五番町

2020年09月17日 09:27

五番町


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五番町は江戸中期に発生した遊郭で、「北新地」や「西陣新地」とも呼ばれていました。

六軒町通仁和寺街道を中心とする五番町、四番町、利生町、白竹町、さらに一番町、三軒町を含んだ区域が色街としての五番町にあたります。
1900年代初頭には100軒を超える貸座敷と400人を超える娼妓を誇り、昭和33(1958)年に赤線が廃止になるまで、京都を代表する遊廓の一つでした。

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天正年間、聚楽第を造営するにあたり、豊臣秀吉が組屋敷を一番から七番まで設けたのが、地名の由来。
享保年間には、北野神社や愛宕詣での客を対象として茶屋ができたことに始まり、後に西陣の職工などの遊散所に。
当時の京都所司代が花街として発展することに危機を感じて何度も取り締まったものの、結局は近くの花街である上七軒の管下として営業を許可しました。

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太平洋戦争前までは、大店の「奥村楼」「三福楼」には芸妓も存在し、芸妓と娼妓が混在する町だったものが、戦後は娼妓のみの色町となり、売春防止法によって当時のお茶屋93軒、娼妓210人は転業を余儀なくされました。


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五番町の名を全国区にしたのは、水上勉の小説『五番町夕霧楼』(1962年)や『金閣炎上』(1979年)、三島由紀夫の『金閣寺』(1956年)です。

昭和25(1950)年7月2日未明に起こった金閣寺放火事件では、同寺の修行僧で大谷大学学生だった21歳の林養賢(法名は承賢)が逮捕されます。
この青年が放火の一週間ほど前に、五番町へ登楼して、妓に「もうすぐ大変なことをやってみせるぞ」と予告していたことが新聞記事になるなど、センセーショナルに報じられたのでした。

この一大事件をめぐっては、三島由紀夫や水上勉の小説のほか、三島の『金閣寺』を原作にして市川崑監督の『炎上』(1958年、大映京都)、高林陽一監督の『金閣寺』(1976年、ATG)が製作されました。
一方、水上の同名小説をモチーフに田坂具隆監督の『五番町夕霧楼』(1963年、東映)、山根成之監督の『五番町夕霧楼』(1980年、松竹)が作られました。


六月十八日の晩、私は金を懐にして、寺を忍び出て、通例五番町と呼ばれる北新地へ行った。そこが安くて、寺の小僧などにも親切にしてくれるということは聞き知っていた。五番町は鹿苑寺から、歩いても三四十分の距離である。(中略)
私はたしかに生きるために金閣を焼こうとしているのだが、私のしていることは死の準備に似ていた。自殺を決意した童貞の男が、その前に廓へ行くように、私も廓へ行くのである。

《三島由紀夫『金閣寺』》


五番町は、京都人には「ゴバンチョ」と少し早口で呼ばれる語調をもった、古い色街である。
詳述しておくと、西陣京極のある千本中立売から、西へ約一丁ばかり市電通りを北野天神に向って入った地点から南へ下る、三間幅ほどしかない通りである。この通りは丸太町まで千本と並行してのびているが、南北に通じるこの通りを中心にして、東西に入りこむ通りを含めて、凡そ二百軒からなる家々は軒なみ妓楼だった。

《水上勉『五番町夕霧楼』》


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《主演の市川雷蔵が歩く五番町 市川崑監督の『炎上』(1958年、大映京都)》

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《繁華街としてにぎわっていた千本通 田坂具隆監督『五番町夕霧楼』(1963年、東映)》


水上勉は大正8(1919)年に福井の寒村に生まれ、貧困もあって9歳の時に京都の伯父の元に送られ、10歳で相国寺塔頭の瑞春院の小僧となりました。その後、13歳で出奔して等持院に移り、花園中学を卒業する18歳でまたもや脱走して、還俗。立命館大学の夜学に入学したのち、30種以上の職を転々とし、作家として身を立てるのです。

水上勉にとって五番町は、等持院の小僧時代に初めて女性を経験した場所として、終生、忘れられない地名であったことは、『私版 京都図絵』(1980年、作品社)の文章からもわかります。

この町に馴染むようになったのは、十八、九歳からで、恥ついでにいえば、まだ衣笠山等持院に修行中の頃だった。禅寺の小僧が、遊廓とかかわるといえば、ひんしゅくされねばならぬが、私はそういう不良学生であり、破戒僧でもあったわけだから、それをいま、かかわりながなかったというわけにはゆかないのである。私だけではなかったろう。京の禅僧で小僧時代あるいは雲水時代をおくった人の中で、私のように、ひそかに五番町に馴染んだ日のことを遠い暦の根にかくして、買った妓の肌のぬくもりを抱いておられる方はあるはずである。

《水上勉『私版 京都図絵』五番町遊廓付近》



三島由紀夫の『金閣寺』が放火犯の青年僧の金閣なる完全美に対する憧憬と嫉妬といった、青年の内面を主軸に芸術的に物語を作ったのに対し、五番町に足しげく通い、なじみの娼妓が下宿に訪問してくるほどに、この色街を知り尽くした水上勉の『五番町夕霧楼』が、自らや友人の経験をもとに娼妓を中心にして物語を紡いだのは必然でした。
さらに水上勉が、放火犯・林養賢の足跡を精緻に取材し、林や、事件後に投身自殺を図った林の母への鎮魂歌ともいうべき『金閣炎上』を書かざるをえなかったことも、小僧時代を京都で過ごし、彼に少なからずのシンパシーを感じていた水上にとっては必定でした。

私には、林養賢君が金閣寺を焼く内面もあらかた想像できたし、五番町へ通っていたときくと、いずれも、小僧はみな五番町で修行していたのだな、という思いがした。小説の構想がうかんで、実在した遊女の名を「夕子」とあらため、私がよくいった妓楼を「夕霧楼」などと勝手に名をかえて、書いてみたのだった。

《水上勉『私版 京都図絵』五番町遊廓付近》

人間は戒律生活がきびしければきびしいほど破戒を夢みるのである。このような兄弟子を見て、自然と私も感化され、成人したら、必ず五番町へ行ってみたい、という夢が芽生えた。その夢を果たしたのは、十八歳の時で、中学を卒業する年まわりだった。いまでもおぼえているのが、中立売を、千本から西へ入ったひと筋目を降りてくると、右側が寺の墓地の見える土塀になっていて、軒のひくい二階家の妓楼が片側にならんでいた。その中ほどの店で、二階の窓が、とりわけひくく、よごれたガラス障子のはまった楼だった。

《水上勉『私版 京都図絵』五番町遊廓付近》


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《亡くなって身寄りのない遊女を境内に投げ込んだことから「投げ込み寺」とも呼ばれた報土寺》

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《報土寺の墓地の見える土塀》


『私版 京都図絵』の執筆当時、「今日も、往時の町家はのこっていて、散策しても昔とまったく変わらぬ四、五の妓楼の建物があるので、私には懐かしい」と水上勉は振り返っていましたが、今ではほとんどその面影はありません。


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