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小説家 田宮虎彦

2011年01月26日 01:16

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手元にあるのは1974(昭和49)年に旺文社文庫から刊行された田宮虎彦著『足摺岬 他五編』。もちろん今では絶版です(旺文社文庫自体がありませんからね)。

現在でも簡単に手に入る田宮虎彦の著書としては『足摺岬 田宮虎彦作品集』(講談社文芸文庫)があります。しかし、このブログの趣旨にあった文庫としては、やはり・・・旺文社文庫の『足摺岬 他五編』が最適なのです(笑)。


まずは田宮虎彦の簡単な経歴から。

1911(明治44)年、東京生まれ。幼少期より神戸に育ち、神戸第一中学校を卒業後、1930(昭和5)年に第三高等学校(現:京都大学)に入学します(この時、桑原武夫からフランス語を習ったのだとか)。
1933(昭和8)年、東京帝国大学文学部国文学科に入学。在学中は大学新聞の編集や同人誌をつくったりもしたようです。
大学卒業後は、新聞記者、「映画年鑑」の編集、女学校教師など職を転々としながらも小説を書き続け、1947(昭和22)年、37歳の時に『世界文化』に発表した歴史小説「霧の中」で注目され、本格的な作家活動に入ります。

残念ながら賞にはさほど、恵まれませんでした。
1950(昭和25)年に「絵本」が第23回芥川賞候補となりますが、惜しいところで逃してしまいます。
翌年の1951(昭和26)年には単行本『絵本』で第5回毎日出版文化賞を受賞。
そして、1953(昭和28)年には「都会の樹蔭」が第30回直木賞候補となるも受賞にはいたりませんでした。

代表作は「足摺岬」(1949年)や「絵本」(1950年)。
ベストセラーとしては『愛のかたみ』(光文社)があります。これは妻を胃がんで亡くした翌年(1957年)に刊行した、亡妻との往復書簡を本にまとめたものです。

作家の最期は残念なかたちで訪れます。脳梗塞の後遺症で右半身不随となり、執筆が思うように出来ない悩みから、住居であった東京のマンションより投身自殺を図ります。1988(昭和63)年、享年77歳でした。


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〈第三高等学校(現、京都大学)の正門。現在は総合人間学部のキャンパスとなっています。門は三高時代からのものです。〉


どうして旺文社文庫の『足摺岬 他五編』にこだわるかといえば、その収録作品が、次の6編だからです。

「卯の花くたし」(1951(昭和26)年7月『改造』)
「鹿ヶ谷」(1951(昭和26)年7月『文芸』)
「比叡おろし」(1953(昭和28)年11月『新潮』)
「絵本」(1950(昭和25)年6月『世界』)
「菊坂」(1950(昭和25)年6月『中央公論』)
「足摺岬」(1949(昭和24)年10月『人間』)

これら6つの作品は執筆時期が前後するものの、一つの連なった作品となっています。
そして「卯の花くたし」「鹿ヶ谷」「比叡おろし」は田宮虎彦が第三高等学校に通っていた京都時代に題材をとった自伝“的”小説といえるのです。


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〈「卯の花くたし」や「鹿ヶ谷」の舞台となった疏水べりの「哲学の道」〉


時代はちょうど、満州事変(1931年)から日中戦争(1937年)に突入する頃。そんな時代を生きた、一人の青年の数年にわたる物語。
戦争が影を落としはじめ、社会は窮屈になり、若さという特権をもつ学生といえども、苦学生にとっては大学に進むという選択しか僅かな希望はありません。
作者自身、そして作者と同じ時代を生きた若者たちの姿を、作中の主人公「私」に仮託し、田宮虎彦自身「私の魂の歴史」と呼んだ物語がこの文庫に収録されている作品群なのです。


貧しさや社会の不条理を描く小説というのは、ややもすると、登場人物に当時のイデオロギーや体制を激しく糾弾する姿勢や言動をとらせたがります。しかも私小説の専売特許は、恨み辛みと愚痴にあり(あくまで私見です)、私小説を嫌悪する人は、その点に不快感を抱くのでしょうが、田宮作品では一貫して、苦学生である主人公の「私」に恨み節を吐かせていないのが、好いのです。

主人公を取り巻く人びとは、疎水に身を投げて情死した同級生や、自殺する下宿先の奥さん、そして下宿先の隣人が妻を亡くしたり・・・と、あまりに不幸の極みにいます。しかし、主人公も含めて不幸の中にいる人たちが思いやりと優しさをもっていて、これらの作品ほど人の哀しみと温かみを同時に感じられる小説も、そうありません。

そして田宮虎彦のこれらの作品は社会の不条理や貧困を、淡々と、客観的に描いている点で、より切なく感傷的にうつるのです。どれも歯切れのいい短編で、作品として書き込みすぎていないのが、作品の好さを際立たせています。


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〈「比叡おろし」の舞台となったのは、黒谷金戒光明寺のそばの下宿でした。〉


京都時代を描いた作品を踏まえた上で、名作「絵本」や「菊坂」、代表作「足摺岬」を読めれば、より作品世界を掴めるのでしょうが、現在では「卯の花くたし」「鹿ヶ谷」「比叡おろし」の3編は、そう手軽に読める状態にはありません。それ以前に、はたして田宮虎彦という存在自体がどれほど現代で認知されていることやら・・・(泣)。


こんなにも好い小説が世間から埋もれかかっているとは・・・残念ですねえ・・・というか、世間ではこれらを好い小説とは、もう呼ばないのかもしれません(泣)。




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卯の花くたし

2011年01月26日 01:19

卯の花くたし 田宮虎彦 1951年


「私が父から送金を絶たれたのは、鹿ヶ谷の琵琶湖疏水の流れに近い津村さんという家に下宿していた時であった。」

あまり景気のよろしくない冒頭から始まる「卯の花くたし」ですが、実際の田宮虎彦も父親との折り合いは悪かったようです。
初出は1951(昭和26)年7月の『改造』、文庫で20ページ足らずの短編です。

舞台は戦前、1930(昭和5)年頃のこと。作者が第三高等学校に入学したのも、この年でした。


送金を絶つ旨の葉書を受け取った主人公の「私」は、下宿を飛び出し、疏水べりの道まで一気に駆け下ります。立ち止まったところは数少ない友人の一人、八木がかつて同志社女専の生徒と身投げをした場所だったのです。


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〈友人であった八木の身投げが、疏水のどの場所を指しているのかわかりませんが、菊池寛にも「身投げ救助業」という(平安神宮近くの)疏水を舞台とした奇妙な短編小説があります。当時、疏水での入水自殺は珍しくなかったようですね。とはいえ、今の水かさは膝ぐらいの水量で、当時、なみなみと水が流れていたとしても、はたして疏水の水幅で自殺が出来たのかどうか・・・。〉


今、「私」に友人と呼べるような人間は、いつも陰気な表情を浮かべている高瀬くらいなもの。高瀬と話すようになったのは八木が死んで、たまたま下宿の近かった二人が八木の死体に一時間近く付き添っていたことがきっかけでした。

父親から送金が絶たれた後、「私」は淋しさと不安に苛まれると、決まって疏水べりの駄菓子屋の二階、高瀬の下宿に行くのです。同じ不幸を背負っているような高瀬と向かい合っていると、何故か不安や苛立ちが静まりました。
疏水べりの人びとの話し声や水音を聞きながら二人はそれぞれ物思いに耽り、「また、来るよ」と言って主人公は帰っていくのです。


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〈京都大学の教授で哲学者の西田幾多郎(1870年―1945年)が散歩がてらに思索に耽った道として知られる「哲学の道」ですが、この小説には「哲学の道」の名称は出てきません。あくまで「疏水べりの道」なのです。正式な名称になったのは1972年だそうです。〉


「私」は家庭教師の職を増やしますが、それだけでは食費にも事欠く厳しい状態です。

「私はどうしても食事の出来ない時には、焼き芋を買って食べた。それを、薄暗い自分の部屋で、台所から汲んで来た水で咽喉におくりこむのであった。また、一つ一銭五厘のわりで売ってくれるうどんの玉を買って来て食べた。」(本文より)

うどんの玉をそのまま何もつけずに食べる・・・食事を一切我慢するよりも、ひもじさが際立ちますね。主人公がそんな食べ方を始めたのは、八木が死んだ時、集まってきた友人の一人がうどんの玉を何もつけずに食べる話を聞かせたからでした。みじめとも、笑い話とも取れる、くだらない話で、友人たちは八木の死から気を紛らわせていたのです。
月末になると、銀閣寺道の市場からうどんの玉を買って来ては、朝に晩に、四畳の狭い自分の部屋でこっそりと食べていました。


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〈銀閣寺道(白川通りと今出川通りの交差点〉


ところがある日、下宿先の「津村さんの奥さん」に、うどんの玉を食べているところを見つかってしまいます。
奥さんは「私」の前に“ぺたり”と座って、「  さん、そんなに困っているならどうして私に言ってくれなかったの」と「私」の肩をゆすぶり、「どうせこんなお部屋、お部屋代なんかいらないのよ」と涙を流してくれたのです(主人公の名前は一貫して匿名の「  」になっています)。

それ以降、同じ下宿にいたものの、会話も交わしたことのなかった井沢さんから論文の清書をする仕事を頼まれます。井沢さんは医学部の医局につとめ、おそらく「津村さんの奥さん」に「私」の窮状を聞き、仕事をくれたのです。
津村さんの奥さんも、「私」を気にかけ、(そもそも「私」は食事抜きの下宿生だったのですが)高価なハムやソーセージ付きの食事を持って来てくれたりもしました。
まわりの温かい人びとの支えもあって、主人公はようやく、学校へ通い続ける自信がつき始めます。

生活にも人心地がついた頃、それは「咲いている卯の花を咲きながらにくさらせるという、卯の花くたしの雨」が降り続いていた頃のことでした。学校に高瀬の姿が見えなくなります。
心配した「私」が高瀬の下宿を訪ねると、一階には駄菓子屋の老婆の他に見慣れぬ男がいました。二階にはいつも以上に陰鬱な表情をした高瀬がいたのですが、下にいた男は刑事だというのです。
前科のある高瀬の兄が故郷で再び強盗を犯し、高飛びをしていたのです。
どんな言葉もかけることの出来ないまま、いつもどおり「また、来るよ」と言って「私」は帰ります。

それから二、三日した夜のこと。「私」が部屋で病気のレポートの清書をつづけていると、遠くで呼び子の鳴るのが聞こえます。疏水べりの道を数人の人の駆けてゆく足音も聞こえていました。


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〈「哲学の道」は銀閣寺道から、若王子までの約2㎞の道のり。両岸には桜の木が植えられています。〉


翌日、高瀬と兄が一緒に川端署に留置されたことを知ります。生徒主事補は刑事のような口調で「私」に高瀬の日常を聞き出そうとしますが、「高瀬には悪いところはないでしょう、兄さんが悪いことをしたからって高瀬までつかまるなんて」と叫ぶように言い放ちます。
しかし、高瀬は追いせまる刑事たちに石礫を投げつけたり、兄に捕縄をかけようとした刑事を疏水の中に突き落としたり・・・していたのでした。




鹿ヶ谷

2011年01月26日 01:20

鹿ヶ谷 田宮虎彦 1951年


この「鹿ヶ谷」(1951年7月『文芸』初出)では、前述の「卯の花くたし」(1951年7月『改造』)に登場する「津村の奥さん」と「井沢さん」の関係が明らかとなります。


主人公「私」の下宿先のおかみさんである、津村の奥さんは四十近い年頃。そして同じ下宿にいて医学部の医局につとめる井沢さんは三十二、三。最初、「私」が下宿に入った時、井沢さんが奥さんの夫だと思っていたのには年齢の他に、井沢さんが表座敷の八畳間に住んでいたからでもありました。

他の下宿生は二階に大学生が三人いたものの、夏休み近くになって、三人ともが百万遍のアパートへと越していきます。そして「私」は奥さんの計らいで納戸を改良した薄暗い一階の部屋から、大学生が抜けた二階の明るい部屋へと移してもらうのです(下宿代はそのままで)。


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〈それまで住んでいた部屋の説明に、「もともとは納戸として建てられたものであった。腰高な細長い窓がわずかにあいていたが、その窓の前には、何時ごろかの天皇の陵が迫っており、陵のまわりに生い茂った松の老木の枝が、おおいかぶさるように重たいかげを暗く私の部屋におとしていた。」とあります。この陵は、おそらく冷泉天皇の桜本陵のことです。広大な面積を持つこの陵は、西の哲学の道、東の安楽寺や法然院に挟まれ、外から見ると鬱蒼とした森のようでもあります。〉


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〈桜本陵の前の疏水に架かる石橋「櫻橋」〉


奥さんは熱を出した「私」を親身になって看病してくれたり、井沢さんは「私」が欲しがっていた芥川龍之介全集をくれたりと、相変わらず優しく接してくれます。幼い頃から父親に蔑まれ、今は送金も絶たれた「私」にとって、二人の好意はことさら身に沁みるのです。大学生たちがいなくなった下宿では、奥さんと井沢さんと「私」の三人による家族の団欒に似た愉しさがあり、心が満ち足りてくるようでした。

ところが、九月半ばを過ぎた頃、前に住んでいた学生の紹介で、栗田という大学生が二階に越してきました。しかし、奥さんは越してきた栗田に「どうして越して来たのです。おひきうけはしなかったじゃありませんか」と激しい口調で言っているのを「私」は聞きます。どうやら、出来るだけ早く引っ越すことを条件に栗田は部屋に荷物を運び上げました。


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〈冷泉天皇陵(桜本陵)近くの道。正面に見えるのが吉田山の緑〉


「私」は栗田という大学生の不躾さに嫌悪を抱くものの、彼から奥さんが未亡人ではなく、別居している夫があることを聞きます。栗田が下宿を出ていく二、三日前のことでした。「別居させられたのは、井沢とくっついたからだそうだぜ」と前にいた大学生から聞いたという話をいやしい言葉で伝えてきました。
「私」は二人の関係をなんとなく気づいてはいましたが、心の温かい二人をなじる気持ちにはなりません。


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〈「津村さんの家の前の路地をだらだら下りると、琵琶湖疏水がゆたかに流れているのだった。青く澄んだその疏水の流れは、琵琶湖から如意ヶ嶽の山裾をうがった隧道を流れぬけ、蹴上げで半ばの水をインクラインに落とすと、再び南禅寺、永観堂の下を潜り、若王子の社の前に流れ出て、鹿ヶ谷を銀閣寺道へとゆるやかに流れてゆく。」(本文より)〉


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〈「若王子の社」こと、哲学の道の南端にある「若王子神社」〉


秋が深まってきた頃、奥さんの顔にも、井沢さんの顔にも、暗い影の澱んでいることを「私」は感じます。
そして、ある日、家庭教師の仕事から遅くに帰ってくると、座敷にあったはずの井沢さんの調度が何一つ残っていませんでした。
奥さんは、今夜は淋しいから井沢さんの部屋で寝てくれと「私」に頼みます。事態を了解した「私」は素直に従いました。

「私がうとうとと浅い眠りにおちようとした時、私のそばに奥さんの身体がすうっとすべりこむようにはいって来るのを感じた。私は、はっとしたが、奥さんは何もいわず、両手で私の身体を抱きしめた。その手は、溺れるものが必死に何かにすがりつくような、せつない程の力がこめられていた。」(本文より)

奥さんはしばらくそうして泣き続け、やがて自分の部屋に帰っていきます。そして翌朝、服毒自殺をしていたのでした。




比叡おろし

2011年01月26日 01:22

比叡おろし 田宮虎彦 1953年


初出は1953(昭和28)年11月の『新潮』。“比叡おろし”とは、比叡山から吹き下ろす北風のことです。

前の下宿の主であった「津村さんの奥さん」が亡くなり、「私」は下宿を移っています。
今度の下宿は黒谷金戒光明寺の苔むした石垣の陰にある古びた離れの二階。母屋では八十と六十の老婆の母娘が二人で住んでいました。
隣に住むもう一人の下宿人は細井さんという三十七、八の京都府庁に勤める年配者です。


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〈「その頃、私は、京都岡崎の黒谷光明寺の苔むした石垣のかげにあった古びた淋しい下宿にいた。夜更けて出入りするための小さな引き戸がつけられている京都の古い町家によくある下宿の格子戸は、もとはやはり京都の町家特有なべにがら塗りであったらしかったが、べにがらはとっくに剥げおち、(後略)」(本文より)〉


父親からの仕送りは止まったままでしたが、週三回の出勤で月々十五円くれるという破格の仕事を手に入れます。老舗箪笥店での社長秘書のような立場で、ほとんど仕事はないに等しい気楽なものでした。

細井さんも陰気で「私」とは当初、会話も交わさなかったものの、次第に打ち解けるようになります。
細井さんは「私」と同じ高等学校を十六、七年前に卒業しましたが、金銭的に恵まれず大学には行きませんでした。「どんなに苦しくても、大学へはすすんだほうがいいな」とアドバイスをくれます。


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〈小説中の主人公の下宿は岡崎東福ノ川町。この町名は金戒光明寺の西にあたります。〉


ずっと独身だと思っていた細井さんに、妻と女の子のあることがわかります。二人とは離れて暮らしているのですが、詳しい事情は細井さんも話しません。
ところがある日、十歳ばかりの女の子が細井さんの部屋に来ていて、それが娘の葉子ちゃんでした。葉子ちゃんは普段、奥さんの実家である大津に住んでいて、半年に一度くらいずつ、三、四日、細井さんの元に泊まっては帰っていくらしいのです。その間、細井さんは役所を休んで、毎朝、葉子ちゃんと一緒に出かけていきます。

父にすら蔑まれて家族の団欒も知らない「私」は、京都の名所にでも出かけているのであろう父娘の姿を、微笑ましくも羨ましくも感じていました。細井さんの休日が終わって勤めに出るようになり、葉子ちゃんが一人で部屋に残っていた時のこと。あまりに淋しそうに思えた「私」は葉子ちゃんを連れ出し、近くの動物園へと行きます。雨が降り出しそうな中を、葉子ちゃんは動物にたいそう熱中しています。その姿を見て、「葉子ちゃん、毎日、お父さんに連れていってもらっていたのに、動物園にはまだ来たことがなかったんだね」と話しかけました。すると、悲しげな瞳で「私」を見上げ、涙をため、うなだれたのです。

後日わかったことは、細井さんの奥さんは十年近く、岩倉の精神病院に入院していて、奥さんの病状が悪くなるたびに、葉子ちゃんが呼び出され、細井さんの元に泊まっていたのです。二人は病院へとお見舞いに出かけていたのでした。


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さて、箪笥店での仕事は相変わらず暇のままでしたが、社長の奥さんである常務が、「私」の級友・新野の姉だということがわかります。財閥の役員の息子である新野は、次第に「私」に親しく話しかけるようになります。そして新野の計らいもあり、いつしか月々の給料が二十円に上がっていました。
そして、「私」が出勤していない他の曜日には同志社女専の女の子が「私」と同じく社長秘書の仕事をしていて、実はその女学生だけを雇いたいところが奥さんの目をカモフラージュするために、「私」も雇われていたようだと悟るのです。

寒さが骨まで凍らせるように思えた頃、葉子ちゃんを連れ、岩倉の病院に行く細井さんの姿が四、五日と続いていました。その姿から病人の容体がとても悪いことを感じていましたが、朝早く、「私」は細井さんに起こされます。学校を休んで病院についてきてほしいというのです。細井さんは奥さんの最期が近いことを悟っていました。その日の夕方、奥さんは亡くなりますが、病院の面会室で「私」は葉子ちゃんの傍にずっと付き添っていました。奥さんの苦しむ姿を見せまいと。


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卒業試験が近づき、それが終われば、まもなく大学の入学試験です。ところが、「私」は仕事先の箪笥店から帰ってくると、川端署に留置されてしまいます。何かの事件で検挙された京都大学の学生の手帳に「私」の住所が載っていたからなのでした。その頃、京都や大阪では共産党員の検挙事件が続いていました。
「私」には心当たりがありました。二ヵ月以上も前のこと。箪笥店の仕事に行っている間、新野が部屋を貸してほしいと言っていたことを、です。もちろんその時、「私」には断る理由はありませんでした。それとともに新野が「私」に近づいてきた理由も了解出来たのです。

下宿の老婆は「  さんは、一人も、お友だちのない方どすえ」と警官に答え、細井さんも職場の上司に依頼状を頼んでくれて、ほどなく嫌疑は晴れます。なんとか大学の入学試験に間に合う日程でした。
そして細井さんがフォームで見守ってくれる中、「私」は入学試験へと東京に向かうのでした。


20110122164919ccf[1] 〈黒谷金戒光明寺山内の小径〉
「十二月に入ると、京都のきびしい寒さがつづきはじめる。比叡山から吹きおろす比叡おろしの北風が、黒谷の木々の梢をゆるがせては截るように吹きしきって岡崎の町並へぬけて行くのであった。」(本文より)




琵琶湖疏水

2011年04月24日 01:15

琵琶湖疏水 田宮虎彦 1949年


田宮虎彦の「琵琶湖疏水」は1949(昭和24)年12月、『女性改造』に発表された、ごく短い小説です。京都の三高時代を描いた「卯の花くたし」「鹿ヶ谷」「比叡おろし」より数年先立って発表され、後者の三作が一人称の「私」を主人公としているのに対して、「琵琶湖疏水」は四人の学生の姿を三人称で描いた群像ものなのです。

しかし、うどんの玉を生で食べる貧乏話や、疏水で女学生と入水自殺する友人の話など、後に描かれる逸話が、すでに「琵琶湖疏水」の中に見られることから、いかにそれらが作者にとって印象的な出来事だったかをうかがわせます。

内容は昭和5、6年頃の、田中、酒井、八木、そして佐藤という四人の三高生を描き、タイトルは彼らがたむろする佐藤の家が鹿ヶ谷の疏水べりにあったことから。そういう意味では、「卯の花くたし」「鹿ヶ谷」と舞台は、ほぼ同一ですね。


三人は喋りつかれると、疏水べりの道をあるいた。若王子から銀閣寺へ、銀閣寺から若王子へと行きつもどりつしたり、時には山肌の道を法然院の静かな庭にはいっていったりした。

DSC02405[1] 〈法然院〉

佐藤が日本画家の従姉と住む疏水沿いの家のそばには法然院をはじめ、寺社が多数点在し、散策するには趣深い地域です。法然院の墓地には、谷崎潤一郎、河上肇、九鬼周造ら著名人のお墓もあります。


寒い冬がそろそろしのびよって来ようという十一月初めのある夜、佐藤は集っていた三人につれだされて、新京極の方へ出かけていった。銀閣寺道から出る電車は東山通りを通る。佐藤を連れ出した三人は熊野神社前で電車をおりると、夜の町並みを、吹きぬける北風に身をこごませながら、丸太町通りを寺町まであるき、寺町通りを三条の方へ下っていった。

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〈東大路丸太町にある熊野神社〉

熊野神社から丸太町通りを西へ寺町まで行き、その後、南に向かって繁華街である新京極へ向かうコースは、大正から昭和にかけて三高生の散歩の定番の道筋でした。
この界隈は、田宮より10歳ほど年長の梶井基次郎らの小説や散文にもたびたび登場し、「檸檬」に出てくる八百卯も、この道筋にありました。


三人はやはり佐藤をかこんだまま、ひとかたまりによりそって先斗町の路地をぬけ、四条大橋を渡り南座の裏から川沿いの路地にはいっていった。
「三高さん、よっておいやす」と呼ぶ声が、狭い路地の両側から四人をとりかこんだ。佐藤もそこが宮川町であることは知っていた。だが、佐藤は、まだ三人が自分を娼家にともなってゆくことは知らなかった。

DSC03944[1] 〈現在の宮川町〉

三人に比べ、学校にも真面目に通う佐藤が、初めて宮川町で女を買いに行き、童貞を捨てる場面です。この頃の宮川町は遊郭として名高く、売春防止法の施行後、芸妓のみの花街へと変貌を遂げました。


さて、田中は学費の滞納で除籍処分となり、丹波峰山へと働きに出ます。八木は同志社女専の生徒と疏水で入水自殺を遂げ、そして酒井は出席日数不足で進学出来ず、親元の名古屋へと帰る途中に、夜汽車のデッキから振り落とされて死んでしまいます。
田宮作品らしい寂しい結末ですが、金がなく陰鬱で青白い学生の姿と、疏水べりをはじめとする京都の情景が、田宮虎彦独特の“暗いながらも瑞々しい”青春小説をかたちづくっているのです。





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