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虚構大学 その1

2013年05月26日 21:33

虚構大学 著者・清水一行 1979年

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「はじめのうち、それは計画……と呼べるような代物では、すくなくともなかった。」(本文冒頭より)

神官の養成を行う伊勢大学の講師兼課長だった深間芳樹と大隈武雄は、学生運動で混乱する文教界を憂い、日の丸を押し立てた大学づくりを夢想する。そこで協力を求められたのが、大隈と知己だった40歳前の千田孝志。千田は、鳥取県倉吉市内にある私立東伯高校の理事長を務めていた。

伊勢に呼び出された千田は、深間から「国公立大学のなかで、もっとも教育が乱れているのが京大だ。学生だけではなく、教職員までが一緒になって赤い旗を押し立てている。だから京都に正統な大学をつくらなければならないんです。京都は日本人の心の故郷でもありますからね」と“自由経済大学”の建設計画を打ち明けられる。

公認会計士だった千田は、最初の妻との離婚ですべての仕事を投げ出し郷里・福岡を出て、新しい妻・友子の生まれ故郷・倉吉で6年前に東伯学園の新設を成し遂げていた。大隈は千田の実務家としての手腕を買ったのだ。

当時、大学の多かった京都では、新左翼系の学生運動が盛んな大学か、宗教関係のひもつきの大学ばかり。そこで「民族意識を貫き、赤い旗を拒否する大学」「公正中庸を貫く綜合大学」が必要と、千田に協力を請う。

しかし、大学の設置場所、規模、学長はもとより、資金計画すらない雲を掴むような夢物語。

次第に設立予定大学の基本構想と、具体的な計画がまとめられ、学長候補者には右寄りの憲法学者・矢吹崇文博士を迎えようとするが、新大学の開設は、矢吹博士が勤める京都大学の定年退官前で、招聘は頓挫。

そこで代わりに“お雇い学長”として白羽の矢が立ったのが、元京大理学部教授で宇宙物理学者の天野恒道。

初対面で豪華絢爛な人脈を披露し、二億や三億の金はとるに足らないと豪語した天野だったが、発起人集めや資金調達に大言壮語の天野の人脈をあてにするも、全く計画ははかどらない。

大学の建設用地の確保や資金調達が思うように進まない中、次第に当初の呼びかけ人だった深間と大隈は計画から離れる。

最初は「協力してくれるだけでいい」と言われ、しぶしぶ付き合わされていた千田だったが、この酒乱で、魁偉で、自我意識の強い老宇宙物理学者に振り回され、しかも天野の知人からは、「いかがわしい“学校屋”」と蔑まれ、計画から手を引こうとする。

しかし「断念しないでもらいたい。(中略)ぼくの妻は恩師の娘で、その恩師は京大の総長までつとめた人なんでね。これでもし計画が潰れてしまったら、ぼくの人生で遂にただの一度も、妻には頭が上がらず、尊敬をかち得なかったことになってしまう。(中略)なんとかぼくを学長にしてもらいたい」と天野は千田の翻意を懇願し、倉吉まで訪れた天野の熱意に負け、千田自身も男の意地として大学を作り上げることに奔走する・・・。



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虚構大学 その2

2013年05月26日 21:33

昭和37(1962)年4月、深間と大隈が千田に打ち明けた夢物語から、3年後の昭和40(1965)年4月、経済学部と理学部からなる“自由経済大学”が京都上賀茂に開校し、物語は終わります。

そう、“自由経済大学”のモデルは、京都産業大学。

主人公・千田孝志は、昭和44(1969)年2月から2年間、理事長を務めた小野良介がモデルで、“お雇い学長”天野恒道のモデルは荒木俊馬です。

京都産業大学は開学2年後には経営・法・外国語の3学部を新設。名実ともに綜合大学となり、いまや9学部9研究科、学生数13,000を擁するマンモス大学となっています。


あくまで『虚構大学』はフィクションです。フィクションですが・・・

すべて政治がらみの教育事業で、その間隙に暗躍するのが、市町村から県議会、国政までをも含めた文教族議員。千田は国有林の払下げ申請をするため妻を郷里・倉吉に残し、東京と京都を奔走し、

建設会社に資金が全くないことを悟られないため、ハッタリをかまし、

文部省へ提出する設立資金の寄付申込書のため、架空の申込書を作成して、銀行にはドレッシング預金と呼ばれる粉飾決済を願い、

当時、革新陣営だった京都府政からは、たびたび校地の工事中止を迫られ、

大学開設の目途が立つと、手のひらを返したように地位や名誉を求める輩がすり寄ってきて、

大学ができるのは、自分の功績だと吹聴する紛らわしい人物が割り込んで来たり、

・・・それでも大学づくりに、ひとり邁進する千田の姿がかっこいい。


この計画で幸いだったのが、学園紛争に辟易していた市民からも少なからず“中庸を貫く大学”の需要があったこと。また団塊の世代が大量に卒業し、大学の選択に苦しんでいた高校が、独自に新設の大学計画をしていたことも、大学建設の後押しになりました。
小説中では、東山区の私立・洛東高校の校長が設立趣意書に共感し、「高校が推薦する進学希望生徒は、全員入学を許可していただきたい」との条件で多額の準備資金の醵出が決定され、大学づくりが本格的に動き始めます。
この洛東高校のモデルが東山高校で、実際、開学当初は京産大が多くの学生を受け入れることになったのでした。


『虚構大学』では魁偉で、酒癖が悪く、見栄張りで、わがままな奇人として描かれている天野学長。
そのモデルとなった荒木学長が亡くなったのが1978年。亡くなった翌年に『虚構大学』が出版されているのが、なんとも意味深長ですね。


大学史では
『京都産業大学創立に着手したのは昭和37年秋以降のことである。全く私ただひとりで走り回って運動していたので、非常に忙しく寝食を忘れるほどであったので38年3月まで全然、日誌もメモもつけていない。以下は、妻京子の備忘録をたよりに後年、つくりあげたものである』と昭和 49(1974)年6月の俊馬日記にある。大学ができ、順調に運営され基礎の固まった時点での懐旧談として、大学づくりの苦闘が語られている。
と、“世界的な宇宙物理学者”としての荒木学長の大学開設への功績がつらつらと述べられ、同大学のホームページには、“学祖”荒木俊馬についての紹介がふんだんに盛り込まれています(その扱いは、かの国の指導者や、かの宗教の名誉会長のようで・・・)。

この『虚構大学』の内容すべてが正しいとは思いませんが・・・国も学校も、正統な歴史はこのようにして築かれるのだなと、『虚構大学』の内容と大学ホームページとの対比で思わしてくれる一冊でした。


京都産業大学さん、開学に尽力した小野良介理事長ももう少し顕彰してあげてくださいナ(笑)。




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