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東向観音 蜘蛛塚 その1

2010年11月27日 00:13

東向観音 蜘蛛塚 


縁日の北野天満宮の賑わいをよそに、参道を進み、二の鳥居の手前を西へ行くと東向観音というお寺があります。

東向観音05007


まずはこの観音寺(通称は東向観音)の由来でも・・・。


通称、東向観音こと観音寺は、延暦25(806)年に桓武天皇の勅により藤原小黒麿らが建立し、創建当時は朝日寺と呼ばれていました。
天暦元(947)年には菅原道真を祀る北野天満宮の前身となる社殿が造られ、応和元(961)年には筑紫の観世音寺より菅原道真作の十一面観世音菩薩が朝日寺に請来し安置されます。

応長元(1311)年、筑紫の観世音寺に倣って観世音寺または観音寺と改称し、「天満宮御本地仏・北野神宮寺」または、「奥之院」とも称します。
さらに本堂が東を向いていることから東向観音と呼ばれ(もともとは、東向、西向の両堂あったものが、応仁の乱や火災等で焼失し、西向きは再興されなかったそうです)、長く北野天満宮の神宮寺としての性格を担っていたようです。

その後、17世紀に豊臣秀吉が北野社を復興した際、東向観音も整備され、江戸時代後期には寺の正式名称を「観音寺」とし、現在は真言宗泉涌寺派の準別格本山となっています。


東向観音00515
〈現在の本堂は、慶長12(1607)年、北野天満宮本殿再建の際、時を同じくし、豊臣秀頼によって再建されたもの。また本尊の十一面観世音菩薩は25年に一度の御年祭の年のみ御開帳される秘仏で、次の御開帳は1125年祭の平成39年(2027)だとか・・・〉


さて、どうしてこのお寺を紹介したのかと言えば・・・蜘蛛塚があるからなのです。


蜘蛛塚05013 〈土蜘蛛灯籠〉



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東向観音 蜘蛛塚 その2

2010年11月27日 00:18

東向観音の本堂の横、隣家の洗濯物が干されたその下にあるのが、蜘蛛塚、厳密には「土蜘蛛灯籠」です。

蜘蛛塚00511
〈蜘蛛塚の隣には菅原道真の母を祀る伴氏廟があります。4メートルを超える石造の五輪塔。もともとは、北野天満宮の三の鳥居西側(現在の伴氏社の場所)にあったものが、廃仏毀釈で寺の境内に移されたのです〉


そもそも、土蜘蛛ゆかりの蜘蛛塚は現在の七本松通一条の北西側にあったのです・・・。


清和院 蜘蛛塚 (拾遺都名所図会)

七本松通一条の北西側、圃の中に一丈許の塚あり、是をいふ。古へ此所に大きなる土蜘蛛棲しとなり。太平記に、北野のうしろとあり、後考あるべし。一名山伏塚といふ。太平記剣巻に曰、夏の頃源頼光瘧を病て、いかに落せども落ず。後には日毎に発りけり。おこりぬれば頭いたく身ほとをり、天にもつかず地にもつかず、宙にうかれてなやまれけり。かやうに逼迫する事三十余日にぞ及びける。ある時又大事におこりて、少し減に付て醒方になりければ、四天王の者ども看病しけるも、みな閑所に入て休けり。頼光少し夜ふけがたの事なれば、かずなる灯火のかげより長七尺許の法師するするとあゆみよつて、縄をさばきて頼光につけんとす。頼光これに驚てがばと起、何者なれば頼光に縄を付んとするぞ、悪き奴かなとて、枕に立置れたる膝丸をつ取はたと切る。四天王ども聞付て、我も我もと走りより、何事にて候と申ければ、しかじかとぞ宣ひける。灯台の下を見れば血こぼれたり。手に火をともいてみれば妻戸よりすのこへ血こぼれたり。是を追行ほどに、北野のうしろに大きなる塚あり、かの塚へ入たりければ、則塚を崩して見る程に、四尺ばかりなる山蜘蛛にてぞありける。これをからめて参りたりければ、頼光やすからざる事かな、是程のやつにたほらかされ、三十余日なやまさるゝこそふしぎなれ、大路にさらすべしとて、鉄の串にさし河原に立てぞ置ける。これより膝丸をば蜘蛛切とぞ号しける
〈天明7(1789)年刊行の『拾遺都名所図会』より 清和院 蜘蛛塚〉


上記、『拾遺都名所図会』の左下に「くも塚」と書かれているのがわかるでしょうか。


太平記によると、頼光が瘧(マラリア)を患って30日あまりもの間うなされていたところ、夜中に身長7尺(約2.1メートル)の怪僧が現れ、縄をもって頼光を絡めとろうとします。
頼光は臥せっていたにもかかわらず、やおら起き上がり、枕元にあった名刀「膝丸」で斬りつけると、僧は逃げ去りました。
灯りの下を見ると、血がしたたり落ちています。その血痕を四天王(渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光)とともに追っていくと、北野神社の南東方向にある大きな塚に辿り着きました。その塚を突き崩すと、中には4尺(約1.2メートル)の山蜘蛛がいたのです。
頼光はこれを捕えて、鉄串に刺し河原に晒しました。するとたちまち病気は回復し、土蜘蛛を討った名刀「膝丸」はそれ以来「蜘蛛切(くもきり)」と呼ばれたということです。


以上が、蜘蛛塚にまつわる伝説なのですが・・・、話はまだ終わりません。


明治になって、この蜘蛛塚を発掘したところ、石仏や墓標の破片が出土し、それとともに灯籠の火袋(灯をともす空洞になった上の部分)が発見されます。これが「土蜘蛛灯籠」です。

蜘蛛塚00510
〈小さな祠のようなものに納められているのが、灯籠の火袋〉

それを貰い受けた人が、庭に飾っていたところ、たちまち家運が傾きました。これは土蜘蛛の祟りだとして人びとは恐れ、灯籠は東向観音に奉納されて今に至るのです。


東向観音05018
〈東向観音の外は、天神さんの縁日で賑わう北野天満宮の境内〉





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