう往年の姿はたどれないと思いきや・・・、面影すらもほとんどなくなっていたのです。


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〈西陣京極への西側からの入り口に掲げられた看板〉


それもそのはずです。映画産業は1960年代後半になるとテレビの台頭もあり廃れはじめ、西陣の織物業も1970年代から急速に斜陽となってしまいます。この地を走っていた市電も北野線は1961年に、千本線と今出川線も1970年代には廃線となりました。そして、遊郭であった「五番町」も1958年の売春防止法施行によって寂れてしまい・・・。
今でもこの界隈には、洋品店などのうらぶれた商店が目につきますが、それは歓楽街だった往年のかろうじての名残なのです。


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〈千本通りに面した西側の入り口。千本通りは今やパチンコ屋とその駐車場ばかりです・・・〉


さて、件の「西陣京極」ですが、“京極”といっても四条の新京極を思い浮かべてはいけません。たかだか、縦横それぞれ150mほどの狭い範囲の小路が入り組んだ場末の歓楽街でしかないのですから・・・(お住まいの方、場末と言ってごめんなさい)。


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〈西陣京極の路地で、かろうじて一番賑やかそうな場所〉


この狭い西陣京極一帯に、かつて「西陣キネマ」「長久座」「千中劇場」「西陣大映」「西陣東映」と5つもの映画館があったというのですから驚きですね。
ちなみに、「長久座」は昭和30年代に、「西陣キネマ」と「西陣東映」は昭和40年代に廃館となりました。


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〈南の入り口から「西陣京極」に入ると、すぐにあるのが左手の公衆トイレ〉


残る2館の運命もたどるべき道をたどります(笑)。場末の映画館のたどる道と言えば・・・、
「千中劇場」は「千中ミュージック」と名前を変えストリップ劇場となり、1987(昭和62)年には失火により焼失してしまいました。
そして、「西陣大映」は「シネ・フレンズ西陣」として同性愛者専門(!)の映画館となり、2005(平成17)年に廃館となったのでした。


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〈この先にかつての「西陣大映」がありましたが、のち「シネ・フレンズ西陣」と名を変え、今は民家が建っています〉


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〈北側の入り口〉


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〈現在も営業中の銭湯「京極湯」。この界隈では唯一、かつての趣を残している場所です。かつての「千中ミュージック」はこの先にありました〉


西陣京極は今や、数軒の飲み屋と一軒の銭湯が頑張っている程度で、民家が増えているほかには、こんな路地にまでも新しく建ったパチンコ屋の母屋やガレージが浸食し、情緒を語るには見るも無惨な状態でありました。



西陣京極 千本中立売 その3

2011年01月07日 00:26

さて、「西陣京極」を少し離れて、千本中立売の“残滓”探訪へと向かいます。
といっても、『五番町夕霧楼』の項でも触れた五番町に残る「千本日活」です。数多くあった映画館の中で、最後に残った映画館ですが、現在は成人映画専門となっています(たどるべき道は同じなのですね)。


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〈千本通りから上長者町通りを西に行くと突き当たりが「千本日活」です〉


かつての五番町の検番があった場所に建つこの映画館ですが、由緒正しき映画館なのです。
というのも、マキノ省三の「千本座」が前身ということになっているのですから(昭和30年代に千本一条から100mほど南に下がり東に入った現在地に移ってきたのだとか)。


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とはいえ、そんな歴史はどこぞかに吹き飛び、新京極の八千代館なき今、おじさんたちの憩いの場として、また京都随一の「ハッテン場」(同性愛者が相手を求めてやってくる場所のことです・・・)として繁盛しているようです。そっちの気がない人はあまり興味本位で近寄らないように(笑)。


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写真に写っていない横では、すぐ近くに住む小さな女の子が、家のお手伝いで道路を掃除しておりました。こういう町に住む子供は刺激的なポスターを見ても何とも思わないんでしょうね。いやあ、つよくて、たのもしい。



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戦後の最盛期にはこの狭い五番町の中だけでも、100軒ほどのお茶屋が軒を連ね、300人以上もの娼妓が在籍していたといいますが・・・、ホント、当時の色街を物語る建物は数えるほどしかありませんでした。




西陣京極 千本中立売 その4

2011年01月07日 00:30

さて、探訪はまだ終わりません。

往年の千本の繁栄を物語る最大の遺構があるのですから・・・。


それは、西陣京極を南に行ったところにあります。

西陣京極の南の入り口から、中立売通りを渡ってさらに南へと下がり、


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一本目の道である仁和寺街道を東へ曲がります。


20110105181022290[1] 〈仁和寺街道〉


すると住宅街に突如として現れるのが・・・、そう、西陣ボウリングセンターです。


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何がすごいって、こんな細い道の中にボウリング場を造ってしまった当時の勢いがすごい。


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〈前の通りである仁和寺街道を西に行き、千本通りを渡ると「五番町」にたどり着きます〉


廃墟感丸出しの建物ですが、現在は「西陣文化センター」として運営されています。

一階は月極駐車場。ボウリング場だった頃の面影は残っていますね。天井が低いです。


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そして、妖しげな階段を上っていくと、


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いくつかの事務所が入っているようです。なかなか洒落た足ふきマット。


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学習教室も入っているようで、ポップで賑やかな廊下だと思いきや・・・


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「核兵器のない世界へ」と書かれたポスターや、労働組合のメッセージが、壁にド派手に貼られています・・・。


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こちらの壁には「自衛隊のイラクからの撤退を求めます」と段ボールに書かれたメッセージが・・・。

何かの雰囲気に似ていると思ったら、この怪しさは老舗大学の学生会館のノリですな・・・。

入っている団体を見ると、「北・上京地区労組協議会」「全西陣織物労働組合本部」「洛北青年合唱団」・・・。


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旧「西陣ボウリングセンター」は中も、なっかなかのものでしたね(笑)。




三月の乾き その1

2011年01月10日 00:52

三月の乾き 著者・兵頭正俊 1985年

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全共闘時代を代表する“文学”として一番に思い出されるのは、20歳で鉄道自殺をした高野悦子さんの『二十歳(にじゅっさい)の原点』(1971年、新潮社)です。
そこには、彼女が20歳になった1969年1月2日から自殺2日前(6月22日)までの、立命館大学での学生生活やアルバイト先での恋、学生運動への葛藤が赤裸々に描かれています。1973年には映画化もされました(監督・大森健次郎、主演・角ゆり子)。

各大学で全共闘運動が盛り上がり、ベトナム反戦闘争、東大紛争、日大紛争の始まった1968年。東大は1969年度の入試の中止を決定します。そして、運動が沸点に達したのが1969年1月18、19日の東大安田講堂攻防戦。その後、1969年9月5日に全国全共闘が日比谷野外音楽堂で結成された頃には運動は急速に終焉へと向かっていました。

なんだか、高野悦子という女性を思う時、ベルリンの壁崩壊の一ヶ月前に東ベルリンから脱出を試み、射殺されてしまった市民を思ったりするのです。もう少し待てばよかったのに、と。


さて、兵頭正俊著『三月の乾き』(1985年、三一書房)は、そんな全共闘の時代を描いた小説の中の一つです。兵頭氏の経歴は、1944年、鹿児島生まれ。1968年、立命館大学文学部卒業。1971年、立命館大学大学院中退。
他の作品に、『死間山』(1977年、鋒刃社)、『二十歳』(1979年、鋒刃社)、『霙の降る情景』(1979年、三一書房)、『希望』(1981年、鋒刃社)、『ゴルゴダのことば狩り』(1984年、大和書房)、『怜悧の憐れみ』(2004年、三一書房)。どうやら、これら一連の著作はR大(立命館大学)の全共闘運動と運動に関わった学生の生活を描いたもので、吉本隆明の雑誌『試行』からデビューし、長年、教師として勤めていらっしゃったそうで、今もご健在のようです。

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〈1955年頃の立命館大学広小路学舎〉

どうしてこの本に興味を持ったのかというと、高野さんが自殺した1969年当時、兵頭氏は同じ立命館大学の大学院に籍を置き、運動に深く関わっていたという事実から、でした。




三月の乾き その2

2011年01月10日 01:05

全共闘の時代、立命館大学は御所の東、広小路に校舎がありました(正確に言うと、新制の理工学部はずっと衣笠キャンパスにあって、1965年に経済学部・経営学部が、1970年に産業社会学部が、1978年に文学部と二部(夜間部)の全学部が、そして1981年に法学部が衣笠キャンパスに移り、全学部の移転が完了します)。

広小路通りは寺町通りと河原町通りの間、わずか100メートルほどの短い道です。
しかし、京都ではこの辺りが京都大学とならぶ運動の激しい衝突の舞台となり、“百万遍”といえば京都大学を指すように、“広小路”といえば、立命館大学を指す言葉として周知されていたようです。


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〈現在の広小路通り。左が京都府立医科大学附属図書館となっているかつての広小路学舎があった場所〉


どの大学もそうだったようですが(幸か不幸か、全共闘時代の知識にあまりに疎いもので、「ようです」や「だそうです」のような不確定語尾が続いちゃいます(泣))、大学の運営側と学生との衝突というよりも、大学の運営を巡る“日共系”と“反日共系”の学生との間で激しく繰り広げられた主導権争いだったのですね。

高野悦子さんも1年間同じ机で学んだクラスメイトから「君は代々木系か反代々木系か」と不信な敵意に満ちたまなざしで詰め寄られ、ショックを受けますが、“代々木系(日共系)”とは代々木(千駄ヶ谷)に党本部を置く日本共産党を指し、“反代々木系(反日共系)”とは、日本共産党の路線に反対する左派を指します。
ちなみに“民青”とは日本民主青年同盟の略で、実質上の日本共産党の青年組織です。また、反代々木系の中にも、いくつかのセクト(派閥)があって、運動が収束するにつれ、同じ反代々木系だった学生同士の内ゲバが目立つようになるのです。ややこしいですね。


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〈河原町広小路の交差点〉


当時の立命館大学は、理事会をはじめ、教授会、学友会、教職員組合から生協にいたるまで、日共系が占める「日共王国」と呼ばれていました。まあ、それはそれである意味、平穏だったそうです。

ところが、立命館で運動が激化する「新聞社事件」が1968年に起こったのです。
「日共王国」の立命館で、唯一、日共色に染まっていなかったのが学園新聞を発行する「立命館大学新聞社」。日共への批判的立場から週刊で発刊していたこの新聞社は日共にとって、もっとも目障りな存在でした。そんな新聞社に1968年12月12日、突然、民青所属の学生9名が入社申し込みにやってきたのです。
通常、学生新聞の新入社員は4、5月に1回生を対象として採用するのですが、この季節外れの入社希望の民青たちの中には3回生も含まれているという異様さでした。
「学園新聞の民主化」を唱える入社希望者たちの狙いはもちろん、新聞社の乗っ取りだったのです。すぐには採用の選考はできないと断る新聞社主幹に、その日の選考を迫る民青。押し問答の末、進入してきた黒ヘルメットの一団が窓硝子を割り、新聞社員が15時間にわたり監禁される事態に及びます。
この異常事態に接し、これまで日共の一元支配に辟易していた一般学生が立ち上がり、ヘルメットを被って、角材を手にするのです。完全武装の学生600名ほどが新聞社の入る校舎を取り囲むという全共闘時代を象徴するお馴染みの光景が、この時、初めて立命館大学で見られたのでした。


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〈今も残る、かつての「恒心館」。現在は宗教法人の施設「京都救世会館」〉


その後、この事件に対する大学当局の対応も曖昧で後手後手となり、翌1月16日には東大安田講堂の占拠につづき、立命館大学でも寮生が主体となって大学本部の中川会館を封鎖する事態となり(もちろん後には機動隊との衝突も起こりました)、さらに5月20日にはそれまで全共闘も一切攻撃の対象としていなかった民主主義の象徴「わだつみ像」が破壊される悲しい事件も起こってしまったのです・・・。






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