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炎上 その1

2010年11月01日 00:28

炎上 監督・市川崑 1958年 大映京都

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原作はもちろん三島由紀夫の「金閣寺」(1956年刊)。
この映画の企画が大映から市川監督にもたらされた時、監督は一旦断ったそうです。
長編小説、しかも主人公の告白体で、あまりにも観念的で・・・。
小説をそのまま映画化したとしても、小説のもつ世界観は削ぎ落とされてしまうのは目に見えていたのでしょう。
それでも撮ることになったのは、会社側の熱意に根負けしたことと、「自分の手に負えないものを何とか征服してみたいという気持ちがあった」からだとか。

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映画化にあたり一番の問題である脚本は和田夏十と長谷部慶次が担当。まあ、市川監督の脚本と言えば妻である和田夏十しかいませんが・・・。
和田夏十も「引き受けない方がいい」と思っていたこの作品を再構築できたのには、三島由紀夫の取材ノートの存在が大きかったようです。大学ノート3冊分の取材ノートと原作から、人間本位のドラマに置き換えることに成功します。

ただ映画化はまだスムーズに進みません。金閣寺から映画化にクレームがついたのです。
舞台や小説ならまだしも、映画では世間の影響が大きすぎる、と。焦った市川監督は老師に題名の変更を提案し、ようやく了解を得ます。
ですから映画の中で、金閣は驟閣、大谷大学は小谷大学(古谷大学?)になってしまっているのです。


市川監督がこの作品でこだわったのは、モノクロとシネマスコープ(横長の画面)。
モノクロにこだわったのは、「火が赤くメラメラ燃えたりすると安っぽくなる。それよりは白黒の格調を狙ったほうがいいだろう」との意図から。
撮影は宮川一夫が担当しました。宮川にとって初のシネマスコープでの撮影でした。

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当初は主役を川口浩(探検隊ですね(笑)。当時、川口浩の父親で作家の川口松太郎は大映の専務でもありました)で決めていたものの、大映の永田雅一社長が認めず、溝口健二監督の「新・平家物語」(1955年)で主演をつとめた26歳の市川雷蔵を市川監督がふと思い出し、起用するのです。

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〈この5年後、「眠狂四郎」が当たり役になるとは想像できない繊細な演技です〉

この「炎上」が市川雷蔵にとっては、初めての現代劇になります。しかも役柄は学生で、吃音持ちで・・・。周りからは起用に反対する声も少なからずあったとか・・・。
しかし、この作品でキネ旬やブルーリボン賞の主演男優賞を獲り、市川雷蔵はトップスターの地位を名実ともに確立するのですから、市川監督の慧眼には恐れ入りますね。




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炎上 その2

2010年11月01日 00:40

昭和19年、溝口吾市(市川雷蔵)は京都の名刹・驟閣寺に徒弟として住み込むようになる。
亡き父・承道(浜村純)と住職・田山道詮老師(二代目中村鴈治郎)が修行仲間という縁からであった。
溝口にとって国宝・驟閣は、この世で最も美しい建物として幼い頃から父に聞かされてきた憧れの存在でもある。
老師から大学に通わせてもらい将来を嘱望される溝口だったが、生まれついての吃音が彼を孤独に、陰気に、さらには卑屈にさせてしまう。
大学での友人といえば、内翻足の障害を持ち、始終足を引きずり歩く戸苅(仲代達矢)。
戸苅は自らの障害を、異性の同情を買う道具に仕立て上げるような、一癖も二癖もある人物だった。
戦争も終わった昭和22年。驟閣寺は観光寺として多くの拝観収入を得るようになり、仏の道に生きるはずの老師も芸妓遊びにうつつを抜かしていた・・・。
驟閣のもつ絶対的な美と、偽りの仏の道を目の当たりにした失望感から、溝口の生活もだんだ荒んでゆき、将来への希望も閉ざされた。
彼は自殺用の小刀とカルモチンを手に入れ、驟閣とともに心中する決意をする。



老師役の二代目中村鴈治郎と、五番町の遊女・まりこ役の中村玉緒は父娘での共演です。
中村鴈治郎はホンモノの坊さんよりも坊さんらしいです。弟子を前にした講話のシーンは聴き入ってしまうくらいの心地よいセリフ回し。

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仏道と俗欲との間で揺れる高僧を好演しています。

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中村玉緒はこの時、18歳。役者としては不遇の真っ只中だったらしいです。「炎上」ではわずかワンシーンの出演でしたが、小気味よいセリフ出しがうまいです。


姦通する母(北林谷栄)と、その行為を見て見ぬふりをする気弱い父(浜村純)。
田舎でのこの体験が溝口を母から遠ざけ、父を慕う原因となるのです。しかし、田舎の寺が借金の形でなくなってしまい、母は驟閣寺に住み込みで働くことに。聖なる驟閣に汚らわしい母を近寄らせたくないにもかかわらず・・・。そんな子の心も知らぬまま、ただ母は、子のいない老師の跡継ぎとして溝口に驟閣寺の住職になってほしいと期待を寄せているのでした。

炎上000060 〈母親役の北林谷栄〉


戸苅(小説「金閣寺」では柏木)を演じた仲代達矢。危険な香りが漂いまくり。

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〈曇天の空模様に、黛敏郎のおどろおどろしい音楽が鳴り響き、足を引きずる戸苅役・仲代達矢の登場シーン〉

傲岸な役に定評のある仲代達矢ですが、この戸苅役もその最たるものの一つでしょう。存在の迫力がありすぎです。登場のシーンはトラウマになりそうデス・・・。こういう演技を怪演というのでしょうね。

炎上000041 〈左は新珠三千代〉


金閣がモデルの驟閣ですが、実物大を大沢池に再現しています。

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しかし、これほどの名作でも、おそらくもう地上波でのオンエアは難しそうですね。今の基準じゃ差別用語で引っかかりそうな言葉のオンパレードで・・・。


あえて、市川雷蔵のことは語りません。この人が37歳の若さで亡くならなければ、日本映画はどうなっていたのでしょう・・・。吃音の学生僧で、この端麗さ。かっこよすぎです。




百万遍知恩寺

2010年11月02日 00:45

百万遍知恩寺 

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百万遍知恩寺で、恒例「秋の古本まつり」が開かれていました。今年は10月30日から11月3日までのようです。
夏の下鴨神社の「納涼古本まつり」に比べれば、出店数は少なめですが(夏は近畿一円からの出店で、秋は京都の店だけのようです)、気候は格段に秋の知恩寺の方がいいですね。

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ただ今年は、あいにく台風の影響もあって、天候には恵まれず、古本店の皆さんには気の毒でした・・・。
さて、自分は特に古本好きということでもないので、たまたま通りかからなければ入りませんでしたが、偶然欲しいものがあり、一冊ゲットいたしました。
近代文学館 精選 名著復刻全集「武蔵野書院版『檸檬』梶井基次郎」(1976年刊)です。


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〈近代文学館 精選 名著復刻全集「武蔵野書院版『檸檬』梶井基次郎」〉

山門入ってすぐ右に店を構える紫陽書院さんで購入。500円也。

梶井基次郎が亡くなる一年前(1931年)、生前唯一の本として武蔵野書院から出版されたのが作品集『檸檬』。
ホンモノを手に入れることは不可能なので、このよくできたホンモノに見紛うニセモノでも大満足。

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さて「百万遍」といえば、今出川通りと東大路通りの交差点の名称ですが、もちろんその由来は北東に位置する浄土宗大本山の知恩寺にあります。

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慈覚大師円仁上人(794-864)が加茂の神宮寺として創建した庵が、その場所(現在の相国寺付近)から「賀茂の河原屋」と呼ばれます。
その後、今から800年前に浄土宗の開祖・法然上人(1133-1212)が度々この「賀茂の河原屋」を訪れ、念仏の教えを人びとに説き、遺訓である「一枚起請文」を記し、弟子の源智上人に託すのです。
法然上人の没後、源智上人は法然上人の御影を祀り、ここを念仏道場と改め、法然上人の“恩”を“知”る“寺”から「知恩寺」と名付けます(知恩寺の一世は法然上人、二世は源智上人となっています。ちなみに同じ浄土宗の総本山・知恩院よりも“知恩”はこちらの方が早く名乗っているのです)。

元弘元(1331)年、都に疫病が大流行しました。
時の住職である8世善阿上人が、後醍醐天皇の勅命によって念仏を7日間にわたり百万遍修すると、たちまち疫病は鎮まりました。
この功により、寺に「百万遍」の号と、弘法大師の筆になる「利剣の名号」(剣のように尖った文字で「南無阿弥陀仏」と書かれた文字)を天皇から賜ったのです。

戦乱や火災に度々遭い、数度の移転(弘和2(1382)年に一条小川へ、文禄元(1592)年には寺町通り荒神口上ルへ)を経て、寛文2(1662)年に現在の地へ移り、阿弥陀堂や御影堂をはじめとする豪壮な七堂伽藍が整ったのでした。


百万遍知恩寺都名所図絵 p


長徳山知恩寺百万遍は浄土鎮西四ケの一本寺なり、古は加茂の神宮寺にして、慈覚大師の草創なり。法然上人鴨下上を尊信ありて感応を得給ひ、一宗を弘通し給へり。又ある時鴨皇太神宮懇う望ありて、末世衆生のため一枚起請を書しめ給ふ、是より当寺を改て念仏の道場とし、徒弟勢観房源智上人に附属し給ふ。〔源智上人は当寺の二世にして、備中守師盛の男なり、無双の智者といひ伝ふ〕後醍醐天皇の御宇に、日本大に疫癘流行て死するもの数しらず、帝これを憐給ひて諸の祈祷ありといへども更に験なし。時に当寺の八世善阿上人に勅命ありて是を祈らせ給ふ、善阿参内して更に余行なく、一七日の間念仏すること一百万遍なり、疫病忽に退て天下安堵す、〔此時修する所の大珠数今にあり〕帝大に叡感ありて号を百万遍と賜る。〔此時弘法大師の筆跡利剣の大名号を賜ふ、当寺の什宝なり〕本堂には元祖大師の像を安置す、本師堂の釈迦如来は慈覚大師の作なり、鎮守は鴨太神宮なり。〔毎歳葵祭には当寺に於ても法楽の神事を執行あるなり〕堂前の石碑は、建久年中に小松内府重盛宋朝へ黄金を渡さる、其志に感じて襄陽の龍興寺より石刻の阿弥陀経を賜る、〔今筑前国善導寺にあり〕其形を模す所なり。〔一心不乱の以下廿一字の増字は此石経を濫觴とす〕

『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より



毎月15日には、「手づくり市」が開催され、境内は人で溢れます。



檸檬 その1

2010年11月05日 00:36

檸檬 梶井基次郎 1925年


「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。」
居たたまれない“私”は、街から街を彷徨いつづける。


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〈寺町丸太町の交差点。一時(1923年5月~翌年1月頃)、梶井基次郎がこの近くに下宿していたことも〉


その頃、“私”が好きだった場所は丸善。
「赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。」
しかし、今の“私”にとっては丸善も重苦しい場所でしかない。


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街を歩く“私”が足を留めたのは寺町二条にある一軒の果物屋。
「店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。」


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〈鎰屋(当時あった菓子屋で、2階が喫茶店になっていた)の2階から眺めた果物屋がたいそう美しかったとか。写真のコンビニエンスストアの入るマンションが鎰屋のあった場所です〉


「いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。」
その果物屋でレモンを一つ買って、手にすると“不吉な塊”もいくらか弛み、幸福になった。さらに歩き、たどり着いたのは丸善の前。


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〈当時、丸善は三条麩屋町西入にありました〉


丸善に入ってはみたものの、それまでの幸福な感情は逃げていく。棚の前で、以前はひきつけられた画本を引き出しバラバラと捲ってみる。が、戻すのも億劫になってしまう。
「『あ、そうだそうだ』その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。『そうだ』」
手当たり次第に本を積み上げ、「奇怪な幻想的な城」を築きあげる。そして、その頂にレモンを据え付けた。

「見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。」
そして、“私”はもう一つの奇妙な企みを実行した。
 ――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。――
「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。」




檸檬 その2

2010年11月05日 00:42

初出は1925(大正14)年1月創刊号の『青空』。
しかし、その前年(1924年)に執筆された習作「瀬山の話」の中に小説「檸檬」と同様の逸話が挿入されています。
さらに、その前(1922~23年頃)には、習作の詩「祕やかな樂しみ」が書かれ、いくつかの変遷の末に、名作「檸檬」が出来上がったことがうかがえます。

そもそも『青空』の創刊号には「瀬山の話」を載せようと頑張っていたらしいのですが、創刊のための広告取りなどの準備と重なり、断念。「瀬山の話」の瀬山の独白部分を「檸檬」として独立させて完成させたのです。

(ちなみに、「瀬山の話」の主人公・瀬山極とは、梶井基次郎が1923年の劇研究会の回覧雑誌『真素木(ましろき)』に“瀬山極”のペンネームで創作「奎吉」を発表したりして、お気に入りの名前だったようです。由来は、ポール・セザンヌをもじって、とのこと)

「瀬山の話」と「檸檬」を読み比べれば作者の意図や感性の変遷があぶり出されおもしろいのでしょうが、ここではそんなこむずかしい考察はしません(笑)。また機会がある時にでも・・・。
ありていに言えば、両作はテンポが違います。「瀬山の話」は少しまどろっこしく、説明口調で・・・まあ、習作の段階だから致し方ないのでしょうが。


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「檸檬」「瀬山の話」「祕やかな樂しみ」が現在、手軽に読めるのは『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)。習作や遺稿も網羅されていて、お得です(活字が小さいですけれど・・・)。


この小説の舞台となった「丸善京都店」は2005年10月に閉店し、さらに主人公が檸檬を買った「八百卯」は2009年1月に閉店しました。

梶井基次郎のいた頃の丸善は、1907年から三条麩屋町で営業し、1940年に河原町蛸薬師へ移転しています。
八百卯は寺町二条の角にあり、1879年創業の老舗果物屋。ビルになってからは2階でフルーツパーラーも営んでいました。
1階の寺町通りに面したショウウインドウには、いつもレモンが飾られ、小説「檸檬」の説明書きも置いてありましたね。

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ちなみに、この店の北に接する二条通りの緩やかなカーブは、かつて市電が走っていた頃の名残なのです。

寺町通りは、「犬を賣る男」(1924(大正13)年頃の草稿)で、孤独でみじめな主人公が目にする“犬を売る奇妙な露店”が出ていた場所でもあります。

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大谷晃一氏(帝塚山学院大学名誉教授)の書いた文章(『国文学 解釈と観賞』平成11年6月号)によると、
三高に入学した梶井は、ほどなく酒に親しみ、肺病からくる倦怠もあって、勉学も怠けがちになります。お初という名のウエイトレスに熱を上げ新京極の江戸カフェーに頻繁に通ったり、寺町の東洋亭(河原町丸太町を上がったところにある創業大正6年の「東洋亭」でしょうか)の芳枝という女性にも恋心を抱いたり・・・。しかし容姿のコンプレックスもあってか、うまくはいきません。

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〈『新潮日本文学アルバム 梶井基次郎』表紙より〉

だれですか。ゴリラ顔なんて言っているのはっ。文章は顔で書くものではありません。
でも、そりゃそうですよね。肺病もちで、繊細な文章・・・。誰もが優男を想像するはずです。


最後に、「檸檬」のモチーフとなった詩「祕やかな樂しみ」を、記しておきます。


   祕やかな樂しみ

一顆の檸檬(レモン)を買ひ來て、
そを玩ぶ男あり、
電車の中にはマントの上に、
道行く時は手拭(タオル)の間に、
そを見 そを嗅げば、
嬉しさ心に充つ、
悲しくも友に離りて、
ひとり 唯独り、我が立つは 丸善の洋書棚の前、
セザンヌはなく、レンブラントはもち去られ、
マチス 心をよろこばさず。
独り 唯ひとり、心に浮かぶ樂しみ、
祕やかにレモンを探り、
色のよき 本を積み重ね、
その上に レモンをのせて見る、
ひとり唯ひとり數歩へだたり
それを眺む、美しきかな、
丸善のほこりの中に、一顆のレモン澄みわたる、
ほゝえまひて またそれを とる、冷さは熱ある手に快く
その匂ひはやめる胸にしみ入る、
奇しことぞ 丸善の棚に澄むはレモン、
企らみてその前を去り
ほゝえみて それを見ず、

『梶井基次郎全集 第一巻 筑摩書房』より


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寺町通りの中でも、北は丸太町通りから南は御池通りの区間は、一保堂茶舗、古梅園、紙司柿本をはじめとする老舗や古美術店、画廊などが並び、少し昔の京都の風趣を感じることができます。もちろん観光客にも人気のある通りです。






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