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愛妻物語 その1

2010年12月01日 00:36

愛妻物語 監督・新藤兼人 1951年 大映

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この映画は観る者を複雑な気持ちにさせますね。
まず、この物語が新藤兼人監督の半自伝的作品だということ。そして、このあと新藤監督はさらに二度の結婚をし、最後の結婚は長年愛人として監督を支え、この作品で主役をつとめた乙羽信子だという事実が・・・。

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〈宝塚歌劇団を退団し、一年後。当時まだ当たり役のなかった乙羽信子が、『愛妻物語』の脚本を読み、ぜひ妻の役をやりたいと懇願してきたのです〉


吉村公三郎が監督した『安城家の舞踏会』(1947年)、『わが生涯のかゞやける日』(1948年)等のヒットにより、脚本家として名を得ていた新藤兼人でしたが、1950年に松竹を退社し、独立プロダクションである近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立します。その翌年、39歳にして初監督作品であるこの『愛妻物語』を発表しました。

さかのぼること、新藤監督が最初に結婚したのは、27歳の1939年。相手は4歳年下の映画記録係だった孝子さんでした。貧乏のどん底で、脚本家の夢を諦めかけていた監督を励ましたのが『愛妻物語』のモデルとなった彼女なのです。しかし、結婚から4年後、孝子さんは売れっ子脚本家となる新藤兼人を見ることなく、結核で亡くなります。

その後の1946年、新藤監督は34歳の時に見合いをし、美代さんと2度目の結婚をしますが、1952年からは乙羽信子との愛人関係も始まってしまいます。そして子どもが成長したこともあって新藤監督60歳の時に美代さんと離婚。さらに美代さんが亡くなった後の1978年、乙羽信子と籍を入れたのでした。

孝子さんが亡くなった後の新藤監督の人生が、どうしても『愛妻物語』を観る時、頭の片隅にひっかかってしまうのです(笑)。

まあ、そんな監督の人生を抜きにすれば、『愛妻物語』はいい映画に違いないのですが・・・。


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〈鴨川の三角州。後ろに見えるのは賀茂大橋〉




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愛妻物語 その2

2010年12月01日 00:53

シナリオ・ライターの沼崎敬太(宇野重吉)は、下宿先の娘・孝子(乙羽信子)と恋に落ちます。
しかし、彼女の父(香川良介)はお堅い建築家で、浮き草のような脚本家稼業の沼崎との結婚には断じて反対でした。唯一、彼女の母(英百合子)だけがふたりに理解を示してくれます。
時代は、戦争が影を落とし、映画会社も企業整理されることとなり、一介の研究生である沼崎は人員整理の対象になりそうです。
ふたりは職を求め、京都にやってきました。駆け落ち同然の京都行きでした。

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〈沼崎が増田企画部長(清水将夫)を頼り、訪ねた撮影所のモデルは下鴨宮崎町にあった松竹京都撮影所ですね。所長は菅井一郎が演じています〉

そこで入社試験を兼ねて、当時日本を代表する映画監督・坂口(滝沢修)の脚本を書くよう求められます。

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〈映画監督・坂口のモデルは、新藤兼人の師でもある溝口健二〉

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〈引っ越してきたのは夏。祇園囃子が鳴り響く中、将棋をしようと言い出す孝子。星影のもと、物干し場で将棋を指すふたり・・・。いい絵です〉

しかし、シナリオを読んだ坂口からは「これはストーリーですね、シナリオになってない。筋書きの程度だね」と酷評され、愕然とします。

自信を失くした沼崎でしたが、妻の孝子は気丈でした。孝子はひとり会社に赴き、無給でもいいからと夫の一年間の猶予を懇願し、会社も孝子の熱意に折れ、僅かながらも手当の出る職を沼崎は得ることが出来ました。

それから一年間、孝子は内職をして夫を支え、沼崎は古今東西の劇作を読みあさり、再起を図ります。

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〈沼崎の新しい日課は・・・、朝、机に向かい世界中の戯曲を読む。昼、食事が済むと近くの鴨川へ行く。鴨川で子どもたちと混じって浅瀬を上ってくる“ハヤ”を捕って遊ぶ。夜、夕食が終わると、また机に向かう・・・って、やけに優雅な生活ですね(笑)〉

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〈沼崎が住んだ京都の長屋の隣に住んでいたのは、安さん(殿山泰司)と奥さん(大美輝子)。友禅の下絵描きを生業としています。引っ越しの挨拶に来た沼崎に、安さんは職人らしくぶっきらぼうに接しますが、若い沼崎夫妻の苦労する姿を見て、次第にふたりを励ます存在となるのです〉

ようやく、坂口に認められる脚本が出来た時、孝子は吐血し、結核を発症してしまうのです。
貧しい上に戦時中ということもあって、満足に栄養をとることも出来ず、沼崎の成功を見ることなく、ついに孝子は息を引き取ってしまうのでした。

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〈「あなた、一生シナリオを書いてね。あなたの一生はシナリオなの。シナリオを書くことなの」それが、孝子さんの遺言でした〉



マルセル盗難事件 その1

2010年12月02日 00:32

京都国立近代美術館で1968年におこった「マルセル」盗難事件をご存じでしょうか。


アンリ・トゥールーズ・ロートレック(1864―1901)。

20101128002933507[1] 〈『ディヴァン ジャポネ』(1892年)〉

現在もパリを代表する観光スポット「ムーラン・ルージュ」。そこのポスターを描き、一躍注目を浴びた画家。そして、世紀末の混沌としたパリの退廃ムードの中から、新しい芸術の風を吹かせた人物。それがロートレックです。

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 〈アンリ・トゥールーズ・ロートレック〉

彼は脚の悪い身障者として育ったこともあってか、娼婦や踊り子のような夜の世界に生きる、か弱い女性たちに親しい感情を抱きます。もちろん題材の多くは、夜の艶やかな女性たちでした。娼婦宿に入りびたり、「ムーラン・ルージュ」の常連になるなど、19世紀末の芸術家の退廃生活を示す逸話を数多く残し、長年の飲酒がもとで体を壊して、36年間の短い生涯を閉じます。
ユニークな生き方と人の本質を見抜く優しい観察眼、そして柔らかくも繊細な筆致は、今もなお多くの人に愛され、フランスを代表する巨匠のひとり、なのです。


そんな、ロートレックの作品231点を一堂に集めた「ロートレック展」が、京都市岡崎にある京都国立近代美術館で華々しく開幕したのが1968年11月9日。ロートレックの作品を系統立てて日本で扱う展覧会としては最初にして最大規模の作品展でした。

彼の代表作でもある「マルセル」は1894年に描かれた油彩画で、1階展示室の中央北、展覧会における特等席に飾られていました。
「マルセル」のモデルは、オペレッタ「シルペリック」の主演女優マルセル・ランデルとも、アンボワーズ街の同名の娼婦ともいわれていて、ふたつの対照的な俗説が当の絵画をいっそう幻惑的に映し出し、人びとはその魅力に釘付けになったのです。

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〈「マルセル」(1894年)大きさは8号(縦46.5センチ、横29.5センチ)。左上に「MARCELLE」と青色鉛筆の署名〉

会場は連日盛況で(入場者総数74,748人)、12月25日までの会期が、2日間延長されました。
しかし・・・、最終日である27日の朝、職員が開館前に異変に気づきます。


「マルセル」が忽然と消えていたのでした・・・。


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〈京都新聞 1968年12月28日付 朝刊〉

当時の価値で3500万円ともいわれる名画の紛失は日本史上最大の美術盗難事件として騒がれました。
しかもロートレックの遺作を数多く所蔵するアルビ美術館が共催し、他のヨーロッパ、アメリカの美術館、さらには個人所蔵の作品をフランス文化庁がまとめて借り受けるというフランス政府の全面協力もあって、ようやく開催することの出来た展覧会での大失態です。
フランスとの関係を憂慮した日本政府は即刻、文化庁長官が談話を発表し、美術館館長が辞任を表明。5万枚の手配書が配られ、発見者に1000万円の懸賞金を出すという異例づくめの体制で、“失踪”した「マルセル」を追ったのでした。


盗難から3日後には、「マルセル」の額縁だけが美術館からほど近い疎水の近くに捨ててあるのが発見され、さらに年が明けた1月4日には事件発覚前夜から当直だった55歳の守衛が自殺するという不幸にも見舞われました。責任を感じての自殺だったようです。

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〈「マルセル」の額縁が発見された岡崎疏水分水。正面に見えるのが京都国立近代美術館〉



マルセル盗難事件 その2

2010年12月02日 01:02

犯人は、足跡、指紋を事務所の窓ガラス、雨どい、展示場内、便所などに多数残したまま、「マルセル」を取はずして疎水まで走り去り、額縁をその場に捨て、絵だけを持って逃げた。

その事実だけが宙ぶらりんのまま漂い、事件は進展せず、時効である1975年12月27日を迎えます。
もう、「マルセル」は二度と人びとの前に現れることはないと思われました。


ところが時効から一ヶ月後の1976年1月30日、朝日新聞と毎日新聞の朝刊に「マルセル」発見の記事が踊ったのです。

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〈朝日新聞 1976年1月30日付 朝刊〉


朝日新聞の記事を読むと、発見に到る経緯は以下のようです。


大阪に住む会社員の中年夫婦が、発見の二年半前(1973年秋頃)に、知人である28歳の中学教師から紫色の風呂敷包みを預かります。
「おばさん、これをちょっと預かってほしい。ぼくがとりにくるまで、おやじやおふくろらがきても渡さないでほしい」と教師は置いていきます。両者は実家が近所で、教師が子どもの頃から会社員夫婦の家に遊びに来ていたこともあって、たいして不審に思わず、玄関横の客間の押し入れにしまっていたというのです。

その後、1974年7月、会社員の妻が海外旅行に行く直前、偶然近くのバス停で、中学教師に会ったので、「持って帰ってほしい」と言いますが、そのまま預かっていてくれ、ということでした。
このことがあってか、海外旅行に出発する前、妻は夫に「(教師からの)預かりものだ」と風呂敷包みを見せ、その時開けて初めて、預かっていた物が絵画だということがわかったのです。ただし、その場では何の絵かも気に留めず、そのまま押し入れに戻されました。

ところが、発覚の一週間前、夫が仕事の関係で外国の絵画の本を見ていて、預かっている絵のことを思い出します。
24日に風呂敷を開け調べてみたところ、裏にロートレックの名が記されていました。念のため百科事典で調べると、ロートレックの作品とそっくりではありませんか。
「もしや大変なものでは」と、28日に知人に相談し、「マルセル」が盗難にあっていることを知り、朝日新聞社に連絡したというのです。


連絡を受けた朝日新聞社は秘密裏に、京都大学の乾由明教授と、神戸大学の池上忠治助教授に鑑定を依頼。乾教授は事件当時、京都国立近代美術館の事業課長でもありました。
画集とシミの跡を比べ、木枠に張られた三枚のラベルも、かつて展覧会の開かれた美術館のものであり、本物と断定されます。そして幸いなことには、紙の四隅に黄色のシミがある他は、損傷のない状態でありました。

盗難から7年4ヵ月経った2月27日、「マルセル」は展覧会の主催者であった読売新聞社から故郷のアルビ美術館に無事戻ることとなります。

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〈事件の舞台となった京都市左京区岡崎。美術館や図書館、動物園など、京都の文化観光施設が集まっています。平安神宮は平安遷都1100年を記念して1895年に創建されました〉



マルセル盗難事件 その3

2010年12月02日 01:21

さて、捜査の目は・・・もちろん、28歳の中学教師に向けられます。
しかし教師は警察の事情聴取に、中身を知らぬまま知人から預かったとしか答えません。誰から預かったのか、どうして預かったのか、その経緯を頑なに一切口外しませんでした。

発見直後の1月30日午後、この中学教師は、枚方市役所の記者クラブで報道関係者に取材されています。

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〈読売新聞 1976年1月31日付 朝刊〉

読売新聞によると――

1972年秋に“ある人物”から京都で「ちょっと、警察の捜査対象になる物だ」と言われ、中身も確かめずに預かり、そのまま押し入れの天袋に入れておいたといいます。
中身を本当に知らなかったのか、という記者の問いには、「人から預かった物をのぞき見するような汚い根性は持っていない」と言い放ち、「私も政治活動をしていたので、警察が興味を持つもの、たとえばビラか何かを入れた箱だと思っていた。重さからみて爆弾とは思わなかった。もっともこんな変なかたちで“爆発”(社会に知られたこと)してしまったが」と、うそぶきます。

もちろん、預けた人物の名を言わない限り、この教師が第一に疑われるだけなのですが、「私が口を開けば、何人かの人がかかわりあいになるし、政治的信条を傷つけることになる。預けた相手を捜せば突き止めることもできるが、捜す必要もない」というのです。


記者と教師との不毛な一問一答は続きます・・・。

   あのような名画を盗む行為をどう思うか。
「いい事だとは思わない」

   それだったら、やはり真相解明に協力すべきではないか。
「われわれの年代には、警察が追いかけているから悪いヤツだというような、江戸時代的発想はない。連合赤軍のような殺人集団は別だが……。まして道義的責任は残るにしても、法的には時効でケリのついていることではないか」

   教職にある身との矛盾を感じないか。
「民間会社だったら勤めを続けられないだろうが、私の職場環境は非常にいいので、同僚もわかってくれると思う。PTA、生徒には私から説明する」

そして45分に及ぶ会見の最後に教師は「私をつるし上げるつもりでここに呼んだのか。最初の約束と違うではないか。これで終わる。生徒を待たしている」と、きつい口調で言い、席を立ったというのです。


事件の騒ぎで学校を休んでいたこの教師、6日後には教壇に復帰したようですが・・・。はたして授業になったのでしょうか・・・。


結局、捜査も時効の壁にさえぎられ、教師をそれ以上深く追及することも出来ず、今日に至るまで真犯人は藪の中・・・なのです。

ひとりの死者を出したのですから、興味本位で語れる事件ではないのですが、・・・不思議な・・・、もとい、不快な未解決事件ですね。


DSC00487[1] 〈平安神宮の大鳥居〉

あ、そうそう・・・。
ロートレックは浮世絵の収集にも熱心で、浮世絵の影響を受けたことはよく知られています。
彼には、墨で描いたデッサン「広重の手法による隅田川の風景」という作品があり、1972年に開催された「世界の文化と現代芸術展」という展覧会で盗難にあい、その後発見されていないのだとか。

ロートレックの絵には、観る者の理性を失わせる魔力でもあるのでしょうか・・・。


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〈1986年に竣工した新館の京都国立近代美術館〉





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