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詩人 天野忠 その1

2010年09月01日 00:03

天野忠詩集(思潮社)表紙          天野忠詩集(土曜美術社)表紙 
〈思潮社版 天野忠詩集〉        〈土曜美術社版 天野忠詩集〉



「テスト」


鉛筆を指して
   これは何ですか と医者がたずねている。
   エンピツです。
見るからに気の良さそうな
七十八歳の老人が答える。
掌の上に煙草をのせて
   では、
   これは何ですか ときく。
花咲爺さんみたいな顔をして
しばらく思案してから
呆け老人は答える。
   エンピツです。

さっき見たテレビの医者そっくりの口調で
   これは何ですか と女房がたずねる。
   それは私の愛用の湯呑みです。
   では、と自分の顔を指して
   このひとは誰ですか ときく。
花咲爺さんみたいな顔をして
しばらく思案してからハイ、と私が答える。
   それは私の愛用のおばあさんです……。


詩集『古い動物』(1983年6月刊行)より



はたして、どのくらいの人が天野忠という詩人のことを知っているのでしょう。
17年も前に84歳でなくなってしまった“市井の詩人”のことを、です。


そもそも、この人の詩を読むまで、詩といえば、青白い顔をした文学青年の専売特許みたいに勝手に思い込んでいたものです。
そして、どの詩集もそうですが、行間を“意味ありげ”に空け、もったいなくもふんだんに使った文字の羅列は、ただ退屈で、難解で、高踏的で、自己中心的で、観念的な頭でっかちで、鼻高々で、自意識過剰のコンコンチキで・・・とにかくいけ好かないやつとしか思えなかったのです(笑)。

そんな、詩嫌いの自分にも、かろうじての例外は、学生時代の教科書で誰しもが読んだであろう
吉野弘の「夕焼け」(電車で座っている娘が前に立った年寄りに席をゆずれなくて、美しい夕焼けも見ないでじっとてうつむいている、あの有名な詩です)と、
谷川俊太郎のいくつかの詩(地球のどこかでいつも朝が始まっているというのとか・・・)くらいなものでした。
そうかといって、何かいい詩はないかなと、さがそうとするほどの魅力を詩という形態に期待もしていませんでした。

今となっては、何がきっかけで、天野忠の詩にふれたのかは忘れてしまいました。
いや、それくらい天野忠の詩は何の抵抗も、嫌みもなく、自然と肌になじんだのです。
初めて読んだ詩について、うつろな記憶をたどると「しずかな夫婦」(詩集『昨日の眺め』所収)だったような気がします。
やけに“ニシンそば”が脳裏に焼き付いているんです。それは自分もニシンそばが好きではなかったからかもしれません(笑)。


「しずかな夫婦」


結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。
とくにしずかな夫婦が好きだった。
結婚をひとまたぎして直ぐ
しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。
おせっかいで心のあたたかな人がいて
私に結婚しろといった。
キモノの裾をパッパッと勇敢に蹴って歩く娘を連れて
ある日突然やってきた。
昼めし代わりにした東京ポテトの残りを新聞紙の上に置き
昨日入れたままの番茶にあわてて湯を注いだ。
下宿の鼻垂れ小僧が窓から顔を出し
お見合いだ お見合いだ とはやして逃げた。
それから遠い電車道まで
初めての娘と私は ふわふわと歩いた。
   ニシンそばでもたべませんか と私は云った。
   ニシンはきらいです と娘は答えた。
そして私たちは結婚した。

(中略)

どこからか赤いチャンチャンコを呉れる年になって
夫婦はやっともとの二人になった。
三十年前夢見たしずかな夫婦ができ上がった。
   久しぶりに街へ出て と私は云った。
   ニシンソバでも喰ってこようか。
   ニシンは嫌いです。と
私の古い女房は答えた。


詩集『昨日の眺め』(1969年10月刊行)より



「しずかな夫婦」は天野忠の詩においても代表的な詩のひとつです。
そして、冒頭にあげた詩「テスト」と同様、夫婦というもっとも身近な題材で、数多くの詩を書いています。
そこには派手さはないものの、読むものを飽きさせない滑稽さとウィットに富んだ機転がありました。
また、天野忠の詩の多くは、力が抜けていて、達観し(それは人生において「思えば遠くへ来たもんだ」的な諦めの境地でしょうか?)、地に足がついている普通の言葉でした。
生活の匂いの沁みた言葉がやけにリアルで新鮮に感じるのです。


賀茂大橋より糺の森_20100831205033
〈天野忠が日課にした散歩で訪れた糺の森 賀茂大橋より〉




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詩人 天野忠 その2

2010年09月01日 00:21

天野忠は1909年、中京区新町御池に生まれました。実家は金箔箔置、ぼかし友禅の職人で、
京都一商卒業後は大丸京都店に勤め、戦争末期には徴用逃れのため神戸の軍需会社へ転職しています。
戦後は出版社勤務、古書店経営を経て、1972年までの20年間は奈良女子大学の図書館に勤務しました。
1932年に処女詩集『石と豹の傍らにて』を、1937年に『肉身譜』を出版しますが、その後、同人誌に作品を発表することはあっても、
1950年『小牧歌』を出すまでの戦争を挟んだ自身の30代は、創作において沈黙の時代だったようです。

天野忠顔写真(天野忠詩集裏表紙) 〈思潮社版 天野忠詩集の裏表紙より〉

その後、1974年『天野忠詩集』で第二回無限賞を、1981年『私有地』で第三十三回読売文学賞を、さらに『続天野忠詩集』で第四十回毎日出版文化賞を受賞しています。
(無限賞がどのような賞かわからず調べてみましたら、第五回には『詩集1946~76』で田村隆一が、第七回には『春、少女に』で大岡信が受賞していました。しかし、それ以外に情報がありません・・・。『無限』という雑誌がかつてあったみたいですが・・・。)
今や、埋もれかかった詩人と言うには、何とも申し訳ないほど大きな賞を受賞していたんですね。

1971年に刊行された『天野忠詩集』(永井出版企画)は、朝日新聞の文芸時評を担当していた丸谷才一をして、今までこの詩人を知らなかったことが恥ずかしいとまで言わせ、 
550ページ、定価5千円の大著にもかかわらず、初版が1ヶ月で完売したなどの逸話もあります。
また、『クラスト氏のいんきな唄』を読んで驚嘆した三島由紀夫がレコードに吹き込むことを考え、そのためレコード会社の人が版元の文童社に数冊求めにやってきたが、三島由紀夫の自殺によって実現しなかった、とか。

天野忠詩集(永井出版企画)表紙 〈天野忠詩集(永井出版企画)〉


通り一遍の経歴を付してみましたが、天野忠の歴史を知るには詳しい著作が出ています。
『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』(著者・山田稔、2000年、編集工房ノア)と、『天野忠さんの歩み』(著者・河野仁昭、2010年、編集工房ノア)です。

どちらも、同人雑誌の頃から、晩年のこと、さらには小出版社「圭文社」で天野忠と富士正晴が一時同僚だった話まで詳しく記されていますが、
特に『コーマルタン界隈』の著者でフランス文学者でもある山田稔氏の『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』は、山田氏と天野忠との個人的な交流を描いている分、より興味深い内容となっています。ちなみに書名は天野忠の住所です。

「北園町九十三番地」表紙 
〈『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』山田稔著(編集工房ノア)〉

1982年、新聞で天野忠の読売文学賞受賞を知った著者。その掲載写真を見て「やっぱりあのひとか」と25年前、奈良女子大でフランス語の非常勤講師をしていた若い頃を思い出します。
京都からの通勤途中、たまに奈良電の駅のベンチで一緒になる生白い顔色の、温厚そうな人。それが当時、図書館に勤務していた天野忠でした。
懐旧の情をそそられ、編集工房ノアの社主に直接、詩集『私有地』を注文し、たちまちその詩に魅せられます。そして、受賞のお祝いと『私有地』の感想を葉書に書き送ったことから、著者と天野忠との交流が始まるのです。
おもしろいのは、著者が自分の受賞作に手紙を添え、「むかし奈良女子大でフランス語を教えていた若造は、いまこんなものを書いております」と自己紹介する気持ちで天野忠の家を探しに出かけるところです。
著者は、家を見つけると、郵便受けに本を差し込み、急ぎ足でその場を去ります。すると翌日には著者の郵便受けに『天野忠詩集』が入っていました。その本は郵送ではなく、天野忠自身が届けたものだったのです。
その後、両者の間には自著を互いの郵便受けに入れておく習慣ができあがる、と(笑)。
ただ、晩年、いや最晩年と言うべきでしょうか、1988年頃から足腰の衰えにさいなまれていた天野忠が、意を決して手術をするも歩行不能に陥り、そのあたりから老いを滑稽さでいなすことが出来ず、山田氏の文章も影を落とし、読むのも辛くなってしましまいますが・・・。

“老人ごっこ”を愉しんでいたはずの天野忠の客観の眼が、足が不自由になった頃から急に見られなくなり、創作も途絶えがちになってしまうのです。

「天野忠さんの歩み」表紙 〈『天野忠さんの歩み』河野仁昭著(編集工房ノア)〉




詩人 天野忠 その3

2010年09月01日 23:47

さて、天野忠の詩集のなかで、もっとも好きなものはと問われれば、
やはり『動物園の珍しい動物』(『クラスト氏のいんきな唄』改題増補 1969年9月刊行)と答えます。

『クラスト氏のいんきな唄』として天野忠51歳の時(1961年)に文童社から150部限定で自費出版されたこの詩集は、
詩ではなく「クラスト氏のこと」と題された前書きから始まっています。

要約すると、
ある日、貧相で不恰好な西洋人が夜店の古本屋の雑誌をひやかしていました。
その西洋人が奇妙なアクセントの日本語で漫画雑誌を値切っています。
それを見ていた人見知りであるはずの著者「私」が、その西洋人と連れだって、
近くの「びっくりうどん屋」に行き、うどんをおごってやります。
「私」の買った「日本詩人」を水夫であったその西洋人は見せてくれといい、その本を指さし、これは何かとたずねます。
「ジャパニーズ ポエット」と「私」が答えると、西洋人は奇妙な顔をし、感嘆詞を続けざまに発し、早口でまくし立て「私」を驚かせます。
「私」が西洋人の発する言葉を判らないと見ると、
「キミハ ポエットカ?」と西洋人はたずねます。
「ポエットになりたいと思う」
「ポエット タイヘンムツカシイ ポエット(だいぶん考えて) クルシイクルシイ……」と頭を押さえ「クルシイ」さまを表現して見せました。
今度は「私が」たずねます。
「君はポエットか?」
西洋人はそそくさと「maybe」と答え、目を伏せました。
別れ際に、その西洋人は自分の詩をタイプで打った10枚ほどのよれよれの便箋を「私」にくれます。
そのとき、名をたずね、耳に残ったのが「クラスト」という音でした。
その後、何日も何週間もかかって翻訳したそれらの詩が、戦後、ひょっこり出てきます。
もうこの世にいないであろうクラスト氏の詩集を、せめて粗末なものでもいいからとつくったのが、
『クラスト氏のいんきな唄』と題されたこの粗末な本である、ということです。

もちろんこの話ははすべて天野忠の虚構な訳ですが、こういうお茶目な仕掛けをほどこすセンスが何とも言えず好きですねえ。
要約では雰囲気が出せていませんが、一風変わった短編小説のような趣もあります。

天野忠の作品は詩よりも随筆など散文の方が好きだ、という人も多いらしいですが、
この人が小説を書いていれば、いったいどんな作品ができあがっていたのだろうかと、興味も尽きません。


糺川_20100831204213 〈下鴨神社を流れる糺川〉


『動物園の珍しい動物』(『クラスト氏のいんきな唄』改題増補 1969年9月刊行)から短い詩を3つほど。


「危険」


東洋には姥捨山があって
不要な老人は捨てられる
古いペンを捨てるように。

まことに合理的なことだ これは

諸君
古いさびたペンは捨てよう
ただし山へ捨ててはならぬ
山では
泣きながら
不要な老人が歩いている。




「動物園の珍しい動物」


セネガルの動物園に珍しい動物がきた
「人嫌い」と貼札が出た
背中を見せて
その動物は椅子にかけていた
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
夜になって動物園の客が帰ると
「人嫌い」は内から鍵をはずし
ソッと家へ帰って行った
朝は客の来る前に来て
内から鍵をかけた
「人嫌い」は背中を見せて椅子にかけ
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
昼食は奥さんがミルクとパンを差し入れた
雨の日はコーモリ傘をもってきた。




「あーあ」


最後に
あーあというて人は死ぬ
生まれたときも
あーあというた
いろいろなことを覚えて
長いこと人はかけずりまわる
それから死ぬ
わたしも死ぬときは
あーあというであろう
あんまりなんにもしなかったので
はずかしそうに
あーあというであろう。



百万遍の古本屋_20100831205533
〈百万遍の古本屋〉




詩人 天野忠 その4

2010年09月01日 23:59

いっとき、朝日新聞の短歌欄「朝日歌壇」にホームレスを名乗る公田耕一という人物が続けて掲載され、話題になりました(最近は見かけないですね・・・)。
もちろん詩の嫌いな自分が、短歌を好むわけもないのですが、なぜかこの公田耕一という人の一連の短歌には、他の“第二文学”的な短歌とは違う印象を受けたものです。
この人は(本当にホームレスかどうかは知らないですが)生活に根ざし、しかもホームレスという末端の生活からの呟きだったからこそ、その生の生臭さみたいなものを人々は無視することが出来なかったのでしょう。

公田耕一氏の短歌を少し記してみます。
七分の至福の時間寒き日はコイン・シャワーを一身に浴ぶ
(柔らかい時計)を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ
親不孝通りと言へど親もなく親にもなれずただ立ち尽くす
百均の「赤いきつね」と迷ひつつ月曜だけ買ふ朝日新聞
パンのみで生きるにあらず配給のパンのみみにて一日生きる
胸を病み医療保護受けドヤ街の柩のやうな一室に居る
哀しきは寿町と言ふ地名長者町さへ隣りにはあり

これらの短歌を読んだ時、思い出したのが天野忠の詩でした。何か根底に通じるものがあると思ったのです。
もちろん天野忠のようなノンシャランとしたユーモアの欠片はここにはありませんが・・・。

もし、ヒューマン(human)とユーモア(humor)が同じ語源であるならば、
なんだか、天野忠の詩に自然と惹かれる理由もなんとなくわかってくるような気がしたのです。
恥も幼稚さも老いも、そして人間存在の醜さを含めた、すべての人間味を隠そうとせず、ましてや綺麗な言葉で着飾ろうとせず、それをユーモアに感じさせる天性の素質。
それが天野忠の詩なのだと。

惜しくも公田氏の短歌はヒューマンの本質を垣間見させてはいるけれども、まだそれがユーモアに昇華されていない姿のような・・・。
そして、天野忠の詩はヒューマンを突き抜けたユーモアを見せてくれているところに、その詩の良さがあると。

いやはや、多くの詩人や歌人は公田氏のもつ人間味を表現する力すら持っていないように思うのです。それでは、天野忠に及ぶはずもありませんね(笑)。

河合橋より大文字山_20100831205934 〈河合橋より大文字を望む〉


少年時代の天野忠は読書好きで、夜店のゴザの上の古本あさりが何よりもの楽しみだったそうです。特に立川文庫に熱中していたとか・・・。



「猿飛佐助の一日」


昔の立川文庫が一冊
なじみの古本屋の棚に飾ってあった。
禿頭のおやじが自慢そうに見せてくれた。
五十何年前にもなるが
私はこの立川文庫を愛読し
わけてもこの
猿飛佐助を熱愛したものだ。
土蔵のある空き家の草ぼうぼうの庭で
巧みに忍術の十字を切り
深く印を結び
蝶の如くひらりと身を翻えした……。
今めくった頁に
いきなりこう書いてあった。

   待てよ、俺もはや十才だ
   いつまでも猿や鹿と遊んでいるわけにも
   いくまいて云々……
驚いたことに
わが猿飛佐助は十才で志を立てたのだ。
真田十勇士のリーダー格となり
悪と戦い無法を破り
打ち立てし抜群の手柄その数を知らず
大阪夏の陣で主君と共に
華やかにその最後を全うしたそうな――

   まてよ、私ももう直ぐ七十才だ。
   そろそろ死ぬ前の臍をきめねばならぬ。
   何か見栄えのする仕事を残せぬものか……。
とつおいつ思案しながら
いつも一服するドーナッツ屋へ入り
一杯百円のアメリカン珈琲と
一個七十円のドーナッツを注文した。
それから
孫娘の機嫌とりの土産に
もう二つ
甘い方のドーナッツを注文した。


詩集『讃め歌抄』(1979年5月刊行)より

下鴨神社_20100831203344 〈下鴨神社〉




詩人 天野忠 その5

2010年09月02日 00:10

天野忠が多臓器不全で亡くなったのは、1993年10月28日でした。
折しも、その数時間後には、サッカー日本代表がワールドカップ出場を逃した「ドーハの悲劇」がおこっています。
もちろん翌日のどの新聞にも、この悲劇が大きく取り上げられていましたが、
天野忠が数多くの随筆を残した京都新聞では、大野新氏のコメントとともに社会面で大きく訃報が伝えられていました。

天野忠 京都新聞記事_20100831201036 〈訃報を伝える京都新聞〉


天野忠の雑記を書くにあたって、ふらっと左京区下鴨の北園町93番地へ足を向けてみました。
洛北高校の北、北白川疎水の桜並木を横切り、さらに北へ上がった北泉通を曲がったすぐのところです。
山田稔氏の『北園町九十三番地』では番地が飛び地になっていて、さがすのに難儀した様子が描かれていましたが、
その場所はすぐに見つかりました。

下鴨北園町_20100831204433 〈下鴨北園町の交差点〉

いや、場所が見つかっただけでなく、なんと天野家を見つけてしまったのです。
まさか、17年前に家主を亡くした、つつましやかな平屋がまだ残っているなんて思ってもいませんでした。
鴨居につけられた横長の門灯に「天野」とペンキの筆字で書いた狭い格子戸があり、その奥には細い生け垣の路地がつづいていました(山田氏の文章では「横長の蛍光灯の門灯に『あまの』と、薄れかかった黒い文字で小さく記されている」とありましたが、今は漢字表記になっていました)。
東隣は空き地になって草が生い茂り、そのおかげで路地の奥の天野家が、
本当に質素な平屋だということが表通りからもわかります。
路地奥の家の玄関の戸は、風を通すためか開いていて、薄い玄関カーテンが盛夏の弱い風にかすかにそよいでいました。
まだ、ご家族がお住まいなのか、と少し・・・いや、かなりびっくりしたものです。

日差しが奪われるかもしれないと、晩年、天野忠が再三気にかけていた南隣のマンション計画は杞憂に終わったようです。
どこにも、マンションの影はなく、酷暑の日差しがその平屋を照りつけていました。


天寧寺山門_20100831205309 〈天野忠の墓がある天寧寺の山門〉

天野忠のお墓は寺町鞍馬口を下がった天寧寺にあるそうです。
豊臣秀吉が応仁の乱で荒廃していた京の町を区画整理する際、鴨川の西に寺を並べたあの寺町通りの最北にある曹洞宗のお寺です。
山門の説明には、「山門を通して眺める比叡秀峰は、あたかも額縁に入れたように見えるところから、山門は『額縁門』とよばれて親しまれている」とありました。
おそらく、比叡を眺める日差しの絶えない、風通しのいいお墓なのでしょうね。もう日光が遮られる心配はなさそうです(笑)。

寺町通り_20100831210138 〈寺町通り〉






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