黒髪

2020年09月18日 23:31

黒髪 著者・近松秋江 1922年


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『黒髪』は大正11(1922)年1月の「改造」に発表された、近松秋江の中編小説。

『黒髪』には三つの連作として、後に続く『狂乱』(大正11年4月「改造」)、『霜凍る宵』(大正11年5月「新小説」)があり、世間では情痴小説とも呼ばれています。

京都の遊女に惹かれて、年季明けには一緒になることを約束し、男は東京から手紙や送金を繰り返すが、遊女からの返信も滞り、疑心暗鬼になって、身を隠した女の居場所を探して回るというのが『黒髪』三連作の内容。主人公の行動は、近松秋江の実体験でもあるのです。


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厳冬のさなかに、安井金毘羅宮の近くに移り住んだ女の家をうろつきまわる中年男。今で言えば、ストーカー小説ということにもなるのでしょう。
ただ、花街の処世術も知らずに女に本気で入れ揚げた男が、やすやすと手玉に取られる姿は、可笑しさ、悲しさ、もどかしさとなって作中に漂い、主人公がいかんとも憎めないのです。なんせ、花街に住む京女の裏の顔や花街の闇を、裏の顔とも闇とも思わない、純真な男の愚痴話が綴られているのですから。

私は、その女を自分のものにしなければ、何も欲しくないと思っていたのであった。名誉も財宝もいらぬ、ただ、あの、漆のように真黒い、大きな沈んだ瞳、おとなしそうな顔、白沙青松のごとき、ばらりとした眉毛、ふっくりと張った鬢の毛、すらりとした容姿。あらゆる、自分の心を引き着ける、そんな美しい部分を綜合的に持っている生き物を自分の所有にしてしまわなければ、身も世もありはせぬ。

《『黒髪』》

② 18953309_1042373619231201_8249464638566162037_o

はじめて彼女を知ったのが五年前のちょうど今の時分で、爽やかな初夏の風が柳の新緑を吹いている加茂川ぞいの二階座敷に、幾日もいくかも彼女を傍に置いて時の経つのを惜しんでいた。座敷から見渡すと向うの河原の芝生が真青に萌え出でて、そちらにも小褄などをとった美しい女たちが笑い興じている声が、花やかに聞えてきたりした。

《『黒髪』》


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私は、心に勇みがついて、その足ですぐ金毘羅様の境内を北から南に突き抜けて、絵馬堂に沿うたそこの横町を、少し往ってさらに石畳みにした小綺麗な路次の中に入って行ってみると、俥屋の女房は小さい家だと教えたが、三、四軒並んだ二階建ての家のほかには、なるほど三軒つづきの、小さい平家があるけれど、入口の名札に藤村という女の姓も名も出ていない。それでまた引き返してもう一度俥屋にいってもっと委しく訊くと、その三軒の平家の中央の家がそれだという。

《『狂乱』》

ようやく安井金毘羅宮の近くに、母と娘が住んでいる平屋を探し求めて突き止めた主人公。

何とか家の中を窺いて見る方法はないかと思って、硝子戸を仰いで見ると、下の方は磨き硝子になっているが上の方は普通の硝子になっているので、路次の中に闇にまぎれて、人の通るのを恐る恐るそこらに足を踏み掛けてそっと連子格子に取りついて身を伸び上って内を窺くと、表の四畳半と中の茶の間と両用の小さい電燈を茶の間の方に引っ張っていって、その下の長火鉢によりかかりながら彼女が独りきりでいつかの絽刺しをしているのが見える。

《『霜凍る宵』》

恥も外聞も忘れ、母娘が住む家の中を覗き見る、中年男。


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近松秋江(1876-1944)は明治43(1910)年4月、「早稲田文学」に掲載された『別れたる妻に送る手紙』で一躍、作家としての地位を手に入れました。

細々と書く原稿や翻訳では生活できず、素人下宿を始めたものの、妻が17歳年下の学生だった下宿人と駆け落ちし、妻への恋情を書簡体小説の形で綴ったのが『別れたる妻に送る手紙』でした。
この一連の出来事を描いた作品としては、『雪の日』、『執着』、『愛着の名残り』、『うつり香』などがあり、これらもまた自らの体験をもとにした私小説なのです。


近松秋江の実生活では、明治42(1909)年8月に内妻の大貫ますが失踪。妻の足跡を追って日光にまで足を運び、旅館をしらみつぶしに探し回るほどの執念を見せるのですが、その余韻も冷めた大正4(1915)年3月、京都の遊女・金山太夫(前田志う)と出会います。
この遊女こそが『黒髪』のヒロインで、出会って3年後の大正7(1918)年には彼女も行方をくらまし、またもや近松秋江の追走劇が始まるのです。

大正4(1915)年2月から7月にかけて、近松秋江は友人の長田幹彦と一緒に京都に滞在していました。その時に知り合ったのが金山太夫こと、前田志う。
「祇園小唄」の作詞家としても知られる長田幹彦は、小説『祇園』『鴨川情話』『祇園情話』など、花街の情緒や舞妓の生活を描く「祇園もの」でも人気を博していました。
祇園の太夫の生活や風俗を知るために呼んだのが金山太夫で、そこに近松秋江も同席していたのです。


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平成9(1997)年に講談社文芸文庫から出た『黒髪・別れたる妻に送る手紙』の末尾には、近松秋江の次女・徳田道子さんが「著者に代わって読者へ 或る男の変身」と題して、父親の思い出を以下のように語っています。

書いた本人自身が顔をおおいたくなるような小説。後日母に「あたしなどは人間の屑だ」と言っていたそうだ。その筈である。振られた男の愚痴話を臆面もなく世間に発表したのだから。私が作品の解説をする必要もないが、父が銭湯代までも倹約した大好きな入浴もがまんして、せっせと京都の遊女に送金し、彼女はそれを他の愛する男に貢いでいたのである。


なお、連作『黒髪』の出来事の後、近松秋江は片頭痛に苦しみ、その治療にあたったマッサージ師の猪瀬イチと、『黒髪』三連作の発表を終えた大正11(1922)年6月に47歳で結婚。その翌年に長女が、さらに翌年に次女が誕生しました。

晩年は緑内障で失明し、口述筆記をするのがやっとだったとか。次女の道子さんは「かつて痴態、痴愚を繰り返した同一人物とはとても思えない良き家庭人となった」とも記しています。





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