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哲学者 土井虎賀寿 その1

2011年04月08日 00:51

哲学者 土井虎賀寿


京都帝国大学教授・西田幾多郎を創始者として戦前戦後の哲学界を席巻したのが“京都学派”です。そのなかでも「異端児」「反逆者」「孤高の奇人」と称されたのが、愛称“土井虎(どいとら)”こと哲学者・土井虎賀寿(どい・とらかず、1902年-1971年)でした。
彼は西田幾多郎の直弟子で、田辺元に見いだされ、天野貞祐に終生気にかけられた、愛すべき“奇人哲学者”だったのです。

数々の奇行もさることながら、旧制三高教授、京大講師の職をなげうって、40代半ばで東大大学院に入学し、学生へと転身した彼をマスコミは賞賛。一時、土井ブームを巻き起こすほどでした(まあ、そのブームの半分は、名誉と地位をなげうったという変人としての興味だったようですが)。

土井の主な業績には、数々のニーチェの翻訳刊行が挙げられ、また東大寺大仏開眼千二百年記念事業の一環として手がけられた「華厳経」のドイツ語訳は十余年の歳月を経て完成をみた一大事業でもありました。

反復性の躁鬱病を患い、病気ゆえの奇行の逸話に富み、そして、周りを顧みない集中力を発揮し、数々の著作を短期間で執筆(現在ではほぼすべてが絶版です)。患った躁鬱病は体に及ぼす負担を知らず知らずのうちに強いた反面、それによってもたらされた超人的な集中力が「華厳経」のドイツ語訳という常人では成し得ない難事業を完遂する原動力ともなったのです。しかし結局、病が高じて1971年、精神科の病院において心筋梗塞で亡くなります。69歳でした。


土井虎賀寿については、教え子である小説家の青山光二が彼をモデルに『われらが風狂の師』(1981年、新潮社刊)を書き、詳しく伝えています。

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土井が学習院大学で講師を務めていた1955年頃には、青山はすでにこの風変わりな師を主人公にした小説を書こうと考えていたようです。
とはいえ、なぜかこの上下二巻にわたる伝記風の長編小説では、土井虎賀寿は「土岐数馬」として、また一番身近で師をつぶさに見てきた青山自身は「菊本辰夫」という仮名で登場。そして土井の妻や子も仮名であるのに対し、他の関係者は実名で登場するという何とも消化不良気味の伝記となっているのでした。

奇行続出の悲劇の哲学者として、あるいはまた、華厳経ドイツ語訳という難事業を独力でなしとげた偉才として一般には記憶されているであろうD氏を、私がはじめて見たのは昭和六年、旧制第三高等学校の二年生のときであった。D氏は論理学を講じる二十九歳の新進学徒だったが、教壇の彼の世のつねならぬ、異色に満ちた、俊秀の二字を絵に描いたようでもあった風貌を、いまも私は明確に記憶している。名物教授数あるなかに、D講師ほど、青春の入口に立った向学心のつよい若者たちにとって魅力的で、若々しい学問の空気を発散してやまない存在は他になかったと思う。
(中略)
さて、この作品の主人公はD氏にかなり似ているはずだが、むろんD氏を等身大に描いたわけのものではない。あくまでも、D氏をモデルにしたというにすぎず、この作品においてD氏の伝記を書こうという気は、さいしょから毛頭、私にはなかった。したがってD氏に関する伝記的事実は、作品を構成するための方法的必然によって、随所で無視されたり変改されたりしている。この作品については、ほんらい虚構の上に立って、D氏に似たところの多い人物を造型したという云い方が、ほぼ正しいであろう。

『われらが風狂の師』(著者・青山光二、1981年、新潮社刊)あとがきより

もちろん“D氏”とは土井虎賀寿のことで、「D氏をモデルにしたというにすぎず」と、あとがきでは記していますが、どうやらかなりの周辺取材を重ね、実際の土井に近い実像がそのまま描かれているのでは、と推察できます。




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哲学者 土井虎賀寿 その2

2011年04月08日 00:55

では、『われらが風狂の師』(著者・青山光二、1981年、新潮社刊)の記述を中心に、土井虎賀寿の経歴を詳しくたどってみましょう。


土井虎賀寿の旧姓は、久保(愛称の“土井虎”となるのは、三高講師となった三年後の1932年に土井杉野と結婚し、さらにその半年後に婿養子となって改姓してからのことです)。
土井は1902年、香川県高松の医師の家に生まれ、医師を目指して京都の旧制第三高等学校理科乙類に入学します。
三高を卒業後、京都帝国大学理学部で一年間、植物学や物理学を専攻したあげく自分にその分野が向かないのを見極め、文学部哲学科に改めて入り直し、西田幾多郎門下となりました(哲学科の学生だった土井はしばしば西田邸の留守番を頼まれ、西田の蔵書を読みあさったのだとか)。

201103240132522ce[1] 〈京都大学〉

1926年に京大を卒業すると、いったん故郷の高松に戻り、女学校の英語教師となります。その際、異父兄の世話で結婚をしました。就職の条件が妻帯者でなければならなかったのです。相手は地元でも評判の美人でした。
妻は従順で、土井(当時は久保)にも表だっての奇行は見られず、平凡で幸せな結婚生活を送りますが、結婚して二年後、妻が風邪がもとでの急性肺炎で死去。土井の悲嘆は相当なもので、自殺未遂を起こして新聞ダネとなり、教職にとどまれなくなって、京都に舞い戻ってきたのです。

失意で呆然と暮らしていた土井がもう一度哲学の世界に身を置こうとしたのには、たまたま知り合いになった同年輩の高山岩男(のちの「京都学派四天王」の一人)の学問に対する情熱に触れたからで、土井は哲学科大学院に籍を置き、特待生として研鑽を重ね、同時代に同じく大学院にいた高山や下村寅太郎、さらには西谷啓治をもさしおいて、「俊才」の名をほしいままにしていたのだとか。

1929年には三高講師となり、1932年に土井杉野と結婚。妻の杉野は東北大学法文学部に在籍していた才女で、京大教授の天野貞祐(第3次吉田内閣では文部大臣を務めました)が、杉野と土井虎賀寿(当時は久保虎賀寿)を結婚させようと画策し、その思惑通りに天野の仲人で結婚をしたのです。しかし土井と、東北大学を中退して結婚に踏み切った知的な妻との相性はあまりよろしくなかったようで、土井はことあるごとに人に対して妻のことを「悪妻」と言いふらし、いつも「離婚する」と喚いていたそうで・・・それでも二人は終生添え遂げました。

月給の全部を本代につぎ込み、京大近くの洋書専門店で教師の中で一番原書を多く注文するという噂がたったのも三高講師の頃でした、また教え子の竹之内静雄(筑摩書房の第二代社長)や野間宏は吉田山中腹にあった土井家を頻繁に訪ね、特に竹之内は留守番を頼まれて泊まり込むこともたびたび。根太が落ちそうなくらい家中に充満している書物を物色しては時間を忘れて読みふけったと回顧しています。

1941年から三高教授、京大講師となっていた土井は、1947年に京都大学創立五十周年で記念講演を行います。
当時、分野を異にする将来を嘱望された三人の新進学者が講演では登壇し、哲学者の代表として抜擢されたのが土井だったのです。これは師である田辺元の推挽によるもので、京都学派としていかに彼に期待がかかっていたかが伺われます。しかしその講演の後、師の田辺元から彼に対して一言のねぎらいの言葉もないばかりか、田辺が知人に「いやな感じだったな」「ああいうのは、わたしは、いやだ」と漏らしたことが、土井が三高教授、京大講師の職をなげうって、東京大学文学部大学院に入学する原因になったとされています。
土井の自己中心的で癖のある話し方が、田辺にとっては無性に鼻について虫が好かなかったのです(何を今さら、という感じですが)。

本来、西田幾多郎の弟子だった土井ですが、西田の後継者であった田辺によって認められ世に出た経緯がありました。彼の処女作『「ツァラトゥストラ」羞恥・同情・運命』(1936年、岩波書店)が出版されたのも田辺の推薦があったからで、西田亡き後、京都学派の最高権威たる田辺にそっぽを向かれては、もはや土井の居場所は京都にはありません。京大アカデミズムのなかでの出世は断たれたと言っても過言ではなかったのです。

そうでなくとも、同僚とも言うべき、西谷啓治、高山岩男、高坂正顕、大山定一らはすでに京大教授、助教授となっていて、冷や飯食いの“万年講師”は土井ただ一人という状況も学生時代「俊才」の名をほしいままにした土井としては我慢ならなかったのでしょう。
奇人と呼ばれるだけあって、世事に疎く、学内での政治や人間関係には無知で無能力だった土井だからこその出世の遅れだったともいえそうです。




哲学者 土井虎賀寿 その3

2011年04月08日 00:56

京都大学創立五十周年の記念講演で田辺元に愛想を尽かされた翌年(1948年)、土井の関心も哲学から文学へと移っていたこともあり、ボードレェル研究のためフランス文学の大家である辰野隆に弟子入りすべく土井は妻子を京都に残し、単身で上京。東京大学文学部仏文科大学院に入学します。“教師から学生への転身”という、突飛もないこの行動が朝日新聞の「天声人語」で取り上げられ、一躍、土井は時の人となるのです。

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エスカレーター式に「大学教授」への昇格を夢みる先生の多い時世に、高校教授が進んで一学生に逆もどりしたという話がある。たしかに一服の清涼剤である。三高教授土井氏が知友へよこした通知状には「志を新たにして再び学生として勉学いたしたく」とあるそうだ。二十年の講壇生活を棄てゝ、もう一度顔を洗つて出直そうというわけだ。人生五十に近く花木春過ぎて夏すでに半ばとなる。「起つて禅とうをたずねて清風に臥さん」というのが古来日本人好みの心境だつた。土井氏はあえてこの道を行こうというのである。日本は今お互いに顔を洗つて出直さねばならぬ時だが、冷たい水で顔を洗うのをいやがる者も少なくないようだ。(中略)昔、八幡太郎義家は「好漢おしむらくは兵法を知らず」といわれて発奮、大江匡房についてイロハから兵法を学んだと伝えられる。先生が自ら兵法を知らないようでは、生徒より年の多いということが、たつた一つの取柄になつてしまうだろう。

『朝日新聞』1948年4月13日付「天声人語」より

この「天声人語」を書いたのは当時、朝日新聞の論説委員でフランス文学者でもあった吉村正一郎でした。吉村は三高、京大の出身で、土井よりも2年後輩という、全く知らない間柄でもなかったのです。

ただし、これほど朝日新聞で持ち上げられ、世間からも注目された土井でしたが、世事に疎い彼は一つ大失態をしていました。師と仰ぐべき辰野隆は入学の前年、東大を定年退官していたのです。笑い話にもならない、すれ違いでした。

そして、辰野のいない東大大学院に身を入れて通うはずもなく、時代の寵児となっていた土井の元には、原稿依頼が殺到。
と同時に、自分を捨てた田辺元率いる京都学派への嫉妬による批判と否定も始まるのです。これが「反逆児」と呼ばれる由縁でもあります。当初はそんな姿勢がおもしろがられていたものの、浪費癖と度重なる原稿料の前借り、さらに哲学者としては有能であっても、文学者としての言葉は持ち合わせていなかったことから、一般雑誌や世間からは徐々に飽きられ、常にお金には不自由していました。

三高教授、京大講師の職をなげうって上京した五年後の1953年からは天野貞祐の推薦で学習院大学文学部講師となり、それと同時に相模女子大学教授の職を得ます(あのまま、京大に勤めていれば早晩、京大教授になれていたでしょうに、何のために上京してきたのだか・・・)。

学習院講師時代の初めは、聴講生も多く、大変盛況だったようです。生地のすり切れたズボンに手ぬぐいをぶら下げ、無精髭にベレー帽を被った放浪画家風の風貌。土井のうらぶれた格好が、ブルジョアの師弟が多い学生の興味を引くのは必定でした。

しかし、教師の身でありながら躁状態になると「哲学者をやめて絵描きになる」と言い出し、日常生活品を詰め込みいつも持ち歩いているズタ袋と、画用紙を挿した大判の画板を手に身をくらますという生来の放浪癖や、幾人かが共同で使用する講師室を独占したり、宿泊してはならない研究室に宿泊するという規則違反を繰り返したり・・・大学でも周囲との摩擦をたびたび引き起こします。

また、土井の三高講師時代の教え子(土井自らが言うところの“弟子”)には、竹之内静雄、野間宏、青山光二、粟津則雄、田宮虎彦らがいて、東京に住む彼らは土井の躁状態には何らかの被害を被る人たちでもありました。突然の予期せぬ訪問を受け、交通費と称して金をせびられたり、絵描き気取りの土井のデッサンを買わされたり・・・と(笑)。

さらには、時代の寵児となって浮かれていた土井は、妻子が東京に出てきているにもかかわらず、担当となった女性編集者につきまとったり、武田泰淳の妻となる鈴木百合子(後の武田百合子)に一方的に恋心を抱き、京都で一緒に住むことを夢想し、部屋を借りたり・・・。武田泰淳と結婚する前の武田百合子は、出版社である旺森社に就職するも、社長が経営していた隣の喫茶店「ランボオ」の女給として働いていました。この作家が集まる喫茶店に連れてこられた土井に見初められてしまったのです。

度重なる奇行と周囲との摩擦のため学習院大学講師の職さえも失う土井でしたが、1964年には新しく開学した獨協大学に外国語学部の教授として迎えられます。獨協大学の学長が天野貞祐で、彼の強い推薦で、ドイツ語学科のドイツ語と一般教養科目の哲学を担当できることとなったのです。

といっても、そこでの授業も高校を出たばかりでドイツ語のドの字も知らない学生にゲーテ詩集をドイツ語のまま講読するといった講義をしたり、また講義は一貫してノートや文献のたぐいを用いず、滔々と観念が観念を呼ぶようにして一時間でも二時間でも哲学論議をしゃべり続けていたという、ハチャメチャぶりだったようですが。


なお、京都学派の人間関係については、竹田篤司・著『物語「京都学派」』(2001年、中央公論新社刊)に詳しく記されています(土井虎についての記述は多くありませんが)。

20110324012819be5[1]
〈『物語「京都学派」』(著者・竹田篤司、2001年、中央公論新社刊)〉




哲学者 土井虎賀寿 その4

2011年04月08日 00:57

土井虎賀寿の行った仕事の中でも、まがう事なき大仕事は、「華厳経」六十巻のドイツ語訳でした。


土井が学習院の講師となった同じ頃の1953年。東大寺塔頭観音院の住職・上司海雲(かみつかさ・かいうん、1906年-1975年)の委嘱により「華厳経」のドイツ語訳に取りかかります。そして翌年には大仏開眼千二百年記念事業の一環として東大寺の宗会で正式に決定し、当面の二年間、月二万円の手当が土井に支払われることが決まったのです(もちろん膨大な量の六十華厳のドイツ語訳が二年間で完了するとは誰もこのとき思っていたなかったようですが)。
大方広仏華厳経の旧訳六十巻をドイツ語に翻訳して、西欧の宗教・思想関係の機関や大学に贈呈しようとする壮大な企画でした。

そもそも、上司海雲(のちの華厳宗管長・東大寺206世別当)という人は、文化・芸術に造詣が深く、志賀直哉のつくった文化人サロンである“高畑サロン”を引きぐかたちで“観音院サロン”を展開し、奈良の文化向上に努めた人物でした。
自身も、龍谷大学英文科を卒業し、「華厳経」の英訳を試みるほど、仏典敷衍に関心と意欲はあったのですがあまりの難仕事に断念し、その思いをドイツ語訳という形にかえ土井に託したのです。

大仏開眼記念事業の一環として企画されたこの仕事は、本来予定されていた年より十年後の1963年に完了します(しかし、仏典の多さからすると、十年の年月での完成も驚くべき早さなのです)。六十華厳経のドイツ語訳は大学ノート150余冊に及ぶ膨大な量となりました。

完成した草稿は東大寺の図書館に長年納められていましたが、土井没後の1975年に旧制三高や最後に教鞭を執った獨協大学の関係者を中心に五百人がカンパを出しあい、本にしたいという土井の悲願を叶えようと動き出します。そして、着手から二十五年後、完成から十五年後となる1978年に、「華厳経」の中でも約三分の一にあたる最後の入法界品の部分が『DAS KEGON SUTRA』(限定千部)として刊行され、(土井の仕事の一部分ではあるものの)日の目を見ることとなったのです。


以下の記事が『DAS KEGON SUTRA』の刊行を紹介した書評欄です。

20110324012929de8[1]
〈「日の目みた華厳経の独語訳」土井虎賀寿氏の遺稿  1978年8月10日付『朝日新聞』〉


この新聞記事のなかで、土井の娘・土井佐保さんは「父は緊張の持続で、どうして頭がこわれないかと不思議でした。何か考えはじめると、他のことに興味が全然いかないんですね。そして仕事が終わるといつも病気になる」と当時を回想しています。
また、天野貞祐に請われ、土井の翻訳の手伝いを頼まれた学習院大学教授のロベルト・シンツィンガー氏は「ドイは何週間もみつからないことがあった。彼の家族さえ、彼がどこにいるのかを知らなかった。あとになって、彼がどこかの静かな山の寺院で翻訳に没頭していたり、またある時は有識の高僧と論じあっていたことが明らかになった」と振り返っています。


まあ、ここで話が終われば、崇高な仕事を全うした大人物として語り継がれるのですが・・・、

当初は月二万円もらっていた手当も、三万円、五万円と土井の要望の通りに増えていき(その間も、たびたび上司海雲の元に手当の前借りを頼みに行く始末で・・・)、さらに翻訳が完成すれば完成したで、今度は著作権の所在が気になって、寺側からはそれに対し都合のよい返事がもらえなかったことに腹を立て、本になっても印税が出なければ無償の行為になると息巻いたりして・・・・。
そもそも、東大寺側は土井の訳稿を月々の手当で買い取っているつもりであり(月二万や五万という手当の額は、決して少ない金額ではありませんでした)、両者の間に契約書も覚え書きも取り交わされていなかったことが、土井の都合のいい思い違いになったようです。

それでいて土井自身はといえば、ドイツ語の堪能な教え子・粟津則雄にニーチェ等の翻訳を手伝わせては、「これで時間が半分ですむ」と喜ぶくせに、粟津と共著とする意志や印税を分ける気はさらさらないという利己的な態度だったとか・・・というか、そこまで頭が回らない人だったのです(苦笑)。


さて、ここまでの逸話で“奇人”や“金にルーズ”といった印象ばかりが残ってしまいましたが、最後に土井虎賀寿の名誉を少々、回復させておきましょう。

彼の教え子の中には、哲学者や文学者ばかりでなく、1973年に「ノーベル物理学賞」を受賞した江崎玲於奈もいました。
江崎は旧制同志社中学校を卒業後の1942年に第三高等学校に入学します。そこでの担任が土井虎賀寿だったのです。

文部科学省が発行する『平成19年版科学技術白書』の中の「個の創造性を大切に」と題したコラムでは、江崎玲於奈は土井虎賀寿を次のように紹介しています。

私は18歳の時、戦時中でしたが、旧制第三高等学校で土井虎賀寿(とらかず)という学内では有名な先生の名講義に感動した覚えがあります。「論理学は古代ギリシャに始まる。最初に触れたのはソクラテス、次いで、その弟子プラトン、さらに続いて、その弟子アリストテレスの手で進展した。」講義に使った彼の著書「原初論理学―ヘーゲル的ロゴスの発展」のはしがきに、自分は青春の十幾年、心血をしたたらせながら、労苦の限りを尽くして仕上げたと記しておられました。この彼の理想に燃えて学問に取りつかれた心は学生たちの心をもとらえて離さず、われわれを論理の世界に引きずり込みました。このように、「サイエンスに取りつかれた心」を持つ先生こそが高校生に「サイエンスの心」を伝えることができるのです。

また、『読売新聞』2010年10月5日付朝刊の「時代の証言者」と題された、江崎の生い立ちを紹介したコラムでも次のように、土井が語られています。

担任だった哲学の土井虎賀寿先生のことは忘れられません。ニーチェの研究で知られ、「生成の形而上学序論」などを書かれた先生は、月給のほとんどを書籍の購入に費やされていたとか。「論理学は僕にとって、僕の瞳が最後の陽光に揺れる瞬間に完成できればいい仕事である」ともおっしゃっていました。
こんな言葉を語る先生に、学生は感動せずにいられません。論理を究めようとする先生の姿に、やはり論理を積み重ねて進歩を続けるサイエンスの精神が重なりました。

おそらく、江崎が学んでいた頃の土井は学究の徒として、もっとも光彩を放っていた時期だったのでしょうが、ノーベル賞を受賞した教え子に、ここまで言わせる土井虎賀寿。やはり、ただ者ではないですねっ。






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