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夭折の天才画家 村山槐多 その1

2011年05月12日 00:17

夭折の天才画家 村山槐多


村山槐多「尿する裸僧」1915年 〈「尿する裸僧」(1915年)〉

『尿(いばり)する裸僧』・・・?・・・・・・??・・・・・・・・・!!!

もう、こんなタイトルを思いつくだけでも天才なのに・・・、裸の僧が合掌して托鉢に放尿!!
しかも体全体から赤く光を放つという異様さ。
もはや不気味さを超越し、神々しくすらもあります。

耽美主義も行き着くところまで行き着くと、このようなシュールの極地にたどり着いてしまうのでしょうか。


この作者はいわずとしれた、村山槐多(むらやま・かいた、1896(明治29)年―1919(大正8)年)。
わずか22年5ヶ月の人生で、その才能は絵画にとどまらず、多くの詩や小説としても残されています。

「一本のガランス」(1918年)

ためらふな、恥ぢるな
まつすぐにゆけ
汝のガランスのチユーブをとつて
汝のパレツトに直角に突き出し
まつすぐにしぼれ
そのガランスをまつすぐに塗れ
生のみに活々と塗れ
一本のガランスをつくせよ
空もガランスに塗れ
木もガランスに描け
草もガランスにかけ
魔羅をもガランスにて描き奉れ
神をもガランスにて描き奉れ
ためらふな、恥ぢるな
まつすぐにゆけ
汝の貧乏を
一本のガランスにて塗りかくせ。

『槐多の歌へる 村山槐多詩文集』(酒井忠康編、講談社文芸文庫)より

ガランスとは赤い絵の具のこと。まさにこの色が槐多の絵にとっては血のように、絵に生命を湛える色だったのです。とはいえ・・・、

村山槐多_0007
〈「カンナと少女」(1915年)第二回日本美術院院賞受賞〉

「カンナと少女」(1915年)は、京都の旧制中学を卒業後、上京し下宿していた小杉放庵(未醒)邸の庭で隣家の少女をモデルに描いた作品ですが、モデルの子は出来上がった絵を見て、「私の顔はこんなに赤くない」と怒ったそうです(笑)。


この人の作品を見ると、まあ、つくづく生まれ落ちた星が悪かった・・・と思いますネ。この星は、この人の抱えた才能を発揮するには窮屈すぎたようです。


旧制中学時代には英訳のプラトンを読破していたほどの秀才で、恋愛の対象は性別や年齢を超越し、退廃的な生活や奇行の数々、そして、ほとばしる才能とは裏腹に最期は代々木のあばら家で発狂同然のうちに22歳の若さで夭折した天才画家。その作品は絵画のテクニックを論じる以前に、彼の人生の歩みとともに圧倒的な存在感で見るものに迫ってきます。

村山槐多_0005 〈「紙風船をかぶれる自画像」(1914年)〉

若気の至りが、至り尽くしたまま、短い人生を駆け抜けた芸術家。それが村山槐多なのです。



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夭折の天才画家 村山槐多 その2

2011年05月12日 00:19

学校教師の父親の元、横浜で生まれた村山槐多は、その後、父親の転勤に伴い、岡崎、高知と移り、京都にやってきたのは3歳の時。中学を卒業する17歳までの14年間を京都で過ごしました。母親は森鷗外の女中をしていて、両親の結婚は鷗外の紹介でもあったそうです。

小学校6年生の頃から内外の詩や小説を読みふけり、名門旧制京都一中に入学。その時にはすでに、ボードレールやランボー、プラトンを英訳で読破するほどの秀才だったとか。

13歳の時、従兄で画家の山本鼎(1882年―1946年)が渡仏を前に京都の村山家に滞在し、その際、彼から油絵道具を与えられたのが絵との本格的な出会いでした。
学生時代には友人たちと回覧雑誌を作り、そこに槐多は挿絵と詩を掲載し、すでに非凡な才能は溢れ出さんばかりで・・・。

村山槐多_0011
〈回覧雑誌『強盗』のポスター(1911年) 京都府立一中時代、授業もそこそこに友人たちと回覧雑誌作りに興じていました。雑誌名は『アルカロイド』『青色廃園』『孔雀石』『新生』そして『強盗』。大正時代の探偵小説の挿絵に出てきそうな画調です〉


中学を卒業した彼は、画家への志を抱き、1914(大正3)年に上京。山本鼎のはからいで、田端にある小杉放庵(別名・未醒、1881年―1964年)邸の離れで暮らし始めます。山本鼎と小杉放庵はともにフランスへ留学していた知己でした。

上京した年には、高村光太郎の工房に出入りするようになり、また横山大観や小杉放庵らが再興した日本美術院に研究生として入会。新たに創設された第一回二科展に「庭園の少女」が入賞するなど、画家としての出発は順調に思えました。

村山槐多_0003
〈「庭園の少女」(1914年、福島県立美術館蔵)第一回二科展入選。モデルは寄寓していた小杉放庵(未醒)の末娘・百合子。槐多の名を知らしめるデビュー作とも言える作品です。槐多を象徴するガランスとは一転、ウルトラマリンを用いた落ち着いた階調の作品〉


小杉邸の離れに住んだ2年間、部屋の壁は槐多の卑猥な落書きで埋め尽くされ、デカダンの限りを尽くした生活だったと、同居人の水木伸一は語っています。収入はなく、生活は貧困を極め、友人を訪問する際には食事時を狙い、借りた本も古本屋に売り飛ばすなど・・・。

村山槐多_0010 〈「のらくら者」(1916年)〉


高村光太郎は村山槐多の死後、それも四半世紀後に、その人となりを次のような詩に謳っています。
「村山槐多」(1935年)

槐多は下駄でがたがた上つて来た。
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足で上つて来た。
風袋のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を偏在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。


村山槐多_0012 〈「猫を抱ける裸婦」(1916年)〉



夭折の天才画家 村山槐多その3

2011年05月12日 00:22

村山槐多の美しいものへの執着は、性別や年齢を超え、ストーカーまがいの行いを起こすこともしばしば・・・。度重なる片思いと失恋は彼の奇行を際立たせます。

彼の第一の恋愛対象として現れたのは、京都府立第一中学時代、一級下の美少年・稲生澯(いのう・きよし)なる人物。

村山槐多_0004 〈「稲生像」(1913年頃)〉

ほとんど会話もしたことのない稲生に対し、彼を「PRINCE(王子)」と呼び、その思いを密かに日記や詩に謳いあげるのです。そしてある日、彼に宛てた激烈なラブレターを書き上げますが・・・思いは届かなかったようです。

「にぎやかな夕ぐれ(K.Iに)」(1914年)

「にぎやかな夕ぐれやおへんか
ほんまににぎやかやおへんか」
何がにぎやか、何がにぎやか、
薄青い濃い夕ぐれ

美しい空が東山に
紫の珠が雨みたいに東山に
星が血のりめいて酒びたりの春の空に
紫に薄くれなゐに

「ほんまににぎやかやおへんか」
たどりゆくは女の群
宝玉でそろへた様な多情な群
美しいお白粉にきらきらと

燈が燈が燈が加茂川の岸べに
金色に、アークランプも桜色に
「ほんまににぎやかやおへんか
きれいな夕ぐれやおへんかいな」

わたしはたどる紫の貴い薄紫の
神楽岡の裾を浮き浮きとした足どりに
たらりたらりと酒が滴たる
あざみ形の神経から

「にぎやかやおへんかいな」
わたしは答へるうれしさに
「そうどすえなあ」
美しい女の群に会ふや数々

「にぎやかな夕ぐれどすえな
ほんまににぎやかな
あの美しいわたしの思ふ子は
此頃どないに綺麗やろえな」

近衛坂を下れば池の面に
空がうつる薄紫の星の台が
ほのかにもるゝ銀笛の響は
わが思ふ子の美しい家の窓から

「にぎやかな夕ぐれやおへんか
ほんまににぎやかやおへんか」
この時泣いて片恋のわれはつぶやく
「そやけどほんまはさびしおすのえなあ」。

『槐多の歌へる 村山槐多詩文集』(酒井忠康編、講談社文芸文庫)より

題名にある“K.Iに”とは、一中時代に激しい片思いをした美少年・稲生澯のこと。そして、詩に謳われている神楽岡は稲生の住まいがあった場所でした。槐多は神楽岡を徘徊し、夜中、宗忠神社の近くから彼の家を見下ろし眺めていたことも、しばしば。そしてグロテスクな仮面を被り、オカリナを吹きながら恋する相手の住む夜の神楽岡を彷徨ったこともあったのだとか・・・。


稲生の次は、上京後、同居していた水木の後輩で、当時から画家志望であった柳瀬正夢(やなせ・まさむ)。さらには、部屋を借りていた小杉放庵の幼い二人の甥までもが、執着の対象だったのです。

村山槐多「二人の少年(二少年図)」1914年
〈小杉放庵の甥がモデルとされる「二人の少年(二少年図)」(1914年) 一時この絵は、江戸川乱歩が所蔵していました〉


そして、1916(大正5)年には槐多にとって(一方的に)運命の人といえる女性との失恋が待ち構えていました。その女性は“お玉さん”というモデル屋につとめていたモデル女性でした。

お玉さんを慕うあまり、彼女をモデルとして雇いたいとの懇願の手紙を執拗に書いたり、彼女の住居近くに越したり・・・。
彼女への激しい思慕は多くの詩に託され、「失恋の記録」(1917年)と題された長い詩には、お玉さんとの出会いから、拒絶され傷心の末、旅立つまでの経緯が綴られています。

そんな失恋の翌年には、根津に住む老妓“おとくさん”との出会いと別れもありました。
おとくさんは40歳過ぎで子持ちの、槐多がかつて住んでいた下宿先の「おばさん」でした。小杉邸の離れを出た後に移り住んだのが、おとくさんのいる下宿だったのです。
下宿していた頃はお玉さんに熱を上げていた槐多でしたが、その失恋を経て、おとくさんと再会し、美しく妖艶だった彼女に恋をしてしまいます。槐多は、工場の絵付けアルバイトで得た給料をおとくさんに貢ぐなど、絵に費やす時間を犠牲にしてまで彼女の虜となり、根津の裏通りにある彼女の家で同居を望むようになるのです。しかし、つれない彼女の態度に別れを決意し、傷心のうちに九十九里へと旅に出るのでした。


そして二つの恋に破れた後の1918(大正7)年秋、槐多は大喀血をします。当時、死病とされていた結核性肺炎に冒されていたのです。

1919(大正8)年2月、流行性感冒を患い寝込んでいた槐多は、18日夜、発作的に雪交じりの激しい雨の中へと飛び出していました。心配した友人たちによって捜し出された彼でしたが、容体は危険な状況となり、昏睡状態に陥ります。
意識の乏しい上の空の中で、彼は恋い慕った稲生の名や、お玉さんの名を呼び、最後に「コスモス」「飛行機のものうき光」という謎の言葉を残して死んでしまいます。2月20日のことでした。最後の謎の言葉は次に描こうとした絵のモチーフだったともいわれています。

村山槐多_0008 〈「白衣の自画像」(1916年)〉

彼の死後、友人である山崎省三によって詩や小説、日記が編集され、『槐多の歌へる』(1920年)として出版。世に村山槐多が知られることとなります。出版元・アルスの社長である北原鐵雄とその兄・北原白秋の“妹”は、村山槐多の従兄・山本鼎の“妻”でもあるという関係でした。


現在、村山槐多の詩文は『槐多の歌へる 村山槐多詩文集』(酒井忠康編、講談社文芸文庫)で読むことができ、作品は『新潮日本美術文庫42 村山槐多』(解説・窪島誠一郎)で手軽に見ることができます。ちなみに、村山槐多の多くの作品を所蔵する「信濃デッサン館」館主の窪島誠一郎氏は作家・水上勉の息子としても有名です。

村山槐多_0002 村山槐多_0001





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