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いちげんさん その1

2010年11月12日 00:46

いちげんさん デビット・ゾペティ 1996年

IMG_0004.jpg


物語は、流暢な日本語を話す留学生と、目の見えない女性との恋の話、です。
“外人”として好奇の目で人びとから見られる主人公の“僕”は、京都の街にとって「いちげんさん」のような存在でしかなく居心地が悪い。しかし盲目の女性・京子は、外国人として“僕”を見ず、ひとりの人間として接してくれていることに喜びを感じる・・・と。


正直、苦手な作品でした・・・。

「京子に最初に出会ったのは大学三年生の時だった。激しい霙が降り、ひどい二日酔いに悩まされた一月末の昼下がりだった」。
まず作品冒頭の“霙(みぞれ)”の一文字で、“文章の背伸び感”が鼻についちゃったのです。


作者・デビット・ゾペティ氏は1962年生まれのスイス人。ジュネーヴ大学日本語学科を中退して来日し、同志社大学文学部文化学科国文学専攻に編入。卒業後、テレビ朝日で働いていた1996年に本作『いちげんさん』で、第20回すばる文学賞を受賞。第116回芥川賞候補にもあがりました。

今出川04593
〈左(北)は同志社大学、右(南)は京都御苑〉

西欧人がネイティブでない日本語を使い、ここまでの文章を書くことには、ただ、ただ脱帽で、凄いと言わざるを得ないのですが・・・、
ところどころ、いや、かなりの部分にでてくる格言めいた言葉の数々や譬えも、自分の性にはまったく合いません・・・。

「うまいコーヒーの香りには世の中の問題を何でも解決できそうな不思議な説得力があるものだと僕は感心した。」
「川辺でバーベキューを楽しむ以外に意味を持つ営みが何ひとつとしてない日があるのと同じように、読書をしなければその日の存在意義が永久に失われてしまうような日もある。」
「ボブソンの苺アイスクリームにココナッツの粉をかけて食べるのが純粋に好きな人がいるのと同じように、読書が純粋に好きだった。」

ほんの一例ですが、ぜ~んぜん、おもしろくもなんともないんですよね(泣)。陳腐なこれらの文章がせっかくの独創的な物語を台無しにしちゃっているのです。

この作者は村上春樹の影響をかなり受けてるんじゃないでしょうか(まあ、村上作品が外国的という意見もありますが(笑))。
ただ、村上作品の特徴でもある格言は、村上春樹だからこそ嫌みなくしっくりくるのであって、“村上春樹風”に真似をし、作中に散りばめたところでわずらわしいだけなのです・・・。



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いちげんさん その2

2010年11月12日 00:48

作者自身を思わせる主人公の“僕”は京都の大学(大学名は明記されていませんが、作者の出身でもある同志社大学でしょう)に通う留学生。
ふとしたことから、盲目の若い女性・京子のため、対面朗読のボランティアをするようになる。
京子は東京の大学を卒業後、母親と二人で黒谷にある小さな民家に住んでいた。
“僕”と京子は文学の読み聞かせを通して、次第に心惹かれ、デートもするようになった。

吉田神社04569
〈「京子の家はK大学の後ろの小高い丘に位置する吉田神社の近くにあった」(本文より)〉

“僕”にとって京都は心落ち着く古めかしい風景や建造物があり、好きな街である。
しかし、“外人”である“僕”を、そこに住む人びとは不愉快な思いにさせてしまう。
「外人だ! ハロー、ハロー!」を連発する修学旅行生。日本語の新聞を読んでいると「オー・ユー・ジャパニーズ・カンジ・オッケー?」と話しかけてくるサラリーマン。日本語で注文しているにもかかわらず、片言の英語で聞き返してくる定食屋の店主。誰もが“僕”を“外人”として扱い、街の住民は疎ましい存在でしかない。「いちいち外人という名の道化師の役を演じさせられることにうんざりだ」と。

京子は他の人たちとは違った。目の見えない彼女にとって、外見などというものは存在しないのだから。「僕と京子の関係は最初から声、肉体、言葉、といったものを媒介にして始まった、僕らを結ぶのは言葉や体の触れ合いだった」。
そんな京子と一緒にいることが、異国、しかも特殊な京都という街に住む“僕”にとっては安らぎでもあったのだ。

円山公園 桜 007
〈「下宿は知恩院と円山公園の近くにあったが、円山公園の夜桜を見るのがとても好きだった」(本文より)〉

卒業論文の締め切りも気になりだした頃、“僕”はフランス国営テレビの通訳のアルバイトのため、数週間、京都を離れた。
アルバイトは大阪のヤクザの取材だった。組の人間は“僕”を“変な外人”扱いはしない。彼らにとって他人は“仲間”か“敵”か、ということしか区別を持たない存在だったからだ。
外人であることを常に意識させられる京都に比べれば、心安らぐ数週間だった。

京子が東京で就職することを決めた。「安楽椅子に心地好く座っているような今の生活は気楽で楽しいけどね、どこにも向かっていないの。目標というか、方向性のようなものはまったくないの。それは時々私をひどく不安な気持ちにさせるの」と。
「東京って、そんなに遠くないからいつでも会えるでしょう」と問いかける京子の言葉に、「そうだね」と曖昧に答えた“僕”であったが、卒業を機に、新たな心の風景を探す旅に出たいと日本を離れることを決意していた。



格言云々で、否定的なことを述べましたが、プロットや設定はホント独創的ではあるのです。
ただ、文中で主人公自らの口で語らせているように、主人公の“僕”は少々被害妄想の癖があります(京都はむしろ観光客の多さから言っても、他の都市より外国人には慣れているはずなんですよね・・・。しかも40年、50年以上も前の話ならともかく、物語はベルリンの壁が崩壊した1989年のことですよ)。
ほかにも、「ボヘミアンのように移動を繰り返すことが自分の本性であり、宿命みたいなものになっていた」“僕”が、その流れで京都にたどり着き、外人であることを常に意識させられる京都独特の雰囲気は息苦しい・・・と不満を垂らすってどういうこと?! と突っ込みどころも満載です。
まあ、主題や題名を浮き彫りにするためには致し方なかったのでしょうけれど、もう少し物語のブレを少なくして欲しかった。


印象的だったのは序盤で京子が煙草を吸うシーンかな。
レイモンド・カーヴァーの「大聖堂」を思い出しちゃいました。

「私はどこかで盲人は煙草を吸わないという記事を読んだことがあった。自分の吐き出す煙を見ることができないからではないか、というのがその理由だった。私はこと盲人に関してはそれだけは知っているつもりでいた。もっともそれ以上は何も知らなかったけれど。しかしこの盲人は短くなるまでたっぷりと煙草を吸い、吸い終わるとすぐ次のに火をつけた。」
(「大聖堂」レイモンド・カーヴァー・著、村上春樹・訳より)

やれやれ・・・。





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