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精神病治療発祥の地 岩倉 その1

2011年04月16日 00:55

精神病治療発祥の地 岩倉


京都市の中心部より北東へおよそ7キロメートルの場所に位置する左京区「岩倉」。

岩倉は山地に囲まれた郊外の小さな盆地ですが、昭和4(1929)年に同志社高等商業学校(現・同志社大学商学部)が当時はまだ村と称していたこの地に移転し、その頃からすでに文教地区としての素地はできあがっていました。また同じ頃には鞍馬電気鉄道(現在の叡山電鉄)が出町柳―鞍馬間の直通運転を開始したこともあって、岩倉の都市開発も徐々に進みつつあったのです。

そして昭和41(1966)年に日本初の国際会議場として「国立京都国際会館」が開設すると、住宅地としてのステイタスは一気に跳ね上がり、当時、全国最高の地価上昇率を記録。

さらに京都市を南北に延びる市営地下鉄が国際会館駅まで延長された平成9(1997)年以降は、利便性も格段によくなり、現在も農地が点在するものの、のどかな住宅地として人気を誇っています。


しかし「岩倉」と言えば、一昔前まで、ある用語の隠語となっていたことをご存じでしょうか。

そう、精神病院のあることで有名だったのが「岩倉」で、京都で「岩倉」と言えば「精神病院」を指す言葉でもあったのです。


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〈地下鉄「国際会館駅」より北に2キロメートルほど行った所にあるのが「目無橋」。岩倉川にかかる赤い欄干が鮮やかな橋で、道の正面が「実相院」です〉

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〈左の建物が「いわくら病院(旧・岩倉病院)」。道の突き当たりに見えるのが「実相院」の門〉


戦前の京都を舞台とした小説には、精神病院の地として「岩倉」の名が稀に登場します。

たとえば梶井基次郎の「裸像を盗む男」という大正12年に書かれた習作には、
「足越が酒精中毒で岩倉の癲狂院へ入った」と云うショッキングな話をその中からきいたのは自分が熱い珈琲を啜っている時だった。発狂や自殺未遂が今年は何人目だろうと数えられるほど起る学校なのであるが、平常学校や寄宿舎で天才だとか大酒飲だとか噂せられていた足越にその順番がまわって来たのは自分にとってはまるで思いがけないことだった。

また、田宮虎彦の「比叡おろし」では、
私が、細井さんから、細井さんの奥さんがもう十年近く岩倉の精神病院に入院していることや、奥さんの病状が悪くなるたびに葉子ちゃんが呼ばれて来るのだということを聞かされたのは、それから十日ばかりたって、葉子ちゃんが唐崎の町へ帰っていった翌日の夜のことであった。


現在も岩倉には「いわくら病院(旧・岩倉病院)」「北山病院」「第二北山病院」(後者二つは同じ法人ですが)と三つの精神病院があり、さらにこれら病院の母体法人が運営する介護老人施設なども多数存在します。

三つの病院の全てが岩倉の中でも「岩倉上蔵町(あぐらちょう)」という狭い町内にあり、そこには紅葉で有名な「実相院」や、幕末には勤王の志士も足繁く通ったとされる史蹟「岩倉具視幽棲旧居」もあって、岩倉の中でも特に歴史深い区域なのです。

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〈「実相院」。天台宗寺門派だった単立寺院で、回遊式庭園と枯山水が有名です〉


そして、この地に精神病院が集まっている理由には、“大雲寺”というかつての名刹の存在が大きく関係しているのでした。

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北岩蔵大雲寺は天台宗にして、本尊は聖観世音の立像なり、行基の作とぞ。抑此寺のはじめは、王城の北の空に紫雲のたなびく所あり、衆人是をあやしむ。去によつて勅使として右近衛中将何某をつかはし見せしめ給ふに、此山の巓なり。勅使不思議に思ひ給ふうち、忽然としてかしらに雪をいたゞきたる老尼現れ、曰、此地はこれ観世音降臨の霊地なり。又高峰にいたるに異香四方に薫じたる霊嶽あり、是を窺見れば音楽を奏して、其中より観世音の光明赫々たる尊体を拝して、此地に伽藍をたて給ひて、行基の作り給ひし尊像を本尊となす。大雲寺の額は詔によつて佐理卿筆を染たまひしなり。〔今本堂にかくる是なり〕開基は智辨僧正なり。〔伝釈書に出る〕又此所を岩蔵となづくる事は詔あつて王城の四方に石蔵をいとなみ経王を納めらる、其辺りに石座明神まします、是れ石蔵のゆゑんなり。
『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)北岩倉大雲寺より



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精神病治療発祥の地 岩倉 その2

2011年04月16日 00:56

まず、大雲寺のおおまかな変遷から・・・。


寺の縁起によると、第64代円融天皇の時、都の北の空に紫雲たなびく場所があり、不思議に思い勅使を遣わしてみると そこが霊地であることがわかります(よくある伝承です(笑))。
そして勅願によって天禄2年(971)年、その岩倉の地に大雲寺が創建されました。

僧・真覚を開山とする大雲寺ですが、実際、創建に尽力したのは真覚の舅でもあった日野中納言・藤原文範です。藤原文範は紫式部の曽祖父(式部の母の祖父)にあたる人物でした。
余談ですが、『源氏物語』の「若紫」で“わらは病”を患った光源氏が祈祷治癒のため聖僧のいる「なにがし寺」に行き、そこで紫の君と出会いますが・・・その「なにがし寺」のモデルは、紫式部と曽祖父・藤原文範の関係から大雲寺だったとも言われています(もうひとつの有力な説は鞍馬寺です)。

叡山西麓最大の天台宗寺院として栄え、開山である真覚が天台宗寺門派の僧侶であったことから、寺門派(園城寺)の一大拠点へと発展。
園城寺長吏や法性寺座主を務めた僧・余慶(智弁)が、天元4(981)年に一門の僧を引き連れて大雲寺へと移ってきたのも、同寺が寺門派寺院だったことに由来します。天台座主に就任したにもかかわらず山門派(延暦寺)の反対にあい、わずか三ヶ月で辞任させられた余慶。この確執が元で、山門派と寺門派の対立は決定的となるのです。

大雲寺は寺門派(園城寺)の別院として、また永観3(985)年には冷泉天皇の中宮・昌子内親王が寺内に観音院を建立するなど皇族の庇護もあり、寺はいっそう拡大し、岩倉観音院とも称されました。

ところが、同じ天台宗にあって山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)の対立が激化。大雲寺はたびたび山門派の僧兵によって襲撃され、焼失の憂き目に遭ってしまいます。
保延2(1136)年には、当時残っていた伽藍も全焼してしまいました。

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〈かつて寺門派寺院だった「実相院」の門から眺める比叡山〉

それでも、大雲寺は室町期に最盛期を迎えたといわれ、その頃には四十九におよぶ堂塔と、十万石の荘園を有し、さらに千人もの僧侶を擁する洛北屈指の名刹となっていたようです。

その後、元亀2(1571)年に起こった織田信長の比叡山焼き討ちで大雲寺も被害を被り堂宇は灰燼に帰し、ようやく江戸時代の寛永年間(1624年―1645年)に本堂等が再建され、『都名所図会』に描かれているような伽藍となるのです。

時は流れ、明治初期の廃仏毀釈運動は大雲寺にもおよび、寺域は縮小され、大きく衰退します。
さらに近年になっても、同寺の辿る不運はつきません。昭和60(1985)年には原因不明の失火により本堂等が焼失。
大雲寺は現在、かつての地より少し東にある「不二坊旧地」に移転し、往時の面影は全く見あたりません。

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〈現在の「大雲寺」は旧境内地より「石座神社」を挟んだ東に移転しています〉

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〈昔日の面影がない現在の「大雲寺」境内〉


かつて隆盛を誇っていた大雲寺のあった場所には、現在、精神科のある「北山病院」とその母体法人が運営する「老人性認知症疾病療養病棟 いずみ」「介護老人保健施設 紫雲苑」が建っています。

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〈「実相院」門前の北から続く「実相院宮墓」と「岩倉陵」への参道〉

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〈陵墓への参道を少し歩くと「北山病院」を運営する医療法人「三幸会」と老人保健施設「紫雲苑」の看板が立ち、ここがかつて「大雲寺」があった場所です〉



精神病治療発祥の地 岩倉 その3

2011年04月16日 00:57

「北山病院」を中心とする病院施設に囲まれた旧寺地の片隅に今も遺っているのが・・・大雲寺の“閼伽井(智弁水)”と“不動の滝”で・・・、これこそが精神病治療発祥の地たる“源”なのです。

201104091246092cf[1] 〈閼伽井(智弁水)〉

“閼伽井(あがい)”は、別名「智弁水」ともいって、先述の余慶(智弁)(918年―991年)が霊水を求めて密教の秘法を修めたと伝えられています。
また別の伝承として、大雲寺の僧であった文慶(965年―1046年)の夢に跋難陀龍王(密教で雨乞いの法会の際に拝まれる龍神)が現れ「此の地に名水有り、汝に与うべし」とのお告げがあり、文慶が左の袂をもって大地を撫でるとたちまち霊水が湧き出たという故事も残っています。
干ばつにも降雨にも増減しない「不増不減の水」とされ、特に“心の病”“眼の病”に効くと平安時代から信仰をあつめてきたのです。

2011040912461021c[1] 〈不動の滝(妙見の滝)〉

そして、閼伽井のすぐそばにある“不動の滝(妙見の滝)”は、古来、大雲寺で“心の病”がよくなるよう加持祈祷を受ける人たちの「垢離場(こりば)」(神や仏に祈願、参詣する際、自身の罪や穢れを洗い落とし、心身を清浄にする水行場所)で、“心の病”を持つ人を滝に打たせると回復するといわれてきました。

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〈わずかに二筋の滝が・・・。滝上に見える向かって左の祠には不動明王が、右の祠には妙見菩薩が祀られています〉


これらの伝承に加え、皇族と大雲寺との密接な関係が、湧き出る霊水をさらに神聖化させることとなるのです。

永観3(985)年には冷泉天皇の中宮・昌子内親王(950年―1000年)により大雲寺に観音院が建立されたと先述しましたが、注目すべきは第63代冷泉天皇(950年―1011年)の存在です。この天皇は幼少の頃から体が弱く、奇行が目立ちました。つまり精神を病んでいたことで有名だったのです。そのせいか、天皇在位期間もわずか二年足らずでした。
昌子内親王は、狂気の沙汰がみられる夫を恐れ、子もなく、大半を里邸で過ごしたといわれていますが、大雲寺に観音院を建てたり荘園を寄進したりと、たいそう仏教に厚く帰依した人物でした。
そして、多くの寄進した先が“心の病”の治癒で有名な岩倉の大雲寺だったというのも、夫である冷泉天皇の病を思えば、当然の行為だったと頷けます。

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〈右奥にあるのが、昌子内親王の墓である「岩倉陵」。左手の建物が旧「大雲院」境内地に建つ老人保養施設「紫雲苑」。かつての大雲寺境内のすぐそばに「岩倉陵」のあることがわかります〉

201104091243319d3[1] 〈岩倉陵〉

さらに、第71代後三条天皇(1034年―1073年)の皇女・佳子内親王(1057年―1130年)が宮中で「髪を乱し、衣を裂き、帳に隠れて、物言わず」という状態となり、大雲寺に参詣させ霊水を飲ませたところ、たちまちにして平癒したという言い伝えもあり、この出来事が噂となって広まり、大雲寺には各地から多数の精神病者とその家族が参集することとなったのです。

彼ら精神病者は食事と寝起きを提供する「籠り屋」で生活し、観音堂に詣で、閼伽井の水を飲み、不動の滝に打たれ“心の病”の治癒を祈ったのでした。

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〈『都名所図会』北岩倉大雲寺より 本堂の前に「こもりや(籠もり屋)」が、左には「智弁水(閼伽井)」「不動の滝」が描かれています〉

寺の周囲には、集まってきた人々を収容するための宿泊施設(茶屋)が古くから形成され(少なくとも江戸の文政年間(1818年―1829年)には四軒の茶屋の存在が確認されています)、そんな宿泊施設(茶屋)の一つから、明治17(1884)年に「岩倉癲狂院(後の岩倉病院)」が誕生するのです。



精神病治療発祥の地 岩倉 その4

2011年04月16日 00:57

精神病院について語ることは、タブーとされてきたのでしょうか。精神病院の成り立ちを系統立てて論じた書物は長らくありませんでした。
ところが、平成10(1998)年に出版された『精神病院の起源』(著者・小俣和一郎、太田出版)は、日本における精神病院の歴史を初めて顧みた興味深い読み物だったのです(著者の小俣氏は自らが精神科の医学博士で、「上野メンタル・クリニック」を開業し、多くの著作や翻訳もあるようです)。

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〈『精神病院の起源』著者・小俣和一郎、1998年、太田出版〉


『精神病院の起源』では、岩倉の大雲寺と同様“水治療”から精神病院へと発展する形態として、東京近郊の高尾山薬王院での「高尾保養院」や、岐阜・養老山地の鉄塔山天上寺での「山本救護所」、四国鳴門の阿波井神社における「阿波井島保養院」などを挙げていますが、その大半が密教系寺院だったことも注目です。

さらに“水治療”を手段とする療養地の特徴として、「その多くが密教系寺院であることはもちろん、修験道と結びついた修行的・拔魔的要素を色濃く反映していること、山地と平地のほぼ接点に位置していること」(小俣和一郎著『精神病院の起源』より)を指摘し、大雲寺のある岩倉が絶好の療養地だったことがうかがえます。

日本では古来より、病は“物の怪”に取り憑かれたとする迷信的病因説が支配していました。平安の世にあっても、精神病に限らず、病にかかると祈祷師が呼ばれ、憑依した“物の怪”を取り払うことで回復を願ったのです。
「滝行」に代表される「水行(水治療)」も、その“物の怪”を洗い流そうとする行為によって治療的意義を見いだしていたのですが、妄信的・迷信的とも思える“水治療”の効能について、小俣氏は精神科医の立場から次のように説明しています。
滝をはじめとする水治療法には、単なる「浄化」(清め)すなわち「祓い」の効能だけが期待されているばかりではなく、「衝撃」(自然のショック療法)作用や「冷却」などの生理学的・合理的効果も併存している。また滝や水行場に付随する自然環境(清涼な空気、静寂な環境など)も治療効果にあずかって、いっそうその効能を高める役割を果たしていたであろう。
小俣和一郎著『精神病院の起源』より

伝承や迷信だけではなく、これら合理的な治療効果を伴い、回復した人々が少なからずいたからこそ、近世に至るまで大雲寺のある岩倉に多くの人々が参集しのだということが、よくわかります。

平安の世から貴人の別荘地、隠棲地として選ばれてきた土地というだけでなく、日本における精神病治療発祥の地として、岩倉は今も緑豊かで、近くには岩倉川をはじめとする小川が流れ、保養地としても申し分ない環境が整っているのです。

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〈右が「石座(いわくら)神社」。左の道をまっすぐ行くと「岩倉陵」と老人保健施設〉

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〈かつての「大雲院」の本堂跡に建つ、老人保健施設「紫雲苑」〉

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 〈旧「大雲院」境内地に建つ「北山病院」〉



最後に、近代以降の岩倉の精神病院群の成り立ちについて触れておきます・・・。

江戸期には大雲寺の周囲に四軒以上の茶屋と呼ばれる、精神病者とその家族が寝泊まりし食事を提供する宿泊施設が存在していましたが、その頃には茶屋の管轄は大雲寺からすぐそばの実相院に移っていたようです。

そして明治初期には宿屋(茶屋)の収容能力を超えて人が集まることとなり、その事態を憂慮した当時の京都府知事・槇村正直は、岩倉から遠く離れた南禅寺の一角に「京都癲狂院」を設立します。これが日本初の公立精神病院だったのです。

この「京都癲狂院」の設立により、明治9(1876)年には岩倉の宿泊施設(茶屋)への“滞在禁止令”が発せられます。しかし設立からわずか7年後には「“府立”京都癲狂院」は財政難から「“私立”京都癲狂院」と民間に委託され、永観堂禅林寺の境内に移転。多くの患者は元の岩倉の宿屋(茶屋)へと戻ることになったのです。
さらに「私立京都癲狂院」は明治28(1895)年に共同経営者の一人であった医師・川越新四郎に移譲され、現在の「川越病院」(左京区浄土寺馬場町)へと引き継がれていくのでした。

さて、日本初の公立精神病院が頓挫した一方、岩倉の宿泊施設(茶屋)群は早々に“宿泊禁止令”も解かれ、多数の患者が逗留する活気ある場所へと戻ります。
そして明治17(1884)年には一軒の宿泊施設から「岩倉癲狂院」が誕生し、明治23(1890)年には89の病床を完備した病院施設として正式に開院しました。
明治25(1892)年の「岩倉精神病院」への改称を経て、明治33(1900)年には我が国初の精神医療に関する法律「精神病者監護法」によって再び“民宿禁止令”が出されるものの、当時の院長・土屋栄吉によって、まわりに併存していた七軒の宿泊施設(茶屋)と協力し、コロニー形式の治療圏が作られていくのです。

明治39(1906)年、ロシアの精神科医・ヴィルヘルム・スティーダが、「岩倉病院」(明治38(1905)年に「岩倉精神病院」から改称)を中心としたコロニー形式の治療圏を視察し、「日本のゲール(Geel)」としてドイツの学術誌に紹介しています。
ゲール(もしくは「へール」)とはベルギーの北部にある都市の名です。
600年頃に生きたアイルランドの王女ディンプナが、悪魔に取り憑かれた父王の元から逃れ、遠くベルギーの地へとやってきました。ところが、この地まで追ってきた父に殺され、さらにその遺骸が13世紀になってゲールに運ばれると、殉教者として聖人化され、1349年には町に「聖女ディンプナ教会」が建設。精神病をもつ人々がつぎづぎと巡礼に訪れるようになったのです。
当初は彼ら巡礼者の世話を教会が行っていましたが、その数はあまりに多く、教会の周囲に精神病者の宿泊施設が多数建設され、一般家庭も世話を担うようになり、町全体が世界的にもまれな精神病者の一大コロニーとなったのです。
1838年以降、病人の看護は市の管轄となり、1850年にはベルギー政府が国立精神病院を設立。現在も約500名の精神病者たちが、およそ440世帯に同居しています。
皇族が精神病に罹患し治癒した神聖な場所「岩倉」で、岩倉病院を中心にまわりの宿泊施設と協力してコロニーを形成していた状態が、ベルギーの「ゲール」に、なぞらえられるのは当然のことでした。

岩倉のコロニーは、土屋らの尽力もあり、宿屋(茶屋)の存続を特別に認められ、1935年には宿屋(茶屋)は「保養所」と公称されることとなり、終戦の昭和20(1945)年まで十ヶ所の「保養所」に320名以上の患者およびその家族が滞在していたのです。

しかし昭和20(1945)年、「岩倉病院(旧・岩倉精神病院)」は軍の接収によって閉院。

昭和27(1952)年には以前の岩倉病院とは別組織の「岩倉病院(現・いわくら病院)」が同地域に設立され、また昭和29(1954)年には保養所の一つから「北山病院」が誕生しました。
かつての保養所やコロニーであった頃の姿は見られなくなりましたが、病院や老人保健施設が多数存在する地域として現在に至っているのです。病院や関連施設の周辺には緑豊かな周囲を散歩する患者や老人の姿が今も当然のように見受けられます。

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〈いわくら病院(旧・岩倉病院)〉





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