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小説家 中谷孝雄 その1

2011年02月05日 01:06

小説家 中谷孝雄

20110125172301f2b[1] 〈中谷孝雄著『春の絵巻』(勉誠出版)〉


失礼ながら、この人も小説家としてはマイナーな存在です。
しかし、梶井基次郎フリークの中では、外村繁とともに特別な存在ではないでしょうか。


中谷孝雄は1901(明治34)年、三重県生まれ。
1919(大正8)年、第三高等学校に進学し、寄宿舎の同室が梶井基次郎でした。
また、後に妻となり小説家ともなる平林英子とは三高在学中に出会い、半年ほど同棲をしていました。

その後、東京帝国大学文学部独文科に進み、梶井、外村らと同人誌『青空』を創刊。
1935(昭和10)年には保田與重郎、亀井勝一郎、木山捷平らと『日本浪曼派』を創刊。この『日本浪漫派』には後に太宰治や檀一雄らも参加しています。

1937(昭和12)年7月刊行の初の小説単行本『春の絵巻』(赤塚書房)の中の表題作「春の絵巻」(初出は1934(昭和9)年の『行動』)が第6回芥川賞候補に挙がり、川端康成、久米正雄に高く評価されますが、受賞にはいたりませんでした。
1968(昭和43)年には「招魂の賦」(『群像』)で芸術選奨文部大臣賞を受賞。

1995(平成7)年、93歳で死去。妻の平林英子は2001(平成13)年に99歳で亡くなり、夫婦揃って天寿を全うしました。



2003(平成15)年に勉誠出版から刊行された『春の絵巻』には、五編の小説が収められています。

高等学校を落第し、父親に罵倒されることを恐れて遁走。さらに自堕落な生活へと落ちていく主人公が、父親の手紙から自分に対する希望を見いだし、もう一度学校をやり直そうと決意する――「春」(初出『麒麟』昭和8年)。

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今夜だけはゆっくりと花を見てやろう。そして彼はざわめく乗客たちの陽気な空気に次第に同化して、電車が祇園の終点に止まると、そのまま公園の石段を雑踏する人々に押されながら登っていった。(「春」より)

花見の季節。高等学校の男子学生三人は嵐山での花見の帰り、京極のレストランで三人連れの娘たちと同じ卓になる。石田は、花見の夜に出会った民子のことが忘れられず・・・。中谷孝雄と、当時、事務員をしていた平林英子との出会いを想起させる――「春の絵巻」(初出『行動』昭和9年)。

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公園の入り口の石段で、みんなはまた一緒になって、それから花に酔った公園のなかへはいっていった。花は松明の火に白っぽく夜空に浮きだして、群衆はここにもまた身動きの出来ないまでに押し合っていた。(「春の絵巻」より)

学校生活での葛藤と、帰省している同棲相手を待ちわびる青春の束の間の孤独を描く――「二十歳」(初出『日本浪漫派』昭和10年)。

中谷や梶井、外村ら三高出身の東大生を中心に創刊した同人誌『青空』を巡る回想物語――「青空」(初出『群像』昭和44年)。

友人・外村繁の病気を案じ、彼の最期を見届ける――「抱影」(初出『群像』昭和36年)。


「春」「春の絵巻」「二十歳」の三編だけで、小説家としての中谷孝雄を評価するのは乱暴ですが・・・きわめて凡庸です。
ただその一方で、「青空」と「抱影」は、作者・中谷や梶井、外村らの人となりが生き生きと描かれ、興味深い作品・・・もとい、文学的資料となっています。




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小説家 中谷孝雄 その2

2011年02月05日 01:10

梶井基次郎はエンジニアを目指して、大阪の旧制北野中学校から京都の第三高等学校理科甲類に入学するものの、寄宿舎で同室となった中谷孝雄に影響を受け、文学青年になってしまいます。

外村繁(本名、外村茂)は高校に入った当初、彼ら二人の二年後輩だったのですが、中谷も梶井も二度ずつ落第し、結局、卒業は同じ年となりました。そして三人は揃って東京帝国大学へと進むのです(年齢は外村が他の二人より一つ年少です)。

三人は三高時代、文芸愛好家の集まりであった劇研究会に所属し、『真素木(ましろき)』という機関誌に小説を書いたりもしていました。この時に梶井が筆名として用いていたのが、ポール・セザンヌをもじった、「瀬山極」です。

欠席日数が多く、成績も良くなかった梶井は、卒業を絶望視されていましたが、「彼は卒業試験が済むと、病人を装って人力車で教授達を歴訪し、家庭の貧しいことや自身の病気のことなどをあることないことさまざまにこしらえて百方陳弁して教授達の同情を買い、やっとのことで及第点を取りつけることに成功したのだった。こういう時の彼は普段の外見の温厚さにも似ず、目的のためには手段を選ばないような厚かましさがあった。」(「青空」より)と中谷は振り返っています。


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〈京都大学吉田寮。かつての第三高等学校の寄宿舎です。現在も現役の建物として200名ちかい学生が生活しています。〉

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〈木造二階建ての三棟が連なっていて、和室が120部屋。建てられたのは1913(大正2)年。日本最古の学生寮です。〉

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〈寄宿料は月額400円。水道光熱費と自治会費が別途必要ですが、あわせても月2500円ほどで生活出来ます。ただし、入寮希望者も多く、選考に通らなければ入寮することは出来ません。〉

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〈これまでも幾度か、閉寮騒動や建て替えが取りざたされてきたものの、寮生の頑なな反対の前に、現在の建物が残ってきたのですが・・・、建物の老朽化は否めません。いつまでこの姿がみられることやら・・・。〉


東京帝国大学では、中谷は独文科、梶井は英文科、外村は経済学部へと進みますが、文学への傾倒はかわりません。
東京に出てきた彼らが、同人誌を立ち上げようとしていた時、ライバルとして意識したのは、第七次『新思潮』の存在でした。その中心人物として、同じ三高出身の大宅壮一や飯島正らがいたことに大きく刺激されたようです(ただし、第七次『新思潮』は長く続かず、三号で潰れてしまいます)。

中谷や梶井の同人誌は初め、名前を「鴉」に決めようとしていたらしく、それは京都時代に彼らがよく通ったカフェ「RAVEN」の名前にちなんででした。加えて、エドガー・アラン・ポーに同名の詩があったことも理由の一つだったとか。
ところが実際、中谷の部屋に同人が集まって決める段になると、なかなかまとまりません。部屋の中には煙草の煙が渦巻いていました。
そんな時、平林英子が部屋の空気を入れ換えようと、窓を開き、そのまましばらく空を眺めていたかと思うと、中谷を呼んで「青空という名前はどうですか、武者小路先生の詩に――騒ぐ者は騒げ、おれは青空、というのがありますが」と耳打ちします。中谷の眼に見えた10月の空は、美しく哀しいまでに晴れ上がっていたのです。

この、平林英子の意見が夫の中谷を通じて間接的に採用され、同人誌『青空』は誕生したのでした。



さて、平林英子と中谷孝雄の関係ですが・・・。

平林英子は、1902(明治35)年に長野で生まれました。
京都で事務の仕事をしていた時に学生だった中谷と知り合い、1921(大正10)年、当時高校二年生だった中谷と、春から夏まで同棲し、その二人の住処に梶井もたびたび訪れていたといいます。その後、一時、中谷と英子は不和となり、関係が途絶えます(この頃の心情が中谷の小説「二十歳」に記されているのです)。
英子は傷心の影響もあったのでしょう、武者小路実篤が主宰していた「新しき村」に入村することを決意します。ところが村へ赴く途中に京都に寄ったことから、二人の関係はあえなく復活し、翌年には英子は「新しき村」を離れます。
その後、地元長野で婦人記者をしていましたが、1924(大正13)年、中谷が大学入学で東京に腰を落ち着けたのを機に夏には上京し、結婚したのです(ただし当初は中谷の両親には、この結婚は隠されていました。それは、京都時代に中谷が事務員の英子と付き合っていたことがわかった際、家柄を重んじる中谷家では大騒動になった経緯があったのです。翌年には子供に恵まれますが、その時もまだ、事実上の結婚を家には打ち明けていませんでした)。

20110125175203f66[1] 〈平林英子〉


『青空』発足時の同人は、中谷孝雄、梶井基次郎、外村繁、小林馨、惣那吉之助、稲森宗太郎の六名。その中でも、経済的には外村に頼る部分が大きかったようです。外村の実家はそもそも近江の木綿問屋で、東京日本橋に店があり、近江の本宅とは別に、東京にも控家をもつ裕福な家庭だったのです。外村の家が『青空』の事務所も兼ねていました。

当初、1924年10月に出そうとしていた『青空』創刊号が刷り上がったのは12月20日過ぎ。結局、発刊は翌1925(大正14)年1月となります。創刊号には梶井の代表作「檸檬」が巻頭に掲載されましたが、雑誌自体がまったく反響を呼ばなかった上に、「檸檬」はといえば同人の間ですら評価はなされていなかったと、中谷は回想しています。

その後、順調に同人は増えていきます。三高時代の後輩だった淀野隆三が参加し、1926年には三好達治、飯島正、北川冬彦、阿部知二などが加わりました。

しかし、1927(昭和2)年になると金融恐慌がおこり、裕福な商家であった外村や淀野の家にも少なからずの影響を与え、経済的に頼みとすることも出来なくなって、6月の二十八号を持って、梶井基次郎の数々の名作を生み出した『青空』は二年半で廃刊となったのです。のちに文壇に登場する彼ら同人たちも、この時はまだ無名の文学青年のままでした。

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〈左から梶井基次郎、中谷孝雄、外村繁。三高時代の写真〉

「いすに座った私を中央に、向かって左に梶井、右に外村が立っていた。三尊仏ならば、さしずめ私が本尊、梶井と外村が脇侍というところであった。なぜそのようになったかというと、当時、三人で写真を撮ると真ん中の者が死ぬという迷信があり、思いなしか梶井も外村も躊躇の様子に見えたので、進んで私がそのいすに座ったのだった。」(「抱影」より)
外村が息絶えようとしていた頃、見舞いから帰った中谷が自著『梶井基次郎』の口絵に掲載された三高の卒業記念に撮った写真を眺め、当時を思い出している場面です。



梶井基次郎 その1

2011年06月06日 00:47

梶井基次郎 著者・中谷孝雄 1961年

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 〈『梶井基次郎』 著者・中谷孝雄、1961年、筑摩書房〉

中谷孝雄の著書『梶井基次郎』(1961(昭和36)年、筑摩書房刊)は、小説家・梶井基次郎(1901年―1932年)の人ばかりでなく、作品を知る上でも、もっとも重要で興味深い一冊です。

小説とも、随筆とも、評伝ともとれる単行本ですが、こういった最も身近で梶井に接してきた人の文章に触れてしまうと、あらすじをなぞっているだけの論文や、憶測ばかりの研究書なんて、あまり意味をなさないですね。論文や研究書に書かれた梶井の学生時代の逸話や挿話は、ほぼこれら中谷孝雄や外村繁や淀野隆三らの著書から引用されているものばかりです・・・。



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〈三高の寄宿舎は、現在の京都大学吉田寮〉

中谷孝雄については、以前にも述べましたのでここでは詳しく語りませんが、1919(大正8)年9月(当時の学制では9月入学でした)、第三高等学校入学と同時に梶井と知り合い、深い親交は梶井が亡くなる1932(昭和7)年までつづきます。
また、エンジニアをめざして大阪高等工業学校電気科を受験するも不合格となり、三高の理科甲類(当時の高等学校は、文科と理科の両科があり、それぞれが甲・乙・丙の三類に別れていました。甲は英語、乙はドイツ語、丙はフランス語を第一外国語として履修していたのです)に入学した梶井が、
10月、欠員が出たため寄宿舎(現在の吉田寮)に入寮し、そこで同室であったのが中谷との出会いでした(さらに同室には、のちに映画評論家の大家となる飯島正もいました)。
中谷は文科乙類の生徒で、梶井が文学へ傾倒することになった契機は、すべて中谷との出会いにあったようです。



DSC02386[1] 〈哲学の道〉

梶井は一年の三学期(4月)に寄宿舎を出て、吉田山の裏の下宿に移ります。そこは東山の緑が眺望できる部屋で、梶井はたいそう気に入っていたようです。銀閣寺から若王子へと、つまり現在の「哲学の道」を散歩し、「緑ノ夢ノ中ニクルマツテ匂ノアル交響楽ヲ聞ク様ダ」と友人の手紙に語っています。


中谷孝雄は二年生(中谷も梶井も一年の時に留年しています)の春から夏にかけての数ヶ月間、のちに妻となる平林英子と相国寺近くの下宿で同棲生活を行っていて、その部屋には毎日のように梶井が遊びに来ました。1921(大正10)年のことです。
その頃の梶井は病気の再発もあり、大阪の実家から電車で学校に通い、放課後や、時には朝から学校を休んで中谷の部屋で遊んでいました。中谷が記した『梶井基次郎』からは、むしろ中谷との友情よりも、平林目当てに(もちろん異性としての関心ではなかったのでしょうが)通っていた節が見受けられ、微笑ましくもあります。
通学の車中で見かけた片思いの女性への思いを、平林に打ち明けてもいたりして・・・。
また、梶井が汽車通学をやめて、吉田町に下宿していた時、中谷の父親が田舎から息子の暮らしぶりを見に来ることとなりました。厳格な家庭に育った中谷にとって、もちろん彼女との同棲は家には内緒のこと。困った中谷は、梶井の下宿へ平林を預けることにします。父親の三日間ほどの滞在中、何の不安もなく、恋人を梶井に預ける中谷も中谷ですが、それを引き受ける梶井も梶井です(笑)。
その後、中谷と平林が不和となって一旦別れることとなった際には梶井はたいそう惜しみ、またその後、復縁したと聞くといちばん喜んだのも梶井であったのです。



梶井基次郎の愛読遍歴は、中学時代の夏目漱石に始まり、森鷗外、谷崎潤一郎、志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎、倉田百三、滝井孝作、川端康成、松尾芭蕉、井原西鶴・・・。その中でも著しい傾倒は、志賀直哉、滝井孝作あたりにあったようです。

その一方で、梶井の京都時代の恋愛遍歴はというと・・・片思いばかりだったようで(苦笑)。

旧制北野中学時代には、父親の知人の娘である高等女学校の少女に憧れ、友人や兄に恋心を打ち明けるも、もちろん叶いません。
三高時代には、通学の車中で毎朝一緒になる女学生に恋愛めいた感情を抱き、自分の気持ちを伝えたいと平林英子に相談。そして、彼は行動にうつすのです。
「ある日、彼は通学の汽車の中で、ブラウニングか誰かの愛の詩集の一頁を裂いて相手の女学生に手渡したのださうであるが、翌日、読んでくれたかといつて彼女に訊ねると、彼女は『知りません!』とつんつんしてゐたといふことである。」(『梶井基次郎』本文より)
まあ、こんなやり方では女の子には、もてませんね(笑)。梶井もこの時の様子を自虐的に友人たちに披露していたことから、どれほど本気だったのかも窺い知れませんが・・・。
その後も、「江戸カフェ」のお初というバタ臭い美女に熱を上げるも、競争者が多くあえなく諦め、また「東洋亭」の芳枝という女性に好意を抱くも、ありふれた片思いに終わったと、中谷は振り返っています。
三年生になった梶井は、白川の下宿から、御所の東にある素人下宿へと移ります。その家の主は三十歳前後の未婚の小学校の女教師で、老母との二人暮らし。二階の六畳間を借りて生活をします。ここは「ある心の風景」の喬の部屋でもあるのです。

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〈御所の東・寺町通り。左が鴨沂高校、右が京都御苑〉

老婆も女教師も大そう親切で、娘の方は梶井が寝床で本を読んでいると電燈のコードを伸ばしてくれたり、枕元に座り込んで彼と話したがったりしたそうですが・・・、男女の関係にいたりませんでした。というのも、その女教師は顔立ちのあまりよろしくない、立ち居振る舞いの粗野な女性だったからだとか。

DSC00462[1] 〈動物園横の疏水〉

結局、二年生の時、中谷らと疏水にボートを浮かべて二條から動物園の石垣の下で月見をしたあと、街に出て酔っぱらったあげく「おれに童貞を捨てさせろ!」と祇園石段下の電車通りで大の字になって動かなかった梶井を、近くの遊郭(祇園乙部あたりだったのでしょう)へ連れて行き、その後、幾度か通うようになったことぐらいが、彼のせいぜいの女性遍歴だったようです。



梶井基次郎 その2

2011年06月06日 00:48

さて、中谷孝雄著『梶井基次郎』から、当時の三高生の散歩コースを紹介しましょう。梶井らよりも10年ほど遅れて三高に学んだ小説家・田宮虎彦の作品にも同様のコースが記されています。そして散歩コースはそのまま、梶井文学の舞台ともなっているのです。

吉田の学生町を抜けて丸太町通りへ出、両側に古本屋の並んだその通りを寺町通りとの交叉点に向かつて西進するのであつた。(中略)

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〈熊野(東大路通りと丸太町通り)の交差点〉

丸太町通りから寺町通りへ出て、その通りを南下していくと、二條通りとの交叉点の一角に鎰屋といふしにせの菓子屋があり、その二階は喫茶店になつてゐた。そこにはお朝さんという美人の女給さんがゐて、私たち三高生の間ではモルゲン(ドイツ語の朝)と呼ばれて大そうな評判であつた。私たち(梶井と私と)は、必ずといつてもよい程その喫茶店へ立寄ることにしてゐたが、どちらもモルゲンに特別の好意を寄せてゐたからといふのではかなつた。ただ習慣的にそこでひと休みすることになるのであつたが、吉田町からここまでやつてくると、ちやうどその程度に快く疲れを覚えるのでもあつた。(中略)

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〈寺町二条の交差点。小説「檸檬」でレモンを買った八百卯と、鎰屋のあった場所〉

寺町通りを更に南下すると新京極へ出る。当時の新京極には劇場と映画館とが、どちらも五つか六つづつあつたが、梶井と映画や芝居を一緒に見た記憶はほどんどなく、大抵はそこを素通りして四條の明るい大通りへ出るのであつた。そして金さへあれば菊水とか東洋亭とかいふレストラン(カフェといふべきか)へ立寄つて、梶井は酒を飲み、私はまたしてもコーヒーや紅茶を飲むのであつた。

201104131231515fb[1] 〈四条大橋〉

やがてそこを出た私たちは、四條通りを円山公園へ向かひ、そこから更に岡崎公園をさして行くのであつたが、その道は東山の麓に沿ひ、老樹に覆はれた暗い淋しい通りであつた。そこまで来ると梶井はよく歌をうたつた。(中略)

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〈祇園石段下と呼ばれる八坂神社前の交差点〉

岡崎公園へ出て、正面の平安神宮の裏へ廻ると、やがて吉田の学生町であつた。ざつとかういふのが当時の私たちの散歩の道筋であり、距離にすれば二里ぐらゐはあつただらう。この長い道を、ほとんど一週間に一度か二度(少し誇張していへば毎夜のやうに)歩いたのだから、思へば当時は達者なものであつた。しかしそれは私や梶井だけのことではなく、吉田町に下宿してゐた三高の学生ならば大抵は昔、夜の散歩といへば私たちとほぼ同じやうな道順を選んだものであつた。

(中谷孝雄著『梶井基次郎』本文より)


高校を二度も留年し、卒業も危ない梶井が最後にとった手段は、試験が済むと人力車に乗って片っ端から教授を歴訪し、卒業を頼み込むことでした。
胸の病気のために歩くのが苦しいことを示すためにわざわざ人力車に乗つていくのであるが、帰りは真直ぐ例のカフェへ来て、それこそからだが悪くなるほど酒を飲むのであつた。そして翌日はまた人力車に乗つて教授を訪ねるのである。かういふ日が三・四日も続いたであらうか、その甲斐があつて梶井はやつと学校を卒業した。教授たちは梶井の仮病にまんまと瞞された訳であるが、もう一つ、梶井が大学は理科系ではなく文科へ進むといふので、それならばと大目に見てくれたのでもあらう。
(『梶井基次郎』本文より)
しかし、この時の梶井の行動はその後十年ほど経って、学校中の美談として校長から全校生徒へと語り継がれることになるのです。動けないほどの病気をおして立派に試験を受け通した人物として・・・(笑)。



DSC04891[1] 〈かつて「丸善」のあった三条麩屋町〉

「檸檬」の舞台となり、梶井お気に入りの店が「丸善」(当時の場所は三条麩屋町西入)です。店内での梶井の様子を中谷は次のように伝えています。
私たちは散歩の途中、よく丸善へ立寄つたものであつた。しかしここでも私は、ただざつと新刊の小説類に目をさらすだけであつたが、梶井はセザンヌだとか、ゴッホだとかルノアールだとか、さういつた画集を棚から抜き出して、丹念に眼を通していた。そんな時の梶井は、もはやそこが丸善の売り場だといふことを忘れたかのやうに、いつまでもそれらの画集に没入してゐるのだが、私は時間をもてあまし、こいつ厚かましい奴だなと、呆れもし、腹を立てもしたことであつた。また時とすると彼は、西洋雑貨の売場の方へいつて、万年筆だとかナイフだとか鉛筆だとかポマードだとか香水だとか、そんなものを一つ一つ丹念に見てまはつてゐたが、その種のものに何の興味もない私は、またしてもぢりぢりさせられるばかりであつた。
(『梶井基次郎』本文より)
この姿は、そのまま「檸檬」の主人公の姿と重なります。当時の丸善は書店としてだけではなく(まあ、今もそうなのですが)、一級の舶来品も数多く扱っていて、当時学生ながらに高級時計のウォルサムを愛用するほどの趣味人であった梶井にとって、居心地のいい空間だったようです。


そして舶来趣味の梶井が、兄のように慕った人として忘れてはならないのが、近藤直人という人物です。
1921年(大正10)年、梶井は春休みを利用して紀州湯崎温泉へと旅行し、そこで4歳年長で京都帝国大学医学部の学生であった彼と知遇を得ます。西洋音楽や西洋美術に造詣が深く、興味を持っていた梶井でしたが、不幸にも梶井のまわりで彼の趣味を解する人間はいませんでした。しかし、旅行先で知り合った、近藤とはお互いの趣味も合い、大いに刺激を受けます。
京都での学生時代には、近藤直人の所有する蓄音器とレコードを聴かせてもらいに行くことが梶井の楽しみのひとつで、その後、梶井が京都を離れても、主に手紙を通じて交流はつづき、悩みを打ち明けては励まされていたのです。
「檸檬」の文中にある「蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。」という部分は、近藤に聞かせてもらった蓄音器のことを頭に描いて、つづられたのかもしれませんね。



梶井基次郎 その3

2011年06月06日 00:49

梶井基次郎の完成された作品で、京都を舞台にとったものは、「檸檬」と「ある心の風景」の2作のみです。

「ある心の風景」について中谷孝雄は、「あの作品を単純な私小説のやうなつもりで読み過してゐる人があるとすれば、とんでもない誤りを犯してゐるものといはねばならない」と断言しています。
梶井の小説『ある心の風景』には、さういふ女から悪い病気をうつされた学生のことが書いてあるが、あの作品はいはゆる私小説ではなく、梶井がさういふ悪い病気に罹つたことは一度もなかつた。あれは、友人から聞いた話をそのまま作中にとり入れ、梶井流に生かしたものであつた。
(『梶井基次郎』本文より)
そして、その友人とは、一級下の浅見篤(小説家・浅見淵の弟)という人物で、酒好きで、贅沢屋で、異国趣味のところが、梶井とよく似ていて気も合い、毎晩のように祇園石段下のカフェ「レーヴン」で飲んでいたというのです。
「ある心の風景」にある、“病気の話”や“朝鮮の鈴の話”は、すべて浅見から聞いた話を「完全に自家薬籠中のものとして駆使してゐる」(『梶井基次郎』本文より)といい、また、梶井の習作「瀬山の話」も浅見を念頭に書かれていると中谷は語っています。しかし、遊郭でもらった病気のことを著書で暴露された浅見篤も災難ですね・・・(笑)。

他に、作品の傾向を読み取る記述として、梶井作品にたびたび登場する“旅情”という言葉についても興味ある記述を中谷はしています。梶井は三高時代の終わり頃から松尾芭蕉を読み出し、芭蕉文学が彼の寝覚めの友となっていたことが“旅情”という言葉として影響していたのではないかと中谷は推察しているのです。


あえて、中谷孝雄著『梶井基次郎』から京都時代のことを中心に紹介しましたが、その他にも、東京帝国大学時代や、同人誌『青空』のこと。さらには湯ヶ島での療養生活とそこで出会った川端康成、宇野千代との交流。そして失意のうちに大阪に戻ったあとの様子など、『梶井基次郎』にはつぶさに梶井本人の様子が詳しく描かれていて、ファン必読の一冊です。


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〈近代文学館 精選 名著復刻全集「武蔵野書院版『檸檬』梶井基次郎」〉

最後に・・・、生前は全くの無名だった梶井基次郎が“近代文学の古典”と称されるほど有名作家となった背景には、多くの友人たちの尽力がありました。

梶井が長年患っていた肺結核の上、流感に罹かり、悲観的な状況に陥ったのが1931(昭和6)年1月。大阪の実家で高熱に襲われ、病床に伏していた梶井を、三好達治が見舞います。詩人として名をなす三好もまた、梶井と同じように三高、東大と進み、梶井らが主宰する同人誌『青空』に参加をした盟友のひとりでした。
「なんとかして、生きているうちに本を出してやりたい」と三好は淀野隆三に相談し、武蔵野書院に交渉、出版にこぎつけます(梶井本人はそれほど、本の出版には乗り気ではなかったのだとか・・・)。
そして5月に出版されたのが作品集『檸檬』でした。
本の売れ行きは芳しくありませんでしたが、同じく『青空』の同人であった詩人の北川冬彦が中央公論社の編集者に梶井の本を紹介し、10月には『中央公論』より執筆依頼が届きます。そして完成したのが昭和7年1月号の『中央公論』に掲載された「のんきな患者」だったのです。これが梶井にとって唯一のメジャー誌での掲載作品で、原稿料をともなう真の作家としての作品でもありました。
「のんきな患者」は、正宗白鳥や直木三十五によって新聞の文芸時評でも取り上げられ、さらに小林秀雄にも論じられ、ようやく小説家として立とうという時、容体が急変し、亡くなります。1932(昭和7)年3月24日、31歳でした。

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〈2000(平成12)年に刊行された筑摩書房の『梶井基次郎全集』〉

梶井の死は、葬儀が終わったのち近親者から友人たちに知らされ、中谷は4月1日に弔問へと大阪に向かいます。
「彼は死の少し前たいそう苦しみ、むづかつたさうだ。しかし母堂が、あなたもまんざら平凡な人ではないのだからもういい加減に覚悟しなさいと諭すと、それからは観念ができたかすつかり静になり、眠るがやうに息を引取つたということであつた。」(『梶井基次郎』本文より)と弔問時に聞いた梶井の最期を伝えています。

弔問の際、「いずれ機会があれば全集を出したい」という思いから、中谷は梶井が書き残した日記や原稿一切を預かって東京に帰ります。そして完成したのが、1934(昭和9)年に六蜂書房から上下2巻で出版された全集(限定530部)で、未発表の草稿や日記、書簡も収録されました。

その後も、中谷や淀野を中心に、幾たびも梶井基次郎の全集は編纂されます。1936(昭和11)年に作品社から全2巻が、1947(昭和22)年に高桐書院(淀野が京都に興した出版社で、ほどなく倒産)から全4巻(淀野が中心に編まれる予定であったものの途中で頓挫し、2巻のみが刊行)が、1959(昭和34)年に筑摩書房から全3巻が、そして2000(平成12)年には同じく筑摩書房から全3巻と別巻の全集が40年ぶりに刷新され、出版されました。





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