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安井金比羅宮 その1

2011年03月25日 00:22

安井金比羅宮

20110210195328c49[1] 〈南の鳥居〉


平安時代、怨念をもって亡くなり、都に災いを起こした人物として、のちに天神と崇められた菅原道真が有名ですが、その菅原道真とならんで恐れられたのが、第75代天皇であった“崇徳上皇”です。


崇徳上皇(元永2(1119)年―長寛2(1164)年)は鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、後白河天皇の実兄でもあったのですが、父とも弟とも不和のまま政治的に翻弄された人生を送ります。

その中でも、もっとも有名なのが「保元の乱」の首謀者とされたことです。ちなみに保元の乱は、摂関家が凋落し、貴族の世から武士の世へと移り変わるターニングポイントとなった政変でもありました。

平安時代の末である保元元(1156)年7月に皇位継承問題や摂関家の内紛から、朝廷が崇徳上皇側と後白河天皇側に二分し、武力衝突に至ったこの政変で、崇徳上皇側が負け、上皇は讃岐へと島流しに・・・。

『保元物語』や『平家物語』では、上皇の讃岐での軟禁生活についても記されています。それによると、五部大乗経の写本造りをしていた上皇が、戦没者の菩提を弔う気持ちから高野山や京都の寺に収めてほしいと完成した写本を朝廷に送ります。しかし、そこに呪詛の意図を読み取った後白河天皇は受け取らず、その振る舞いに怒った上皇が、「魔縁と成つて遺恨を散ぜん」「魔王となってでも、この恨みを晴らしてくれようぞ」と自らの舌を噛み切った血で、都から返された写本に願文を書きつけ呪詛を込めて瀬戸内海に沈めるのです。その後、上皇は爪や髪を伸ばし続け、禍々しい容姿となったと伝えています。

20110210195257565[1] 〈歌川国芳「百人一首の内 崇徳院」〉

しかし実際、崇徳上皇の怨念が都の人々の口に上がるのは、上皇の死から10年以上も経った後のこと。安元2(1176)年に後白河法皇の側近が立て続けに亡くなり、翌年には延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀と社会情勢を揺るがす大事件が次々と起こります。これらの出来事が、貴族を中心に崇徳上皇の怨念のせいだと噂されるようになるのです。のちには、後白河法皇でさえも、「讃岐院」としていた崇徳上皇の院号を「崇徳院」と改め、「崇徳院廟」(のちの粟田宮)を祀らざるをえなくなりました。


さて、長々と崇徳上皇の怨念について記しましたが・・・、
安井金比羅宮はもともと崇徳上皇の霊を慰めるために建治年間(1275年―1277年)に大円法師が建立した光明院観勝寺が起こりだと伝えられています。その後、観勝寺は応仁の乱の戦火で荒廃し、元禄8(1695)年に右京の太秦安井にあった蓮華光院が現在の地に移設されて、その際、讃岐金刀比羅宮から勧請した“大物主神”と“源頼政”が“崇徳上皇”と併せて祀られ、その後、「安井の金比羅さん」と呼ばれるようになったのです。
明治維新後の廃仏毀釈で蓮華光院が廃され、安井神社と改称。戦後、安井金比羅宮が正式名称となります。


“縁切り祈願”の由縁として神社の説明には、
主祭神の崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮でいっさいの欲を断ち切って参籠されたことから、当宮は断ち物の祈願所として信仰されてきました。
また、戦によって心ならずも寵妃烏丸殿とお別れにならざるを得なかった、崇徳帝の悲しみのお気持ちは、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶ちきって下さいます。
男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切っていただいて、良縁に結ばれて下さい。良縁に結ばれたご夫婦やカップルがお参りされても縁が切れることはありませんのでご安心を。
と、あります。まあ、こじつけが強引と言えば強引ですが・・・。



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安井金比羅宮 その2

2011年03月25日 00:23

20110210195255794[1]

さて、安井金比羅宮で有名なのが、この「悪縁を切る 縁切り 縁結び 碑」です。別名「断叶の碑」とも言うそうですが、この碑(いし)はそう古いものではありません。1981(昭和56)年に石刻画家によって造られたものです。
しかし、今では神札が貼りつけられたこの碑が、神社の顔となっています。

神札に願いを書き記し、表から裏に石穴をくぐると“縁切り”、反対に裏から表にくぐると“縁結び”だとか(笑)。そしてくぐった後に、石面に神札を貼れば願いが叶うのです。うまく考えられたものですね。

20110210195256977[1]
〈高さ1.5メートル、幅3メートルの石碑で、中央に円形の穴が開いています。形代(かたしろ)とよばれる身代わりの神札が石碑を覆い、ある種壮観なのですが、その中には、人の不幸を祈るものも含まれているというのが・・・なんとも〉

ちなみに、「良縁に恵まれますように」や「悪縁を絶って幸せになれますように」と無難な願い事を書く人が多いのですが、
神札をわざと裏に向けて貼りつけているようなものには・・・うぅ~ん、怨念が漂っていますね。まあ、百円の神札で願いが叶うのなら安井、もとい安いものなのでしょうが。


201102101951128e7[1]
安井観勝寺光明院は安井御門跡前大僧正性演再興し給ふ。古より藤の名所にて、崇徳天皇の后妃阿波内侍此所に住せ給ふ。天皇保元の乱に讃岐国へうつりましまして、御形見に束帯の尊影御随身二人の像を画て、かの地より皇后に送り給へり。其後天皇〔讃岐院とも申す〕配所松山に於て大乗経を書写し、和歌一首を添給ひて都の内に納めんとて送り給ふ。
浜千鳥跡は都にかよへども身は松山にねをのみぞなく 讃岐院
然るを少納言入道信西奏しけるは、若咒咀の御心にやとて御経をば返しければ、帝大に憤り給ひて、大魔王となつて天下を朕がはからひになさんと誓ひて、御指の血を以て願文を書給ひ、かの経の箱に奉納龍宮城と記し、堆途といふ海底にしづめ給ふに、海上に火燃て童子出て舞踏す。是を御覧じて所願成就すと宣へり。夫より爪髪を截給はず、六年を経て長寛二年八月廿六日に崩御し給ふ、御年四十六、讃州松山の白峯に葬り奉る。〔以上保元記に見えたり〕夫より御霊此地に来て夜々光を放つ、故に光堂ともいふ。然るに大円法師といふ真言の名僧、此所へ来つて参籠す。崇徳帝尊体を現じ往事の趣を示給へり。大円これを奏達し、詔を蒙りて堂塔を建立し、かの尊霊を鎮め奉り、光明院と号しける。仏殿の本尊は准胝観音なり。御影殿には後水尾院の宸影、明正院並に東福門院の尊牌を安置し奉る。又弘法大師像あり。奥の社は崇徳天皇、北の方金比羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶る事なし。崇徳帝金比羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ、利生霊験いちじるしとぞ見えにける。
当寺の門前を新更科と号し、中秋には洛陽の騒客こゝに集りて東山の月を賞す。今は家居繁く建ならびて風景を喪ふ。

〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 安井観勝寺〉


最後に・・・、崇徳上皇の怨霊は近世、近代になっても、密かに影響をあたえてきました。
たとえば、孝明天皇は、幕末の動乱を崇徳上皇の怨念の仕業だと考え、配流の地(香川県坂出市)に祀られていた上皇の霊を鎮めるため、京都に御霊を遷すことを計画。しかし、孝明天皇がこの計画中に崩御したため、明治元年、明治天皇によって白峯神宮(上京区)が創建されます。
また昭和の世となってからも、昭和39(1964)年の東京オリンピック開催の直前に、昭和天皇が崇徳天皇白峰御陵(坂出市)に勅使を遣わし、崇徳天皇八百年式祭を執り行い、開催の安全を願ったことは有名な話です。

201102101952568ef[1] 〈北の鳥居〉





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