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伊藤茂次詩集 ないしょ

2010年10月07日 00:01

伊藤茂次詩集 ないしょ 外村彰編 龜鳴屋

20101005162832381[1]


龜鳴屋は、西村賢太氏が編纂した『藤澤清造貧困小説集』も出している金沢の小さな出版社。
ホームページには、自営零細の書籍編集発行所となっていて、一般流通ではなく、ほぼ限定本の通信販売が主体のようです。

出版物を見てみると、藤澤清造、倉田啓明、伊藤人誉・・・まあ、ほとんど知らない人たちばかりですが、
どうやら人生の“インケツ”を引いてしまった哀れな作家たちに、もう一度光をあててあげよう、という心意気のある出版社みたいです。
“インケツ”人生・・・身につまされますね。

最新刊は・・・『したむきな人々-近代小説の落伍者たち-』外村彰・荒島浩雅・龜鳴屋編、・・・落伍者デスョ・・・。 



さて、『伊藤茂次詩集 ないしょ』(外村彰編)ですが、
手元にあるのは、平成19(2007)年3月に発行された限定333部の限定版です。現在は普及版も発売されているようです。

伊藤茂次は全く無名の詩人です。
大正14(1925)年に生まれ、平成元(1984)年に左京区一乗寺のアパートで孤独のうちに亡くなります。
巻末掲載の外山氏による「伊藤茂次伝 ―流れ者の酒詩人―」では、少年時代は養母とともに札幌市で育ち、20歳前半は市電の車掌をし、
ある日、ふいっと札幌に来ていた旅役者の一行に入り、北海道を去ったといいます。

その後、巡業劇団と分かれたのでしょうか、ひとり京都に流れ着きます。
太秦で松竹の大部屋俳優となり、その頃、結婚をしますが、昭和40(1965)年に妻をガンで亡くします。

詩作を始めるのは、妻を亡くす少し前からのようです。
きっかけは、15年ほどの役者人生に見切りをつけ、中京区御幸町にあった印刷会社・双林プリントへの入社でした。
社長・山前実治は同人詩誌『骨』のメンバーで、関西詩界のご意見番。そして社員には、後にH氏賞を受賞する大野新がいました。
門前の小僧の要領で、詩を作ることに目覚めたのです。
(当時高校生であった山前氏の息子が、テレビドラマ「天馬天平」の主役にオーディションで抜擢され、映画関係者が会社に顔を出すようになり、その縁で、伊藤が拾われてきたのだとか・・・)
昭和39年、伊藤は大野氏の所属する「近江詩人会」に入会し、その後、百作に及ぶ詩を発表しました。

しかし、実生活では、さんざんなダメ人間だったようです。
仕事の要領は悪く、妻を亡くした頃から酒におぼれ、年増の飲み屋のママに言い寄っては愛想を尽かされたり、アパートの自室に火をつけたり、知人に金の無心をして回ったり・・・、岩倉の精神病院に入退院を繰り返していました。

そして、拾われた双林プリントもいつしかクビになり、修学旅行生向けの安宿で住込みの雑役をしたり、ホテルの守衛で食いつなぎますが、ついには生活保護を受け天涯孤独のうちに亡くなりました。


201010051630223ae[1] 〈叡山電車 一乗寺駅〉



ないしょ


女房には僕といっしょになる前に男がいたのであるが
僕といっしょになってから
その男をないしょにした
僕にないしょで
ないしょの男とときどき逢っていた
ないしょの手紙なども来てないしょの所へもいっていた
僕はそのないしょにいらいらしたり
女房をなぐったりした

女房は病気で入院したら
医者は女房にないしょでガンだといった
僕はないしょで泣き
ないしょで覚悟を決めて
うろうろした

ないしょの男から電話だと
拡声器がいったので
女房も僕もびっくりした
来てもらったらいいというと
逢いたくないといい
あんたが主人だとはっきりいってことわってくれという
 のである
僕はもうそんなことはどうでもいいので
廊下を走った
「はじめまして女房がいろいろお世話になりましてもう
 駄目なんです逢ってやって下さい」
 と電話の声に頭を下げた
女房はあんたが主人だとはっきりいったかと聞きわたし
 が逢いたくないといったかと念を押しこれで安心した
 といやにはっきりいうのである
僕はぼんやりした気持で
女房の体をふいたりした




ダメ人間にはダメ人間にしか書けない、いい詩もあるものなのですねぇ・・・、だから文学や芸術ってのは、たちが悪いのです・・・。




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