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二十歳の原点 その1

2011年01月15日 02:47

二十歳の原点 高野悦子 1971年

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『二十歳(にじゅっさい)の原点』は1971年に新潮社から出版された高野悦子さんの日記です。

そこには、彼女の20歳の誕生日である1969年1月2日(大学2年)から6月22日(大学3年)までの半年間に及ぶ日常がつづられています。
そして最後の記述から二日後、全共闘時代真っ只中の1969年6月24日未明、山陰本線の天神踏切付近で貨物列車に飛び込み20年の生涯を閉じます。彼女は当時、立命館大学の3回生でした。

彼女の死後である6月26日、遺品整理のため下宿先を訪れた家族が、十数冊の大学ノートに書かれた日記を発見します。彼女のいなくなった部屋で、父母は一晩かかって、娘の日記を読み通したのだとか・・・。
日記は父・高野三郎氏の手により、同人誌『那須文学』に掲載され、後に新潮社より『二十歳の原点』として出版されました。

その後、彼女の日記をさかのぼるように、1966年11月23日(高校3年)から1968年12月31日(大学2年)までをつづった『二十歳の原点序章』が1974年に、
1963年1月1日(中学2年)から1966年11月22日(高校3年)までをつづった『二十歳の原点ノート』が1976年に出版されます。
あわせて350万部のベストセラーとなりました。そして、その頃には既に全共闘運動は過去の出来事となっていたのです。


1949年に栃木で生まれた彼女は、修学旅行で訪れた京都に憧れ、「反骨精神、奈良本教授の立命館史学」に希望を抱き、立命館大学文学部史学科(日本史専攻)に入学します。
入学当初はまさか、全共闘運動の嵐が学園に吹き荒れるなんて思ってもみなかったことでしょう。

しかし、彼女が運動にのめり込む素養を持っていたことは、入学以前の日記からもうかがい知れます。
そもそも彼女は高校時代、奥浩平(1943年―1965年)の『青春の墓標』(1965年)を読み、“心の友”と呼ぶほど強い影響を受けていました。


奥浩平とは   

1960年の安保闘争に高校生ながら参加した学生運動家で、1963年の横浜市立大入学後は中核派として活動します。原子力潜水艦阻止闘争や日韓会談反対闘争に加わり、1965年2月、椎名外相訪韓阻止闘争で鼻を骨折し入院しますが、退院直後の3月6日に睡眠薬による服毒自殺でこの世を去りました。
自殺の動機は恋人との別れ、と言われています。早稲田大学の学生であった恋人は、革マル派に属していました。
中核派と革マル派は、日本共産党を批判して結成された新左翼「革命的共産主義者同盟」という組織に端を発してはいるものの、運動の方法や方向性の違いから、次第に袂を分かっていったのです(さらに1970年代に入ると、内ゲバなどの凄惨な暴力闘争へと激化します)。
彼と恋人も自分たちの所属する派閥の乖離と同時に、関係がギクシャクし、別れとなってしまうのです。
そして彼の書いた日記や、友人に綴った書簡を死後にまとめたものが、『青春の墓標』として出版されました。




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二十歳の原点 その2

2011年01月15日 02:51

奥浩平氏と高野悦子さんは、奇しくも、学生運動にのめり込み自問自答する姿や、青春期の失恋など、同じような境遇を辿り、最後は自死を選んでしまうのです。そして、死後に親族により日記が刊行され、ベストセラーとなる点も同じで・・・。


しかし悲しいことには、この一連の『二十歳の原点』シリーズの刊行で、高野さんの親族には非難する声も寄せられ、ベストセラーになったが故のお金にまつわるいわれない誹謗中傷にもさらされたようです。


単行本『二十歳の原点』のあとがきで、高野三郎氏は次のように語っています。

「故人の手記を発表してほしいという話があったとき私は迷いました。手記が、発表されることを予期して書き綴られたものでないだけに、故人の恥部をさらけ出すことを恐れたのです。故人のプライバシーを尊重してソットしておくべきだとの御意見もありました。にもかかわらず、あえてそれを乗りこえさせたものは、編集者たっての懇請もさることながら、平凡な家庭に育ち平凡なコースを歩んだはずの一人の娘が、非凡な終末をとげるに至ったのは何故なのか、そして親として平凡なコースに戻らせるべくアドバイス(コントロール?)はできなかったものか。この辺の経緯と親と子の断絶、これらを汲取っていただいて他山の石としていただけたら、という次第なのです。」


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〈寺町通りと広小路の交差点〉


先に述べたように、彼女の心の友といえる書は『青春の墓標』で、リストカットまがいのカミソリで指先を切る自傷行為をしたり、太宰を好んで読んだり、そして自殺についての記述がたびたび見られたり・・・。

「私は誰かのために生きているわけではない。私自身のためにである。ホテルのソファに坐りながら、自殺しようと思った。車のヘッドライトに向かって飛びこめば、それでおわりである。家の父や母は悲しむかな、テレしようかなとか、今日はペンと手帳を持っていないから遺書はかけないなあとか、本気になって考えた。けれども、死ぬってことは結局負けだよなあと思った。」(4月18日の日記より)

彼女はずっとどこかで、自殺という人生の最期に憧れを抱いていたような気がします・・・。栃木に住む両親も彼女を心配し、自殺の一週間前には娘のやりたいようにやらせてあげよう、との言葉を伝えるために母親が京都を訪ねてきますが、結局、親の思いは届かず、その時京都で母親に買って貰った茶色のワンピースと靴を履いて、列車に飛び込んでしまいました。


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二十歳の原点 その3

2011年01月15日 02:53

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〈広小路河原町の交差点〉

彼女は入学直後の1967年5月に部落問題研究会(民青系)に入部するも、民青への加盟を強要するオルグに悩み、翌年4月には退部しました。その後、入部したワンダーフォーゲル部では精神的な安らぎを得たようですが、12月に酒に酔った勢いで、男子部員と望まぬかたちでの初体験を経験し、かなりのショックを受けてしまいます。

また1968年12月に大学で起こった「新聞社事件」が彼女の関心を社会問題、全共闘運動に大きく傾かせるきっかけともなったようで、正月休みに家族で過ごしていた「帰省分のおくれ」を取り戻そうと、帰ってきた京都の下宿で、『朝日ジャーナル』『現代の眼』『展望』などを読み耽ります。

1969年1月16日には全共闘が学生会館である中川会館を封鎖。彼女はバリケードが築かれた前でヘルメット姿の学生がマイクでアジテーションをしている光景を眼にし、その翌日の日記では「ノンセクトから無関心派への完全なる移行、激しい渦の前でとまどいを感じる。動け? 『東大紛争の記録』を読んでも何もわからない」と戸惑いを見せています。 


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〈かつての広小路学舎の西にある梨木神社〉

「十五日に広小路に行くと、学生二名が私服警察官に逮捕されたことに対する抗議デモをやっていた。河原町通や梨ノ木神社には機動隊が待機しているし、それこそ一触即発の気配であった。」(2月17日の日記より)


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〈京都府立医科大学附属図書館。かつての広小路学舎の正門があった場所〉

「十九日、学内は一両日中に機動隊が導入されるという緊張の中にあって騒然としていた。私は実のところ、下宿で本を読むべきか、学内で機動隊の立入りに対し反対の行動を起すべきか迷っていた。しかし機動隊の学内立入りにハッキリした立場をとらないと、これからもズットこのまま駄目な状態になっていくような気がして学校に徹夜した。」(2月20日の日記より)

結局、彼女は20日に正面バリケードでの座り込みに参加します。「私は闘争を始めた。内なるバリケード  ブルジョア性の否定  を築いた。」(2月22日の日記より)


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〈二条城の前に建つ「京都国際ホテル」〉

3月に入り、彼女は「京都国際ホテル」でウェイトレスのアルバイトを始めます。「彼ら彼女らは全く明るい。大声で笑い、話し、楽しさが溢れている。(中略)人間って一体何なのか。生きるってどういうことなのか。生きること生活すること、私はどのように生きていくのか、あるいは死ぬのか。今、私は毎日毎日広小路で講義を受けるがごとくアルバイトに通い働いているのだが。」(3月16日の日記より)

労働を通し、地に足のついた生活に身を置くことで、学生運動に浸る凝り固まった彼女の頭も癒されるかと思いきや、ここでは賃上げ闘争のストライキを目の当たりにします。そして初任給1万8千円で働くホテルの人びとに対し、自分は2万5千円の仕送りを貰っていることに矛盾を感じ、悩んだり・・・。憧れを抱いた十歳年上のホテルの主任のストライキに対する態度に幻滅したり・・・。

「鈴木? 仕事をやるだけの機械人間め! 彼とて現代の独占資本主義の中であえいでいる人間だったのだ。これで一つ彼への幻想がうち破られた。彼に何を求めているのか。それは国家権力と闘うことだ。労働者とともに会社側と闘うことだ。それ以外に何ものぞまぬ。」(4月25日の日記より)

そして、4月末にはアルバイト先の男性とスナックに行き、成り行きで肉体関係を持つのですが、彼には彼女がいることを知るのです。

「九日、中村氏は仕事の始まる前パントリーにいた。例のあの瞳でじっとみていた。会えてうれしかったのに、私はそっけないそぶりをした。何故? 何故? そのあと吉村君から中村氏にはステディな関係にある女の子がいるときいた。相当なショック。」(5月11日の日記より)

『二十歳の原点』では登場人物の名前は仮名となっているものの、彼女と関係を持った男性や上司たちのプライバシーに関して・・・当時、問題とならなかったのでしょうか・・・。




二十歳の原点 その4

2011年01月15日 02:57

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〈荒神口にあったジャズ喫茶「しあんくれーる」跡地〉

日記ではカタカナで「シアンクレール」と記されています。彼女がもっとも気に入っていた喫茶店です。店名「しあんくれーる」は「思案に暮れる」をもじって。

「『シアンクレール』に五時半までいた。なんであんなにいいんだろう。あれを全身できいていると体が生気あふれるのだ。最期にThe Sound of Feelingをきいてバイト先に急ぐ。」(4月12日の日記より)

「『シアンクレール』にて。ホワイトのオンザロックを飲みながら、ステーヴ・マーカスのTomorrow never knowsをリクエストして、リクエスト曲とも知らずにあまりにもピッタリくるので、その曲のジャケットを見にいったバカな私。」(6月19日の日記より)

最後の日記にも、この喫茶店での出来事が記されています。

「きのう『シアンクレール』にいたら女の子が話しかけてきた。話がはずんでサイクリングに行こうということになった。琵琶湖にいくことになった。しばらくジャズを聞いたあと私は言った。『私やめるわ。一週間も先のことどうなるかわからないし』あの女の子とつきあっていたら、いつしか裏切るようなことをするのがわかっていた。人間のつきあいには必ずウソがある。すべて流れゆく旅人の気持で、こよなく彼を彼女を愛して通り過ぎてゆくのがよいのだ。『一週間も先のことはわからない』。全くもって正しいことであった。」(6月22日の日記より)


20101228174929bcc[1] 〈三条河原町界隈〉

三条河原町は、彼女が通った喫茶店「ろくよう」や「裏窓」のあった場所。
「ろくよう」とは今もある六曜社のことで、「裏窓」はその数軒南にかつてありました。

「九日の日は朝早くから井上がテレをしてきて、待ち合せ。二時間ぐらい『裏窓』で勝手気ままに話して、その後学校に行き、大衆団交を見学しました。」(2月11日の日記より)

「『ろくよう』に独りで呑みだしてから私はよく笑った。そして泣いた。泣き笑いのふしぎな感情ですごした。/あのウェイターのおじさんにDo you know yourself?と、いったら、Yes,perhaps,I know myself.  といった。私はI don't know myselfと、いって笑った。」(4月15日の日記より)


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〈宗教法人施設「京都救世会館」となった、かつての「恒心館」〉

立命館大学広小路学舎時代の建物として今も残っているのは、この旧恒心館と、鴨川沿いにある現在の京都府立医科大学体育館のふたつだけ、です。

「久しぶりで恒心館へ入ったが、小気味のいいほど破壊しつくされていた。机も椅子も黒板も、まあ、そんなものおいらにゃ要らねえぜ。恒心館屋上で考えた。一人でもおいらは闘うぜ。」(4月25日の日記より)



40年も経っていれば、日記に登場する建物も町の雰囲気も変わっていて当然です。
ですが、この日記を読むと、あたかも自分の同級生が遺した日記を読んでいるような生々しさを感じてしまうのです。それでいて、彼女は自分を客観的に見つめる眼も持ち合わせ、時に、悩む自分の姿を無頓着に突き放す術をもっていたりして・・・。
だから、自殺した女子大生の日記という“看板”ほど、暗く陰湿な日記とはなっていませんし、むしろ時代を越えて人びとが共感し、ベストセラーにもなった理由は、日記に垣間見える彼女の根にある明るさにあるのでは・・・、と思えるのです。






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