--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

モルガンお雪 その1

2011年05月16日 00:25

モルガンお雪


この国には毎日、なにがしかの記念日があるようで、例えば単なる語呂合わせで10月8日は「入れ歯の日」だったり、ソクラテスの妻が悪妻だったことから彼の命日4月27日を「悪妻の日」としたり、本能寺の変が起こった6月2日が「裏切りの日」だったり・・・(笑)。


そんな数多ある記念日の中にあって、女性が喜びそうな日が1月20日の「玉の輿の日」です。

これは1904(明治37)年1月20日、祇園新橋の芸妓・加藤雪(ゆき)がアメリカの大富豪モルガン一族のジョージ・デニソン・モルガンに4万円という当時としては莫大な金額(落籍料)で身請けされ、結婚した出来事にちなんでいます。そして現在も祇園界隈、特に芸者たちの間では1月20日は特別な日として語り継がれ、このシンデレラ物語のような出会いに淡い期待をするとか、しないとか(笑)。

新聞はこの世紀のプロポーズの経緯を現在のゴシップ雑誌顔負けの大々的記事に仕立て上げ、面白おかしく伝えていました。人々はそんな新聞を興味本位で目にし、雪の行く末を噂し合ったのです。

当時の4万円は、現在の貨幣価値に直すと4~5億円ともいわれる破格の金額。
しかも、雪には長年経済的に支えた京都帝大の苦学生・川上俊介なる恋人がいて、結婚に際しては「彼を捨ててまで金に目がくらんで外国人と結婚した」と罵る人たちも多かったようで・・・。

IMG_0004_20110428092824.jpg
〈胡弓の演奏がうまく祇園では「胡弓のお雪」として知られていた加藤雪。写真は『モルガンお雪』(著者・小坂井澄、1984年、集英社文庫)より 〉

しかし、実際の「モルガンお雪」さん。お金に目がくらんで外国人と結婚したわけでも、玉の輿に乗って悠々自適に暮らし遂げたわけでもなかったようです。

3年に及ぶジョージ・モルガンの求婚の成り行きは、その進行中にもかかわらず、牧野省三が芝居に仕上げ、自らの経営する西陣の千本座で上演したり、新聞が実録連載記事を掲載したり・・・(その実録記事の中では、面白おかしくするために、雪の兄が守銭奴のように描かれていたりして)。
また、関露香著「実話 モルガンお雪」(1916年)や長田幹彦著『祇園のお雪 モルガン夫人の生涯』(1948年)を初めとする小説や戯曲の題材ともなり、1951年に越路吹雪主演で帝劇で上演された雪の半生を描く『モルガンお雪』は好評を博しました。

中でも、1975年に小坂井澄によって著された『モルガンお雪 愛に生き信に死す』(講談社刊)は周辺取材を重ね、モルガンお雪の実像を的確に伝えている一冊です。

IMG_0001 (2)
〈『モルガンお雪 愛に生き信に死す』著者・小坂井澄、1975年、講談社刊〉



スポンサーサイト

モルガンお雪 その2

2011年05月16日 00:26

加藤雪(1881(明治14)年―1963(昭和38)年)は寺町六角の刀剣商を営む家の四女として生まれます(名前の表記は、仮名で“ゆき”とも“行”とも)。
しかし幼い頃に家は傾き、さらに父親が亡くなると、1895(明治28)年、14歳の時に歳の離れた姉たちの後を追って芸妓の世界へと入りました。
そして、後の夫となるジョージ・デニソン・モルガン(1871年―1915年)と出会ったのは、長姉・ウタが営む祇園新橋のお茶屋兼置屋「加藤楼」から芸妓として店に出ていた時でした。

モルガンとは、もちろん「モルガン・スタンレー」や「JPモルガン」で知られる、あのモルガンのこと。
ジョージ・モルガンは、当時世界一の富豪といわれたモルガン財閥の創始者・ジョン・ピアポント・モルガン(1837年―1913年)の甥に当たる人物で、多くの旅先の中でも日本をいたく気に入り、1900(明治33)年から横浜に住み着いていました。

IMG_0005.jpg
〈ジョージ・デニソン・モルガン 『モルガンお雪』(著者・小坂井澄、1984年、集英社文庫)より〉

花街にあっても特別目立つ存在ではなかった20歳の雪が、1901(明治34)年、偶然あがった座敷で30歳になっていまだ独身のジョージ・モルガンに見初められ、3年にわたる熱烈な求婚を受け続けるのです。

ところが、雪には将来を誓い合った川上俊介という10歳も歳の離れた恋人がいました。二人が知り合った当時、俊介は東京に住む一介の下級官僚で、公用で京都に来ていて、その宴席で雪と知り合うのです。
後に彼は役所を退官し、大阪での保険会社や銀行勤めを経て、京都帝大の書記をしていた頃、二人は親密な関係となります。彼女は芸者とは思えぬ地味な服装で彼の借りている南禅寺近くの部屋に通っては、甲斐甲斐しく身の回りの世話をしていたのだとか。
俊介は鹿児島県の出身で熊本の五高を出たものの経済的な理由で大学へは進めませんでした。ところが大学で勤めはじめた30歳近くになって突如向学心が芽生え、大学への入学を決意します。
雪も彼に将来を託し、自分の小遣いを切り詰め、金銭的な援助をしていた矢先に出会ったのがジョージ・モルガンでした。モルガンから雪に手渡される小遣いは、そのまま俊介への援助金ともなっていたのです。

そして貴重なお客であり“金ヅル”ではあったものの、あまりに執拗なジョージ・モルガンからの求婚に辟易していた彼女は、4万円という常識外の落籍料をふっかけ、彼の思いを諦めさせようとしたようです。

ところが、このモルガンからの熱烈なプロポーズや4万円という法外な落籍料が世間の知るところとなり、“四万円の芸妓”“モルガンお雪”という渾名が喧伝され、人々から嫉妬や好奇の目で見られるようになってしまうのです。

人々の口の端に上っていたまではいいものの、この名が新聞各紙に載り、さらには芝居の演目にもなり、「モルガンお雪織」という西陣織の帯地や反物まで出る始末・・・。この世評が遠く鹿児島にいる俊介の両親の耳まで届き、両親は雪との結婚に大反対。俊介も年老いた両親を安心させたい一心で、雪には内緒で郷里の女性と婚約をしてしまったのです。

そんな出来事を雪はつゆ知らず、俊介は京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、浪速銀行に就職するため大阪へ。音沙汰のない俊介の元へと雪が訪ねて行ったときにはもう遅く、その時になって初めて彼の気持ちが冷めていることに気づくのです。

俊介がこの“モルガンお雪”を巡る狂騒に耐えられず、彼女の元を去ったのは致し方のないこと(一説には雪の幸せを願って俊介自らが身を引いたとの話も伝わっています)。
そして夢を託した俊介を失った雪が、徐々にジョージ・モルガンの熱烈な求愛に傾いていったのも当然の成り行きでした。


さて実際、4万円という身請金が雪に払われたのかどうか・・・。雪本人や家族は否定していたようで、真相は謎のままです。しかしジョージ・モルガンは雪との結婚に際して10万円の現金を用意していたという話もまことしやかに囁かれ・・・。


余談ですが、川上俊介のその後を『モルガンお雪 愛に生き信に死す』(著者・小坂井澄、1975年、講談社刊)によると、浪速銀行の東京支店長まで出世して退職。東京瓦斯電気工業株式会社、大阪舎密工業株式会社、帝国製糖株式会社などの重役を務め、1922(大正11)年に61歳で亡くなっているそうです。

この人と結婚していれば、雪の人生は慎ましいながらもそれなりに幸せだったのかもしれませんね。



モルガンお雪 その3

2011年05月16日 00:27

1904(明治37)年1月20日に横浜で結婚式を挙げた雪とジョージ・モルガンは、すぐにアメリカへと旅立ちました。ただしアメリカでの生活は雪にとってもモルガンにとっても心地いいものではなかったようです。特に夫と義母との関係は悪く、また東洋人を拒絶する社交界の雰囲気もあったようで・・・。
1905(明治38)年には一年二ヶ月ぶりの里帰りをし、新聞が大々的に報じるものの、二人は好奇の目で見られることが多く、日本もまた居心地のいい場所とはなりませんでした。

IMG_0007_R.jpg
〈一度目の帰国の際、東福寺の境内で母・琴と姉・スミと写真におさまる雪(左) 『モルガンお雪』(著者・小坂井澄、1984年、集英社文庫)より〉 

二年弱の里帰りを終え二人が向かった先は、フランス。ここが雪にとって安住の地となるのです。

ところが、フランスでの生活も10年に満たない1915(大正4)年に夫ジョージ・モルガンが心臓麻痺で急逝。モルガンが44歳、雪が34歳の時でした。
彼が残した遺産は約100万ドルで、そのうちの60万ドルが雪に渡されます(この時の60万ドルとは、余裕ある暮らしができていた高等官の年俸が1000円の時代に、120万円にあたります)。
未亡人となった雪は、パリからマルセイユ、そしてニースへと移るものの、第一次世界大戦中も含めてフランスの地から離れませんでした。日本やアメリカに比べれば、人の目を気にすることなく自由で開放的な生活が送れたのでしょう。
結局、1911(明治44)年の三度目の里帰りを最後に、日中戦争の最中である1938(昭和13)年に日本に戻るまでの27年間を一切フランスから離れず、この国に染まりきってしまうのです。日本語での会話もままならなくなるほどに。

IMG_0006.jpg
〈フランス時代の雪 『モルガンお雪』(著者・小坂井澄、1984年、集英社文庫)より〉

夫モルガンが亡くなってから、フランスに住み続けた雪の周囲には一人の男性の存在がありました。それが、フランス陸軍士官であったサンデュルフ・タンダール(1877年―1931年)です。

二人の出会いは定かではないものの、モルガンが亡くなった翌年の1916年頃、第一次世界大戦下のパリを離れ、南部の都市・マルセイユに越してきて、二人の生活が始まったようです。

タンダールは陸軍士官でありながら学問にも興味と造詣が深く、1914年には彼が編纂に携わったカンボジア語とフランス語の辞書がパリ外国宣教会により出版されていました。周囲の人物から雪は“マダム・タンダール”と呼ばれ、タンダールの妻だと思われていたようです。

かつての恋人・川上俊介を支えたと同じように、彼女の生まれもってのパトロン気質に火が付いたのでしょうか。
1931年に彼が突然の心臓発作で急逝するまでの15年間、タンダールの学者としての研究生活を支えたのです。

では、どうしてタンダールとの結婚に踏み切らなかったのでしょうか。
モルガンの死により、アメリカに戻らずフランスにとどまった彼女には国籍が自動的に剥奪され、無国籍となっていたことが原因とも(雪は終生、無国籍を貫きます)、再婚により巨額の遺産を没収されることを懸念していたとも、考えられます。



モルガンお雪 その4

2011年05月16日 00:27

雪が日本に帰ってきたのは、1938(昭和13)年。彼女はすでに50代半ばを過ぎていました。
帰国の理由については、愛するタンダールの死、世界情勢の不安、そして日本に待つ姉の存在も大きかったようです。特に仲のよかった次姉・スミの体調が思わしくなく、姉のためにも身近にいてやりたいとの思いが強まったようで。
ただ、30年近くに及ぶフランス生活で、彼女の日本語はカタコトとなっていました。

IMG_0009_R.jpg
〈帰国途上の雪 『モルガンお雪』(著者・小坂井澄、1984年、集英社文庫)より〉

彼女は帰国に際し、結婚当初と同じ人々の狂騒で迎えられます。むしろ30年の時を経て、彼女の存在はもはや伝説となっていました。マスコミは報道合戦を繰り返し、実家の「加藤楼」には野次馬が群がり、そのほかにも莫大な財産目当ての銀行の勧誘員や各所からの寄付の依頼・・・。その興味の矛先は相変わらずモルガン夫人としての彼女の巨万の富だったのです。

日本に帰ってきても、彼女は日本国籍を回復せず、死ぬまで無国籍を貫き、モルガン姓を名乗り続けました。その理由には、(タンダールと結婚しなかった理由と重複しますが)モルガンの未亡人としての誇りを持ち続けたいという強い意志とともに、遺産相続権を失いたくないとの考えも含まれていたようです。

ただし太平洋戦争前夜、陸海軍への献金には積極的でした。仮にも敵性語となりつつある本名「ユキ・モルガン」を名乗り続けたい彼女にとっては、軍部から睨まれないためにも、持ち帰った宝石の数々を売ってまでも献金していたようです。
また、モルガンやタンダールと過ごした長いフランス生活で、彼女はカトリックへの信仰に目覚めていたこともあって、住まいの近くの河原町教会の日曜ミサを欠かさず、多くの寄付をし、それと同時に加藤家の菩提寺にも寄進を惜しみなく施していたといいます。

モルガン姓を名乗るがゆえに、また、厚い信仰心から戦時中にもかかわらずミサに出かける雪には、特高警察からスパイの嫌疑をかけられ・・・。そんな彼女に追い打ちをかけるように、太平洋戦争中は彼女の持つ遺産の利子収入や株の配当送金は停止。さらに戦後、一方的に雪には遺産相続権がないものと見なされアメリカからの送金は停止されたままで、日本の銀行にあった預金もインフレ政策の預金封鎖によって引き出しを制限され、後に遺産相続権が回復するまでの戦時中を含めた10年間ほど、彼女はモルガンの未亡人たり得ない、貧しい生活へと追い込まれてしまいます。

戦争末期、大徳寺山門の斜め前にある質素な借家に引っ越し、亡くなる1963(昭和38)年まで、彼女はここで静かに過ごします。日本に帰ってきてからずっと雪の家の手伝いをしていた女性を養女に迎え、そして、財産相続権が回復した後も、慎ましやかな生活は変わらなかったようです。

カトリックへの信仰心は終生持ち続け、1952(昭和27)年には洗礼を受け「テレジア」という洗礼名を与えられています。「テレジア」とはフランス生活で彼女の信仰の支えとなった聖女の名でもあったのです。
そして、1958(昭和33)年に完成した現在の衣笠教会聖堂の建設費の大半は雪の寄付によるものだそうで・・・、彼女の死までこの事実は伏せられていました。





Twitterボタン

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。