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五條楽園 その1

2010年12月29日 00:38

「五條楽園ひっそり 経営者ら逮捕、お茶屋など一斉休業」

2010年11月20日付の京都新聞朝刊で報じられた記事の見出しです。さらに以下のように続きます。

府警は10月28日と11月18日、売春防止法違反容疑で、お茶屋と置屋の統括責任者や経営者ら計5人を逮捕した。府警によると、五條楽園の摘発は「平成に入って初」。最近の週刊誌やインターネットで売春の実態が掲載されたのがきっかけの一つという。
逮捕を受け、お茶屋と置屋は10月28日から一斉に休業した。11月17日には、一帯の入り口に掲げていた「五條楽園」の看板や案内図が撤去された。あるお茶屋は「終戦直後から続けており、今さら別の商売もできない。宣伝もせずひっそりやってきたのに・・・。再開の予定はない」としている。


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京都が誇る五つの花街(上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町(残念ながら島原は今では花街とは呼べませんね))が“陽”ならば、この五條楽園は京都人から忘れ去られた“陰”の町・・・。
京都でもっともディープな町、それが東九条と、この五條楽園といっていいでしょう。
しかし陰の町といえども、大正や昭和初期の建物が混在し、これほど淫靡な“情緒”をかもしだす町は日本中探してもそうみあたらないはずです。

「五條楽園」とは「北は五条通、南は正面通(七条通りの二筋北)、西は河原町通、東は鴨川」に囲まれた“遊郭”のことです。
京都新聞によれば、現在も15軒の「お茶屋」と4軒の「置屋」が点在しているようですが、「お茶屋」や「置屋」と聞いて、祇園のそれを思い浮かべてはいけません。

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さて、この町の歴史ですが・・・、
「五條楽園」のある一帯は、江戸後期には京都で最も大きな遊廓として繁栄していて、もともとは五条橋下(五条新地)、六条新地、七条新地といういくつかの近隣の遊郭が大正時代に合併し「七条新地」と呼ばれるようになりました。
芸妓と娼妓が混在していた町が、昭和初期には娼妓ばかりとなり、戦後は赤線(政府公認で売春が行われていた地域)となって、1958(昭和33)年の売春防止法施行後に「五条楽園」と名が改められます。ちなみに1960年頃には約60軒ほどのお茶屋があったのだとか。

50年前の売春防止法施行をかいくぐり、ひっそりと存在してきた町・・・京都のタブー・・・それが「五條楽園」なのです。

立て続けに二度も摘発を受け、町も看板や案内図を撤去したとあっては、今回は当局も本気か? と心配してしまいますね。
何が心配かというと・・・お姐ちゃん・・・もそうですが、この町並みが、です。

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売春防止法によって、京都市内でも上京区にあった遊郭・五番町は急速に寂れ、今では往時の面影がまったく見られないのですから・・・。数十年後には五番町と同じ運命を辿るのではないかと懸念するのです。




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五條楽園 その2

2010年12月29日 00:45

それでは、すこし五條楽園を歩いてみましょう。
お茶屋さんや置屋さんだけではなく、多くの民家がありますので、迷惑をかけない程度に、ね。

20101227215340b42[1] 〈五条大橋〉

五条大橋のすぐ西から高瀬川沿いに南へ行くと、そこが五條楽園です。


20101227215341aed[1] 〈高瀬川〉

高瀬川を挟んで、左が木屋町通、右が西木屋町通。


20101227215259dfc[1] 〈源融 河原院跡〉

いきなり、名所の登場です。

源融(みなもとのとおる)(弘仁13(822)年―寛平7(895)年)とは嵯峨天皇の皇子で、『源氏物語』の光源氏のモデルとなった人物です。左大臣であった源融が、摂政・藤原基経の台頭により失脚し、隠棲した邸宅「河原院」(東西は鴨川の中央あたりから柳馬場通、南北は五条から正面通あたりまで)が、このあたりだったのです。写真にある榎の大樹はこの邸内にあった森の名残といわれています。
後ろに映っている鳥居の中には榎大明神が祀られ、榎はその神木として崇められ、平成12年には京都市の「区民の誇りの木」に選ばれました。
ちなみに「河原院」が「河原町」という通り名の由来でもあります。

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おしゃれな黒板の家(お茶屋さん?)の壁に鳥居が貼りつけられ、中には榎大明神がいらっしゃいました。


201012272147486cb[1] 〈鴨川沿いのお地蔵さんの祠〉

後ろに見えるのが五条大橋です。五條楽園界隈には至る所にお地蔵さんが祀られています。


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高級料亭にも負けない外観のお茶屋さん。目隠しのためのすだれが2階の窓に綺麗にならんでいます。あの窓から眺める高瀬川はおつなものでしょうね。


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先ほどの大きなお茶屋さんを過ぎ、現れたのがこのお風呂屋さんです。以前はこの橋の上に「五條楽園」の大きなネオンサインが出ていましたが、今は撤去されています。


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小径のトタン壁にも遊び心が出ています。


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おそらくかつてのお茶屋さんだった建物です。小路にいきなり立派な唐破風をしつらえた建物が出てくるのですからびっくりです。




五條楽園 その3

2010年12月29日 00:56

もう少し、五條楽園の町歩きは続きます。


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看板がローマ字でも表記してある通り、外国人客にも人気の旅館だそうです。遊郭と外国人、なかなかミスマッチでよろしおすなあ。


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緑色の雨戸が、なに気にサイケ。


2010122721504160e[1] 〈山内任天堂〉

五條楽園の南端、正面通にあるのは、“世界のNINTENDO”発祥の地です。

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任天堂はここで、カルタやトランプの製造からはじまり、世界に羽ばたいていったのですね。


2010122721504107a[1] 〈高瀬川船廻し場跡〉

豊臣秀吉が天下統一の後、その権勢を誇るため「天下泰平」祈願の寺として方広寺(大仏殿)を建立します。その際、建設資材を伏見港から搬入するため、1586(天正14)年、豪商・角倉了以とその息子・素庵に命じ、開通させた水路が、この高瀬川です。
実際、1920(大正9)年まで米、材木、薪炭から日常雑貨などを運ぶ重要な水路として使われていました。
このあたりに回漕点があり、ここから上流の六条坊門にかけての舟繋ぎ場には、常に何艘かの高瀬舟が繋がれていたそうです。


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大正モダンなんて言葉が似合う洋風のお茶屋さん。

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2010122721491532a[1] 〈五條楽園歌舞練場(五條会館)〉

五條楽園歌舞練場は1915(大正4)年に造られた木造三階建。最近はイベントでの貸し出しもされているようですよ。

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提灯の紋は“五”を模しているのでしょうか。


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ステンドグラスの芸妓さん。



ひとつ気づいたことは・・・、町から消え去った「五條楽園」のネオン看板ですが、それがなくなったおかげで、町がさらにあだっぽく艶やかになっているのです。今後、ケーサツからお目こぼしがあって、営業再開の暁には、情緒ある提灯を増やして、ネオンサインはナシでお願いしたいものですね。


京都の町にぽっかりと空いた冥界のような場所。そんな場所が一カ所ぐらいあってもおもしろいと思うのですが・・・。

最後に・・・「五條楽園」の中でまったく触れていない建物がありますが、そこのところは忖度してくださいね(笑)。





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