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一条戻橋 その1

2010年12月15日 00:13

一条戻橋

京都でもっとも“無粋”な通りは・・・京都市街の中心部を南北に貫く堀川通り。というのは、あくまで独断と偏見です(近くにお住まいの方、ごめんなさい)。

201012111610240ef[1] 〈堀川通り〉


戦前までは、西堀川通り、堀川、東堀川通りの三つは同じくらいの道幅だったのですが、太平洋戦争時、空襲での延焼を避けるため、西堀川通り沿いの家屋が強制疎開させられ、現在の“無粋”な大通りとなってしまったのです。
そんな堀川を1961(昭和36)年の廃止まで市電の堀川線(通称、北野線)が、東堀川通の中立売と四条の区間を走っていました。

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〈映画『夜の河』(1956(昭和31)年)より 東堀川通を走る市電〉


かつての市電が東堀川通から西に曲がったのが中立売通りで、中立売通りの一本北にある通りが一条通。変わり果てた堀川通りの中で、平安京造営時から変わらぬ場所にあり続けるのが有名な「一条戻橋」です。そもそも堀川は平安京を造るにあたり 北山の木材を運搬する運河として開削されました。


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様々な言い伝えや伝説が残る一条戻橋ですが、もちろん『都名所図会』にも紹介されています。

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戻橋は一条通堀川の上にあり、安陪晴明十二神将を此橋下に鎮め、事を行ふ時は喚で是を使ふ、世の人吉凶を此橋にて占ふ時は神将かならず人に託して告るとなん。〔源平盛衰記に中宮御産の時、二位殿一条堀川戻橋の東の爪に車を立させ辻占を問給ふとなん〕又三好清行死する時、子の浄蔵父に逢んため熊野葛城を出て入洛し、此橋を過るに及んで父の喪送に遇ふ、棺を止て橋上に置、肝胆を摧き念珠を揉、大小の神祇を祷り、遂に咒力陀羅尼の徳によつて閻羅王界に徹し、父清行忽蘇生す、浄蔵涙を揮て父を抱き家に帰る、これより名づけて世人戻橋といふ。是洛陽の名橋なり。
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 一条戻橋〉


『都名所図会』では、二つ橋が架かっていますが、左が「一条戻橋」で、右は小川に架かる「主計橋」です。小川と主計橋は現在ありません。

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一条戻橋 その2

2010年12月15日 00:17

「戻橋」という名前の由来は・・・、延喜18(918)年12月、当代きっての文章博士・三善清行が亡くなり、父の死を聞いた僧の浄蔵が熊野葛城から急いで京都に帰ってくると、葬列は丁度、この橋の上を通っていました。浄蔵が棺にすがって嘆き悲しみ、神仏に祈願したところ、父・清行が一時的に生き返り、父子は抱き合ったという言い伝えがあるからなのです。

もともと、この橋は辻占の一種である“橋占(はしうら)”の名所でもありました。
橋占とは、橋のほとりに立って、そこに行き交う人びとの会話や言葉から吉凶を占うというもの。
陰陽道の土御門家の祖である安倍晴明(延喜21(921)年―寛弘2(1005)年)は、橋占に十二天将を式神として使い占っていたそうです。はじめは家の中に式神を置いていたものの、妻がこれを怖がったので、晴明は式神を戻橋の下に隠し置いて、必要なときに召喚していました。
また、晴明の父・保名が殺害されたのも、ここ戻橋で、晴明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所でもあるのだとか。

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〈『泣不動縁起絵巻』清浄華院蔵 重要文化財 16世紀 安倍晴明が二匹の式神(写真右下)を従えて祈祷する場面〉

『源平盛衰記』にも、建礼門院(久寿2(1155)年―建保元(1214)年。高倉天皇の中宮で父は平清盛)が安徳天皇を出産のときに、その母・二位殿(平時子)が一条戻橋で橋占を行ったことが描かれています。後になってわかるのが、安徳天皇が8歳にして壇ノ浦の海に沈むことを暗示していた・・・という哀しい結末なのです。

しかし、なんと言っても、戻橋にまつわるもっとも有名な伝説は渡辺綱の鬼女(橋姫)退治でしょう。『平家物語』剣巻には詳しく描かれています。

嵯峨天皇の(809年―825年)の頃。深い妬みにとらわれた公卿の娘が、恨んだ女を殺したい一心で貴船大明神に祈り、ついに生きながら鬼となった。俗に言う「宇治の橋姫」である。
橋姫は、妬んでいた女を殺すだけでは飽きたらず、相手の男やその親戚、さらには誰彼見さかいもつかずに人を殺すようになり、洛中の人びとは申の時(15~17時)を過ぎると外出することを控えるようになってしまった。

源頼光の四天王のひとり、渡辺綱(天暦7(953)年― 万寿2(1025)年)が頼光の使者として一条大宮に遣わされた。夜は危険と、名刀「鬚切(ひげきり)」を預かり、馬で向かった。

その帰り道、一条堀川の戻橋を渡る時、二十歳ほどの女性を見つけた。肌は雪のように白く、紅梅の打着で、お経を持って、ひとり南へ向かって歩いていた。

綱は「夜は危ないので、五条まで送りましょう」と言って、自分は馬から降りて女を乗せて、堀川を南に向かった。正親町の近くで女が「私の住所は都の郊外なのです。そこまで送っていただけませんか」と頼んだので、綱は「分かりました。お送りします」と答えた。すると女は鬼の姿へと変わり、「私が行くのは愛宕山だ」と言って綱の髪をつかむと、乾(北西)の方向へと飛び立った。

綱はあわてず、鬚切を抜き、鬼の腕を断ち斬った。綱は北野の社の回廊に落ち、鬼は手を斬られたまま愛宕山へ飛んでいった。綱が髪をつかんでいた鬼の腕を手に取って見ると、雪のように白かったはずが真っ黒になっていて、銀の針を立てたように白い毛がびっしりと生えていた。

鬼の腕を持ち帰り頼光に見せると、頼光はたいそう驚き、安倍晴明を呼び、彼にどうすればいいのかを訊ねた。すると晴明は「綱は七日間休暇を取り、謹慎させてください。鬼の腕は私が仁王経を読んで封印します」と言い、その通りにさせた。

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〈歌川国芳『本朝武者鏡 渡辺綱』 大判錦絵 安政2(1855)年〉

このあと、鬼女の腕は、摂津国渡辺(大阪市中央区)にある渡辺綱の屋敷に置かれていましたが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされています。

ちなみに、この鬼女の腕を切った源氏の名刀「鬚切」は実在します(笑)。この事件の後、「鬼切(おにきり)」と呼ばれるようになったこの刀は、羅生門の鬼退治(『酒呑童子』)などにも使われ、現在は北野天満宮の宝物殿に所蔵されているのです。


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なお、「戻橋」という名から、婚礼の輿入れや葬送の列は、今もこの橋の上を通りません。逆に、旅に出る人や物を人に貸す時は、この橋を渡る風習があったようです。近年でも太平洋戦争で戦地に赴く人やその家族は、無事戻ってくるようにとの願掛けで、戻橋を渡りに来ていたのだとか・・・。



一条戻橋 その3

2010年12月15日 00:23

「一条戻橋」は何度も架け替えられながらも、平安京の時代から同じ場所にあり続けたのですが、京都にはこの橋にまつわる都市伝説も残っています。現在の橋は1995(平成7)年に新しくなったもので、さらにその前の橋は1922(大正11)年に架け替えられました。その際、安倍晴明が橋の下に隠していた式神を閉じ込めた木箱らしきものが見つかったというのです。一条戻橋の伝説を知っていた工事関係者が、慌ててその木箱を元に戻し、埋め直したと言うことですが・・・。

20101211160840140[1] 〈旧戻橋〉

現在の橋の下はというと・・・、なんとまあ、禍々しい伝説もどこかに吹き飛ぶような、あっけらかんとした堀川になっちゃっていますね。

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これは1997(平成9)年から「堀川水辺環境整備事業」として堀川(今出川から二条城までの4.4キロメートル)に清流を取り戻し、市民の憩いの場にしようと京都市が進めた事業のようです。

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琵琶湖疏水分線から賀茂川をサイフォンでくぐり、紫明通、堀川通の地下に導水路を設けて水を引くというもの。2002(平成14年)年度から工事に着工し、2009(平成21)年3月29日に通水式典が行われました。総事業費は18億円でした。

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さて、一条戻り橋から北に100メートルほど行ったところにあるのが、晴明神社です。

20101211161024fd2[1] 〈額には金色に輝く社紋の桔梗印〉

かつての安倍晴明の邸宅跡に建つ小さな神社で、寛弘2(1005)年に85歳で晴明が亡くなり、その2年後に創建されました。
夢枕獏の安倍晴明を主役とした小説『陰陽師』シリーズの影響で、2000年以降爆発的な晴明ブームが起こり、今では全国から参拝者が訪れるようになりました(それまで、うらびれた地元民でも知らなかった神社が、今や綺麗に伽藍も整えられ、全国に名を馳せるようになるのですから、流行って恐ろしいものですね(笑))。

鳥居をくぐると以前の一条戻橋の橋柱が飾られています。

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〈1922(大正11)年から1995(平成7)年まで架かっていた「戻橋」〉


晴明神社の神紋は、五芒星。陰陽道では魔除けの呪符として伝えられ、重用されました。桔梗のの花を図案化した形として、「晴明桔梗」とも呼ばれています。

20101211161210640[1] 〈本殿〉

大日本帝国陸軍では「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)という法令で、軍帽に五芒星を刺繍するよう定めていました。桜花の萼を模しているとも、弾除け(多魔除け)の意味をかついでの採用だったとも言われています。

20101211161211553[1] 〈晴明井〉

境内にある「晴明井」といわれるこの井戸は、晴明の霊力よって湧き出たらしく(ほんとうかな(笑))、無病息災のご利益があるといわれています。
水の湧きでるところがその年の恵方を向いているという凝った造り!(上部の石を動かすなとの注意書きがありました)。
また、晴明神社の場所はかつて千利休の屋敷があったところとも言われていて、「晴明井」の水を利休が使ったともされているとか・・・。この水で茶を点てて、太閤秀吉に振る舞ったり、最期に自服した茶もこの水で点てられたであろう・・・との神社の説明書きでした(笑)。





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