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廓 その1

2011年02月09日 00:04

廓 西口克己 1956年―1958年

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中書島(ちゅうしょじま)は古くより京都と大坂を結ぶ水運の拠点として栄えてきました。

桃山時代には三十石船が伏見と大坂の間を行き来し、江戸時代になって角倉了以が高瀬川を開削してからは、荷を積み降しする荷夫や商人、旅人で大変な賑わいとなります。さらには幕府の伝馬所や大名の本陣、屋敷も置かれ、多くの旅籠も存在しました。その旅籠の中の一つが寺田屋で、幕末、坂本龍馬が常宿としていたことでも有名ですね。

DSC02003[1] 〈寺田屋〉


現在でも京阪電車の中書島駅は、京阪本線と宇治線の接続駅として交通の要所を担い、昨今の龍馬ブームと、酒造会社のテーマパーク的酒造り見学も盛況で、休日には多くの観光客が訪れます。

DSC02048[1] 〈キザクラカッパカントリー〉


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中書島〔豊後橋の西にあり。文禄年中向島に塁を築くといふは此中書島の地なり。慶長のはじめ伏見城と共に滅亡せり。それより年久しく荒廃の地となりしを、近年遊女町となりていにしへの江口神崎に準、旅客の船をとゞめ、楊柳の陰に觴をめぐらし、あるは歌舞の妓婦花のあしたに袖を翻へし、琴三弦の音は月のゆふべに絶間なし〕
〈天明7(1789)年刊行の『拾遺都名所図会』より 伏見中書嶋 辨財天より〉

中書島の一角にあるのが、「島の弁天さん」や「弁天寺」と呼ばれ親しまれている、長建寺です。元禄12(1699)年に創建された比較的新しい寺院で、本尊の弁才天女(八臂弁財天)は、毎年元旦から15日間のみ開帳される秘仏です。

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〈辨財天長建寺。中国風の朱色の竜宮門や土塀が特徴的です〉

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〈長建寺のそばは辨天浜といい、この場所で米が降ろされ、酒が積まれていました〉


長建寺は淀川を行き来する廻船の守護神として、また本尊の弁財天が音楽をもって衆生を救う女神であることから、遊郭で働く遊女の技芸上達の神として信仰を集めました。『拾遺都名所図会』の右端にも“遊女町”と遊郭のあったことが記されています。


豊臣秀吉によって開発された中書島は江戸時代に入り、一時、荒廃しますが、伏見城下にあった遊郭がこの地に移転されると再び活気づき繁栄するようになります。江戸時代には祇園とならぶ花街、色街でもあったのです。
そして近代に入ると、1910(明治43)年に京阪線が開通し、ますます遊郭として栄えるようになりました。


さて、この中書島を舞台とした小説があったことをご存じでしょうか。
発表当時は廓の内情を暴露する小説としてセンセーショナルな話題となり、ベストセラーにもなりました。

その名も『廓』と題された長編小説で、作者は西口克己という人物です。



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廓 その2

2011年02月09日 00:09

DSC01930[1] 〈京阪中書島駅〉

長編小説『廓』は、中書島の遊郭をめぐる親子二代にわたる物語です。


時は明治39(1906)年、日露戦争の翌年。
鰐口貫太が妻のお銀をともない、裸一貫で叔父を頼りに、中書島にやってきた。
貫太は金の鬼となる覚悟で、貫銀楼という廓を開店する。
豪腕で切れ者の貫太は、古参の同業者や、あこぎな警察、地元を仕切る碇川組、廃娼を訴える救世軍、そんな一筋縄ではいかない輩を相手にのし上がり、いつしか中書島を仕切る大物となって、貫銀楼も界隈を代表する大店へと成長させた。
しかし、家庭の幸福は長くは続かない。貫太を支えたお銀が小さな一人息子の俊太を残し、病で他界してしまう。
俊太の面倒を見る必要から、貫太は後家となって生活に困っていたお銀の姉・お常を後添いとして娶る。

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中書島で廓を開いて25年、貫太は56歳となり、中書島の大物から、京都の色町の立役者となっていた。
明治末期に貫太が流れてきた当時、三十数軒しかなかった中書島の女郎屋も、六十数軒に増え、百人あまりの娼妓が二百数十名に増えていた。
その一方で、世間では廃娼運動が盛り上がり、帝国議会の日程に上るほど娼妓の人権が問題となる。昭和6(1931)年のことだった。
貫太は廃娼運動の先鋒を担う代議士を買収するため、関西の色町を代表して大金持参で上京する。
東京には東京帝大の学生となった息子の俊太が生活していた。学歴がなく、女郎屋を営む父親からすれば、大学で勉強している一人息子は何物にも代え難い誇りでもあった。
ところが、当の息子は、勉強もせず、酒を飲んでばかり。さらには多額の金をアカの友人に融通し、特高警察に捕まえられる始末。
不良学生となった背景には、自分が娼妓の稼ぎで生活してきたという終生の後ろめたさがあった。
なまじ真面目で小心者の俊太は、社会の仕組みに疑問を持ち、自らも赤化していく。

DSC02084[1] 〈弁天寺こと長建寺の境内〉

戦後、占領軍の施策で「公娼の存続はデモクラシーの思想に違背し・・・」という通達が出たものの、依然、遊郭は赤線地帯として堂々と存在していた。
しかし、あれほど隆盛を誇った中書島の貫銀楼は、隠居生活にある貫太とともに閉店状態。
息子の俊太は戦後の混乱の中で失業者となり、妊娠中の新妻を連れ、貫銀楼の離れに身を寄せていた。貫太の畠仕事を細々と手伝いながら、共産党の細胞活動に加わっていたのだ。

余命少ない貫太の葬式代にも窮迫する生活の中で、店子を二束三文の値で手放さねばならず、それでもようやく貫太の葬式を出した後に残ったものは、当の貫銀楼のみ。
俊太はこの店を売り払って、今まで忌み嫌っていた廓内での生活から脱し、就職先を見つけようとするが、共産党員である過去が就職の妨げとなり、店を売り払おうにも廓内の建物を素人が邸宅として買うはずもない。
ならばと、いったん切れていた営業権を取り戻し、女郎屋として営業しながら買い手を探す策をとる。ここに“アカにかぶれた帝大出の主人”が経営する、何とも奇妙な女郎屋が誕生したのだった。

DSC02099[1] 〈弁天橋〉

俊太は女郎屋の主人となり、はじめて父親が歩んできた仕事の大変さに気づく。
遠方まで娼妓を買いに行き、買えば買ったで逃げられまいかと心配し、開店資金で借りた金の返済に頭を悩ましつづけ、娼妓が病気になり、はてはヒロポン中毒にもなり・・・。
商才も、女郎屋に身をやつす信念もない彼の経営がうまくいくはずもなく、借金はますます積み重なり、彼はついに自殺をも考えるようになる。
そして「自分自身のまともな人間としての資格を否定して、救いがたい罪悪感になやみつづけ」る中で、「廓というこの世界――普通の人々には想像もつかない『恥部』を、ただ理屈で割り切るだけではなく、なまなましい細部まで描写して、できるだけ冷静に記録しておくということ――それが自分の最後の仕事ではないか」と思いはじめる。廓の一室で、夜中、どこに発表するあてもない原稿を書き続けた。
とうとう、俊太の女郎屋稼業は三年で終わりを告げる。税金を納めることもできず、店が競売にかけられる直前に来ていた。
そして廃業届を出し、残っていた三人の娼妓の身の振り方も落ち着いたところで・・・、奇蹟的に、彼が書きためていた原稿が売れたのだった。



廓 その3

2011年02月09日 00:13

三部構成の『廓』が発表されたのは、折しも売春防止法が制定、施行された時期とちょうど重なります。

1956(昭和31)年1月に第一部が三一新書(三一書房)として出版され、 第35回直木賞候補(1956年上半期)にノミネートされます。
その後、1956(昭和31)年11月に第二部が、1958(昭和33)年1月に第三部が、同じく三一新書から出版。さらに1958年8月には、第一部から第三部までが新潮文庫にもなりました。

現在、手元にあるのは『西口克己小説集』(全14巻)として新日本出版社より1987(昭和62)年に出された全集の『第2巻 廓 上』と『第3巻 廓 下』です。三部構成の『廓』は全集では2冊に分けて収録してあります。


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作者の西口克己は1913(大正2)年に京都伏見に生まれます。実家は中書島の遊郭でした。
京都一中から第三高等学校を経て、東京帝国大学文学部西洋哲学科を卒業。

1946(昭和21)年に日本共産党に入党するも50年分裂の際、除名されます。
戦後の混乱で職を失った彼は、実家である中書島の遊郭にもどり小説を書き、『廓』(1956年、三一書房)がベストセラーとなるのです。その後も『山宣』(1959年、中央公論社)、『祇園祭』(1961年、中央公論社)、『Q都物語』(1978年、自治体研究社)、『小説蜷川虎三』(1984年、新日本出版社)など、主に京都を題材とした作品を次々と発表します。

また、西口克己は小説家としての肩書きとは別に、日本共産党の地方政治家としての顔も持っていました。
小説を発表するのと同じ頃の1955(昭和30)年には日本共産党に復帰。1959(昭和34)年には京都市議会議員に当選し四期つとめます。さらに1975(昭和50)年からは京都府議会議員へ転身し三期目の途中である1986(昭和61)年に亡くなりました。


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西口克己の経歴からもわかるように、この小説はおそらく作者本人とその父親の物語と読み取っていいでしょう。つまり限りなく私小説に近い作品なのです。


“遊郭に生きる女の虐げられた生活を共産党員が書いた小説”。

その先入観で読み進めたのですが、物語の最終盤以外は、政治色や思想色はそれほど濃くはありません。むしろ、第一部を占める鰐口貫太の立身出世物語は、ヤクザとの立ち回りあり、色街から袖下をもらう警察との丁々発止の遣り取りありで、なかなかのエンターテインメント小説となっているのです。いや、文章の巧さからみても名作と言っても過言ではありません。
なお、第一部に相当する部分は1957年に三橋達也主演で『「廓」より 無法一代』(日活)として映画化もされました。


戦時中の南方戦線の廓の実情、さらには戦後、占領軍であるアメリカ兵にそなえ、一般良家子女のための防波堤として廓の存在を日本政府が認めてきた現状・・・など、廓の近代史も興味深く描かれています。


これほどの長編小説を廓の片隅でコツコツ書き続けたこの作者、はっきり言って、すごいです。
まあ、作者の政治的信念が書き続ける根気の源だったのでしょうが、のちに小説家として名をなすには、共産党の地方議会議員であったというもう一方の肩書きは、残念ながら足を引っ張ってしまったようですね。


左翼文学のレッテルがなければ、もっと現代でも読み継がれていたはずの作品だと思うのです。すっごくおもしろい小説なのに、残念。

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一輪の梅

2011年05月20日 01:31

一輪の梅 著者・西口克己 1977年

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1977(昭和52)年に出版された西口克己の『一輪の梅』(東邦出版社)です。1987年出版の全集『西口克己小説集』(全14巻、新日本出版社)には第11巻に収録されています。


全集の帯文には・・・、
健気にも美しく生きた織子の生涯!
次々と襲いかかる不幸にもめげず、ひたすら他人の幸せを願って生きていく少女ムメ。戦前戦後の激動と苦難を通して、社会に目をひらき、やさしくたくましく成長していく西陣織子の生涯を、情感こまやかに描く。
とありますが・・・日本共産党の宣伝小説でしたね。


作者の初期の作品『廓』では、小説家としての力量に脱帽したものですが・・・。
この『一輪の梅』を読んでも、確かに物語の構成力や、読ませる技量は感じます。ただ、いかんせん、至る所に共産党色が色濃く見え隠れしているのが・・・ザンネン。まあ、共産党の地方議員だった作者にとって、小説の題材すべてが共産党の宣伝へと収斂するのは仕方ないことだったのでしょうが・・・。


主人公は、明治44(1911)年、京都西陣の織屋に生まれた小糸ムメ。
題名は北野天満宮の梅のことで、そのまま西陣が舞台だと思いきや・・・数え五つの時に父親が蒸発。そこから彼女の怒濤の貧乏生活がつづくのです。

母親や幼い弟とともに伯父の住む丹後の網野に移り住むも、弟は養子に出され、母親は峰山へ出稼ぎに。
ムメは小学校に通うこともなく、数え七つの時に宮津の料理屋へ子守奉公に出され、疾走していた父親が見つかったかと思えば、すでに新しい家庭を築いていて・・・。

その後、母親と丹後ちりめんの工場で働いていた時、母親が再婚。ムメは母親の新婚家庭に気を遣い、ひとり大阪の岸和田にある紡績工場に働きに出て『女工哀史』のような環境に身を置きます。
さらに船乗りだった義父はリウマチで歩行も困難となり、療養のため家族揃って室蘭に移住。そこで風呂屋の下女として住み込みで働いていた時に乱暴にあい・・・。

二十一歳からは西陣で織子として働き、ムメも三十三歳となって、すっかり行かず後家に・・・。折しも太平洋戦争に突入し、奢侈品製造販売の制限が決まり、西陣織もその対象となり・・・、そんな先行き不安なムメに縁談話が舞い込むのです。
相手は四十歳過ぎで、しかも十五年間も獄中生活を送っていた古谷堅一という共産党からの転向者。最後の機会と、ムメは結婚を決心し、舞鶴に移り住みます。

戦後、夫の堅一は共産党へと戻り、運動に奔走。その間、ムメは女ながらに“ヨイトマケ”の仕事に精を出し、家計を支えます。
子どもも出来たムメたち一家は、西陣に移り住み、共産党の幹部となった夫は相変わらず運動で家を空けがち。ムメは織子の仕事をしながら、夫の仕事でもある『赤旗』の配達を手伝います。
最後は参議院議員選挙に立候補した夫・堅一が数万票の差で落選し、小学校にも行かず文盲で無学だったムメが夫に党の綱領や規則を教わりながら、共産党に入党し・・・大団円。


まあ、ムメの生きた時代は米騒動(1918年)にはじまり、北丹後大地震・金融恐慌(1927年)、そして太平洋戦争に、朝鮮戦争の勃発と、あまりに激動の時代で、国民総じて貧乏で不憫な生活を強いられていたわけですが・・・。そこに作者のドS的ともいえる(笑)、追い打ちをかけるような試練の連続。そして学問がないながらも懸命に貧乏から逃れようと、“世直し”を夢見て働く彼女が行き着いた先は、共産党への入党・・・って(泣)。


戦前のプロレタリア文学は別として・・・政治や宗教を前面に出しすぎる小説っていうのは・・・あまりに内輪向きで、一般読者、いや、共産党の言う“大衆”に対してサービスがなさすぎっ。本書も同様で、機関誌にでも書いて内々で読めばいいジャン、って程度の物語に堕ちちゃってました。文学的にも、思想的にもねっ。





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