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日本画家 甲斐庄楠音 その1

2011年03月28日 00:47

日本画家 甲斐庄楠音


1999年に角川書店から出版された岩井志麻子の小説集『ぼっけえ、きょうてえ』。「第6回日本ホラー小説大賞」や「第13回山本周五郎賞」を受賞した作品そのものもさることながら、単行本の表紙に使われた絵が注目を浴びます。

絵のタイトルは「横櫛」。作者は甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと、1894年-1978年)という人物でした。

横櫛 1916年 京都国立近代美術館
〈「横櫛」 1916年 京都国立近代美術館所蔵〉

その絵は、従来の女性画、美人絵にはない、人間の暗部を描き出す生々しい作風で、悪魔的、退廃的と称される言葉がぴったり当てはまります。

幻覚(踊る女) 1920年頃 京都国立近代美術館
〈「幻覚(踊る女)」 1920年頃 京都国立近代美術館〉

没後二十年にして奇しくも本の表紙に作品が用いられたことから、再評価を受けることとなる甲斐庄楠音ですが、描く作品の異様さと同様に、この人の人生もまた“奇人”と呼ぶにふさわしい、波瀾万丈の人生だったのです。

ホモセクシャルにしてナルシスト。画家にして風俗考証家。名匠・溝口健二の片腕として数々の映画で風俗考証を担当し、『雨月物語』では米アカデミー賞の衣裳デザイン賞にノミネートされ、年老いてなお、素人芝居の女形を演じ・・・。
この短い肩書きだけでも、彼の才能と怪しさは理解できることでしょう。


甲斐庄楠音の人生については、フランス文学者であり美術評論家の栗田勇氏が著した『女人讃歌―甲斐庄楠音の生涯―』(1987年、新潮社刊)等に詳しく描かれています。

女人讃歌ー甲斐庄楠音の生涯ー
〈『女人讃歌―甲斐庄楠音の生涯―』(著者・栗田勇、1987年、新潮社刊)〉



1894(明治27)年、京都に生まれた楠音は、父方が楠木正成の末裔にして旧旗本の名家(父には側室もおり、9人兄弟の5番目の子供でした)。母方が御所士(女人禁制の御所にあって、諸卿・諸士の接待に従事する宮仕え)の家庭という恵まれた環境に育ちます。

喘息持ちで体の弱かった楠音を父は兄弟の中でも溺愛し、5歳頃までは女の子の着物を着て人形遊びに興じていたのだとか。
中学は当時のエリート校である第一中学校に入学しますが、進学校の空気に馴染めず、京都市立美術工芸学校図案科へと編入。
この頃には父は亡くなっていて、東京に住む長兄・楠香の経済的援助で、父親の存命中と変わらぬ不自由のない生活を送っています。

その後、京都市立絵画専門学校に進学し、ダ・ヴィンチに傾倒して西洋絵画の美術書を読みあさり、素人歌舞伎の女形を演じるなど芝居に熱狂。自らの女装した姿を写真に撮り、それをモデルに絵を描くという自己陶酔の制作スタイルを確立したのです。
画壇に登場したのは、1918(大正7)年。学校の先輩である村上華岳、土田麦僊、入江波光、小野竹喬、榊原紫峰らが文展に対抗してつくった「国画創作協会」の第1回展に出品した「横櫛」によってでした。

横櫛 1918年 〈「横櫛」1918年〉

1922(大正11)年には帝展に「青衣の女」が入選。このまま京都画壇を代表する作家に成長するかに思えた楠音でしたが、彼にとって大きな事件が1926(大正15)年に起こりました。
それが、俗に言う“穢い絵”事件です。

国画創作協会の第5回展に出品予定だった「女と風船(蝶々)」が、会を主宰していた土田麦僊によって“穢い絵”だとして直前になって出品を拒否されたのです。

1928(昭和3)年には、楠音の主戦場であった「国画創作協会」が解散。
この後、画壇とは徐々に疎遠となり、1940(昭和15)年の時に知り合った溝口健二によって、映画の世界に進出します。
芝居好きが興じて得た知識は、映画界の風俗・衣裳考証の分野で大いに生かされました。
そして1955(昭和30)年、61歳の時には『雨月物語』(溝口健二監督)で米アカデミー賞の衣裳デザイン賞にノミネートされるという快挙を得るのです。
しかし、翌年、溝口健二が亡くなると、未練なく映画界を去り、絵の世界へと戻ったのでした。

その後は、映画時代から加わっていた映画関係者・芸術家たちのサークル「山賊会」での個展で絵を発表したり、素人芝居に精を出したり、旧作の絵に筆を加えたりと悠々自適の生活を送っていたようです。また1963(昭和38)年に京都市美術館で国画創作協会回顧展が開催されると、過去の作品を通じて再び注目されましたが、思うように新作の筆は進まず、1978(昭和53)年、83歳で亡くなりました。


なお、現在、楠音の作品は『甲斐庄楠音画集 ロマンチック・エロチスト』(監修・島田康寛、2009年、求龍堂刊)で見ることができます。

甲斐庄楠音画集 ロマンチック・エロチスト 求龍堂
〈『甲斐庄楠音画集 ロマンチック・エロチスト』(監修・島田康寛、2009年、求龍堂刊)〉




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日本画家 甲斐庄楠音 その2

2011年03月28日 00:52

二枚あった出世作「横櫛」・・・。


甲斐庄楠音の出世作「横櫛」には、二つの絵が現存しています。

ひとつは、1916(大正5)年に制作された京都国立近代美術館所蔵のもの。
もうひとつは、1918(大正7)年に制作された広島県立美術館所蔵のものです。


1918年の「国画創作協会」第1回展に出品した「横櫛」で一躍注目を浴びた甲斐庄楠音。「国画創作協会」とは、土田麦僊や村上華岳ら京都市立絵画専門学校の第1回卒業生を中心に、当時の若手の登竜門であった「文展」に対抗して作られたグループ展でした。

燦然と輝く蜂葡萄酒の広告塔を眺めながら四条大橋を通っていた楠音は、普段から尊敬していたものの親しくはなかった先輩・村上華岳に突然声をかけられます。「校友会の横櫛は良いですね。感心しました。美人画の新しい境地を・・・一線を劃された」「吾々が今度ひらく国画創作協会へ、あれを出品してくれますか」と。
“あれ”とは楠音が絵画専門学校の卒業制作で校友会展に出品したとされる「横櫛」(1916年)のことでした。
これは卒業制作の締め切りが迫っていたにもかかわらず、何もしていなかった楠音が、前年に長兄の嫁・彦子と南座で見た歌舞伎「処女翫浮名横櫛」の印象を元に、彦子をモデルに思い描き、一週間で仕上げた作品だといわれています(ちなみに「横櫛」完成の半年前に、彦子は東京で病没していました)。

そして、この絵が現在、京都国立近代美術館に所蔵され、『ぼっけえ、きょうてえ』の装丁に用いられた「横櫛」なのです。

横櫛 1916年 京都国立近代美術館 〈「横櫛」 1916年 京都国立近代美術館〉



そして、おそらく国展(「国画創作協会」第1回展)出品のために改めて新しく描かれたであろう「横櫛」(1918年)は、岡本神草の「口紅」とならんで大変な評判となり、画葉書が飛ぶように売れ、どちらも“樗牛賞”候補に挙げられます。ところが、村上華岳が「横櫛」を、土田麦僊が「口紅」を強く推し、どちらも譲りません。そこで竹内栖鳳の仲裁により、金田和郎の「水蜜桃」が漁夫の利で受賞するという因縁が起こります。ただ、その混乱さえも「横櫛」の評判をさらに高める一因でしかなかったようです。

岡本神草「口紅」京都市立芸術大学所蔵 〈岡本神草「口紅」 京都市立芸術大学所蔵〉


下記が国展に出品したときの「横櫛」です。広島県立美術館に現存する「横櫛」と構図は全く同じですが、女性の表情とともに、右上にあったはずの「切られのお富」の絵が短冊に書き換えられていることがわかります。

横櫛 1918年 〈「横櫛」 1918年〉



「横櫛」はその後、国展の後援者であった吉田忠三郎の元へ引き取られます。吉田は村上華岳や土田麦僊の作品のほとんどを所蔵する好事家でもありました。
さらに数年後、楠音に三条河原町の大文字屋の主人・奥村政太郎から「一度お目にかかりたい」と連絡があり、話を聞くと、吉田が亡くなり売りに出されていた「横櫛」を買ったというのです。そして、画面の後ろに描かれている「切られお富」の絵を消してほしいという依頼でした。
楠音もまた、「切られお富」の絵は不必要だと思い、表具屋に消してもらおうと、松浦松栄堂へと渡します。そして、絵のことを思いやっているうちに依頼したはずの奥村もなくなり、楠音も映画の世界へ転身し、ずっと楠音の自宅の二階に放っておかれていました。

その後、1963(昭和38)年に国展の回顧展を行うことになり、府の美術館関係者から「横櫛」出品の依頼を受けます。その頃に「横櫛」を確認するとネズミの小便のようなシミがついていたという散々な始末で・・・。
楠音は「横櫛」の出品にあまり乗り気ではなかったようですが、一緒に出展されるであろう、鬼門に入っていた岡本神草の「口紅」と比較されることを思い、修理に取りかかります。その際に、「切られお富」の部分を短冊に描き換え、顔の全部を洗い直しましたが・・・描き直しても、当時の“アノ微笑”は戻ってこず、「青い鳥は逃げた」と楠音は悲嘆に暮れたのです。

この描き直された「横櫛」はさらにその後、広島県尾道市に住んでいた旧知の洋画家・小林和作にもらわれ、現在の広島県立美術館所蔵となりました。

横櫛 1918年 広島県立美術館 〈「横櫛」 1918年 広島県立美術館所蔵〉



実は長年、「横櫛」は修繕された広島県立美術館所蔵の一点だけと思われていました。ところが、1994(平成6)年に新たにもう一点の「横櫛」が発見されます。それが先に紹介した1916年に描かれ、『ぼっけえ、きょうてえ』の装丁に用いられた京都国立近代美術館所蔵の作品なのです。

つまり、作者・甲斐庄楠音さえも「青い鳥は逃げた」と惜しみ、国展に出品され、華麗なる画壇デビューを果たした往事の作品を彷彿とさせる“アノ微笑”をたたえた「横櫛」を、今は目にすることができるということなのです。
そして、魔性の微笑みをたたえたその絵がホラー小説の単行本の表紙を飾り、多くの人の関心を引いたことは、楠音の波乱に満ちた人生とともに注目に値する出来事だと思うのです。

ちなみに・・・、栗田勇氏が著した『女人讃歌―甲斐庄楠音の生涯―』(1987年、新潮社刊)は、甲斐庄楠音の人生がうまくまとめられた伝記です。しかし新たな「横櫛」発見前に出版されていることから、「横櫛」は一枚だけの前提で描かれてしまっていますので、読まれるときにはご注意を。




日本画家 甲斐庄楠音 その3

2011年03月28日 00:52

ホモセクシャルの楠音が唯一愛した女性・・・。


一生を独身で通し、ホモセクシャルといわれていた甲斐庄楠音。実際、若かりし頃の彼には榊原始更という夫婦のように同棲生活を営む相手がいました。彼は榊原紫峰の実弟で、楠音と同じく日本画家でもありました。
しかし、兄の紫峰がそんな弟の生活を心配し、ふたりを別れさせます。始更を手伝いの女性と強引に結婚させてしまうのです(ただし、それ以降も、戦前まではたびたび始更は楠音のもとを訪れ、兄の紫峰ともども交流は続いていたようですが)。

甲斐庄楠音と榊原始更 〈甲斐庄楠音(左)と榊原始更(右)〉

男性しか愛せない楠音にも生涯で一度、結婚を意識した女性がいました。それが丸岡トクです。
絵画専門学校時代に1学期だけ卒業が延期され留年することになった楠音でしたが、そこで一級下の丸岡比呂史と知遇を得ます。1917(大正6)年頃、丸岡がアトリエとして使っていた部屋で一緒に制作していた際、そこに出入りしていた丸岡の妹・トクと親しくなり、本人同士はもとより、両家の間でさえも将来の結婚が公認となるほどの仲となるのです。
ところが、知り合って三年後、当時相場で当てた20歳も年上の富豪・新実八郎兵衛という人物に見初められたトクは、着物などを買ってもらって別荘に連れ込まれ、泊まり込んだところを囲い者になった・・・という話です(楠音の実妹の話では、その後も平気な顔で楠音とトクは会っていたといいますが・・・)。

さて、楠音が唯一愛した女性・トクをモデルに描いたのが1922年に帝展に入選した「青衣の女」(1919年)です。

青衣の女 1919年 京都市美術館 〈「青衣の女」 1919年 京都市美術館所蔵〉

そして下が、「青衣の女」と同じポーズをとる丸岡トク本人です。

青衣の女のモデル・徳子 〈「青衣の女」のモデル・丸岡トク〉

唯一の愛した女性にさえ裏切られてしまった楠音は、それまで以上に、女性の内に秘めた業や辱めを全面に描くこととなるのです。


春宵(花びら) 1921年頃 京都国立近代美術館
〈「春宵(花びら)」 1921年頃 京都国立近代美術館所蔵〉




日本画家 甲斐庄楠音 その4

2011年03月28日 00:56

「穢い絵事件」とは・・・。


甲斐庄楠音の人生に後々まで重い十字架となって背負うこととなるのが、「穢い絵事件」です。

1922(大正11)年には帝展に「青衣の女」が入選し、若くして絶頂期にさしかかろうとしていた楠音のプライドを地に踏みにじる痛恨事が起こります。
1926(大正15)年、国画創作協会の第5回展に出品した「女と風船」(のちに「蝶々」と改題)が、会を主宰していた土田麦僊によって“穢い絵”だとして出品を拒否されたのです。

開催の前夜、楠音は友人たちと、横浜で香料の会社を営む実兄・楠香の家に泊まっていました。明くる朝、意気揚々と上野の美術館へ乗り込み陳列場へ入ろうとした楠音に、声がかかります。土田麦僊によって「女と風船」の陳列が断られたというのです。
すぐに楠音は、出品作品の仕上げをしていた麦僊のいる寺を訪れます。楠音の再三の懇願も、「ああ、あれは困りましたね。穢い絵は会場を穢くしますからね。あれは遠慮してください」の一点張りでした。

新境地を踏み出したと思っていた自信作だっただけに、そのショックは尋常でありません。
それ以降、「穢い絵で綺麗な絵に勝たないかん」「京の千菓子のような、友禅の模様のような絵を追っ払わねばならん」と意気込み、麦僊一派への批判を一身に担っていくのです。

女と風船(蝶々) 1926年 〈「女と風船(蝶々)」 1926年〉

残念ながら、この絵は焼けてしまったと伝えられ、現在はモノクロ写真でしか見ることができません。

そもそも麦僊は、以前より耳にしていた楠音の男色や女装癖を嫌い、そして画風そのものに抵抗を感じていたようで、それが、東京の上野の美術館で感情的に爆発してしまったのです。

京風の豊かで雅な家に育ち、人形遊びをし、芝居に興じ、自ら女形を演じる楠音。
一方、貧しい佐渡の田舎から出てきて、祇園の色街や芸妓に幻想を抱き続け、舞妓と結婚することとなる麦僊。

自ら女性を演じることで、知らず知らずのうちに女性性を内に取り込み、自然と女性の内面を描き出していた楠音に対し、花を愛でるように女性を描く麦僊。二人の趣味や趣向が違うのは当然のことでした。

「楠音は、穢さからこそ、毒茸の華麗な傘も、泥から咲く蓮華も生まれるのだといいたかったであろう」(栗田勇・著『女人讃歌―甲斐庄楠音の生涯―』より)。この栗田氏の一文が全てを語っています。


太夫に扮した甲斐庄楠音 〈太夫に扮した甲斐庄楠音〉


国画創作協会は第7回展で解散し、楠音ら若手は解散と同時に1928(昭和3)年、新樹社を設立しますが、それも1930(昭和5)年には解散。
その後、細々と展覧会に出品する生活が続いていた楠音に最大の転機が訪れます。1940(昭和15)年、楠音46歳の時、映画監督・横溝健二と出会うのです。




日本画家 甲斐庄楠音 その5

2011年03月28日 00:58

溝口健二と甲斐庄楠音・・・。


「絵では食べられへん」と嘆いていた甲斐庄楠音が、1940(昭和15)年、映画『芸道一代男』(1941年公開)の時代考証を担当したことから、そのまま映画界へと転身し、監督・溝口健二と生涯の友となるのです。

戦争が楠音の絵だけでの生活に困難を強いた一方で、太平洋戦争開戦間近の1941(昭和16)年の春、松竹は特別プロダクション「興亜映画」をつくり、溝口健二を監督に『元禄忠臣蔵』を制作。実物大の松の廊下をはじめ、いくつものセットを作り、いまだ映画界は盛況そのものだったのです。
そんな中に、完璧主義者の溝口の傍で、小柄な着流しを着た洒落た男が、いつも矢立と和紙を手に付き添っていました。それが楠音でした。

シナリオの打ち合わせの際には、即興で和紙にスケッチを描き、古い衣裳や道具が必要となれば、溝口と二人で京都中の古着屋や小道具屋を探し歩いていたのだとか。

幼い頃からの歌舞伎・文楽好きを活かし、戦後、市川右太衛門の当たり役『旗本退屈男』の衣裳を作り出し、また風俗考証を担当した『雨月物語』は1953(昭和28)年にヴェネツィア映画祭銀獅子賞を受賞し、同作で1955(昭和30)年には米アカデミー賞衣裳部門にノミネートされるという栄誉を手にしました。

衣裳考証に関しては、楠音の意見がそのまま権威主義者であったはずの溝口にも受け入れられるほど信頼され、女優の着付けまでをもこなし、温厚な楠音は皆から「カイさん」と親しみをもって呼ばれていたそうです。


晩年の甲斐庄楠音 〈80歳頃の甲斐庄楠音〉

ちなみに甲斐庄楠音は未確認ながらいくつかの映画にも端役で出ているようで、『娘十八嘘つき時代』(監督・清水宏、1949年)、『慶安水滸伝』(監督・野村芳太郎、1954年)、『柳生旅日記 天地夢想剣』(監督・萩原遼、1959年)などに名前を見ることができます。

また、新藤兼人が溝口健二の生涯を取材したドキュメンタリー映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975年)には、新藤兼人にインタビューされる映画関係者の一人として楠音が短い時間ですが映っています。その際のテロップには“甲斐庄”ではなく、本姓の“甲斐荘”が使われていますが、厳密ではないものの、画家としては“甲斐庄”を、映画関係の仕事には“甲斐荘”をと、名前の使い分けがなされていたようです。

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〈『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(監督・新藤兼人、1975年〉より。自室で新藤監督にインタビューを受ける甲斐庄楠音。亡くなる3年ほど前のことです〉





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