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五番町夕霧楼 その1

2010年10月03日 22:56

五番町夕霧楼 水上勉 1962年

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金閣寺放火事件が起こったのは、1950年7月2日未明。鹿苑寺の舎利殿である金閣が全焼し、足利義満の木像、阿弥陀如来像、観音菩薩像など計6点の文化財が消失しました。
放火したのは同寺の修行僧で大谷大学学生だった林養賢(法名は承賢)、21歳。左大文字の山中でカルモチンを飲み切腹自殺を試みますが、一命は取りとめ、逮捕されます。


この一大事件を巡ってはいくつかの小説、映画がつくられました。

小説では、三島由紀夫の『金閣寺』(1956年)と、水上勉の『五番町夕霧楼』(1962年)。
そして映画では三島作品をモチーフに、市川崑監督の『炎上』(1958年、大映京都)と、高林陽一監督の『金閣寺』(1976年、ATG)。
水上作品からは、田坂具隆監督の『五番町夕霧楼』(1963年、東映)と、山根成之監督の『五番町夕霧楼』(1980年、松竹)。
さらに水上勉はノンフィクション的小説『金閣炎上』(1979年)も書いています。

20101003211609324[1] 〈三島由紀夫『金閣寺』〉


三島由紀夫の『金閣寺』、水上勉の『五番町夕霧楼』、『金閣炎上』。この3作品は同じ事件に題材を取っていても、主眼は明らかに異なります。

『金閣寺』は、三島特有の冷徹な筆(様式美にこだわった描き方ですね)で、芸術性を指向した作品。
実際の事件を題材に、主人公の足跡も大きく崩さないという約束事は保ちつつも、あとは金閣寺のもつ「美の象徴」と主人公の吃音に代表される「コンプレックス」が事件の遠因だったということにして、三島由紀夫の明晰な頭脳にかかれば一つの芸術が、はいっ出来上がり、という作品です(いや、もちろん凄いのですよっ)。

一方、『五番町夕霧楼』は、放火事件と水上勉の京都時代の実体験とを綯い交ぜながら描かれたフィクションです。
林養賢と同じく学僧経験があり、林が通った遊郭・五番町に同じく通ったことのある水上勉だからこそ書くことの出来た作品だったと言えるでしょう。
あくまで物語の最後は寺の炎上に収斂させますが、題名にあるように田舎から出てきた遊郭での芸妓の生活と淡い恋物語。その恋の相手が、同じ丹後半島出身で幼馴染みの学僧だったというわけです。

2010100321160862c[1] 〈水上勉『金閣炎上』〉

そして、『金閣炎上』は、林養賢と少なからぬ縁のある水上(歳は10ほど離れていますが、故郷は近くの寒村同士で、ともに相国寺派で修行をし、一度きりですが、水上と林はあったこともあります)が、緻密に林の周辺を取材し、放火の動機に迫ろうとした作品です。
林の母親は事件当日、京都府大江山麓から息子への面会に赴くも、林から会うことを拒否され、失意の内に帰途につく列車の中から保津峡に飛び込んで自殺してしまいます。
また懲役7年の刑を言い渡された林は、服役中に結核と統合失調症が進行し、出所を待つことなく病死しました。
『金閣炎上』は、同じ仏門で生き、学び、苦しんだ者としての水上が、林とその母に捧げた鎮魂歌でもあるのです。




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五番町夕霧楼 その2

2010年10月03日 23:05

夕霧楼の女将・かつ枝は、単身で故郷の与謝半島(丹後半島)に疎開していた旦那・酒前伊作の最期を看取り、葬式を済ませて京都に帰ってきた。
そのとき一緒に連れてきたのが、19歳の片桐夕子だった。
病身の母、甲斐性のない気弱な木樵の父、そして幼い3人の妹のために自ら覚悟して遊郭に来たのだ。

夕子はすぐに、西陣の織物問屋で羽振りのよい60歳過ぎの竹末甚造に気に入られ、当時のサラリーマンの月給5ヵ月分に相当する2万円で水揚げされる。
不幸な境遇の夕子に、女将のかつ枝は実の子のように優しく接してやり、
また夕子の素直でおとなしい性格もあって、他の8人の先輩芸妓からも温かく見守られ、一人前の娼妓へと成長していく。

妻を亡くし、長男夫婦と離れ、一人で暮らしていた竹末は、夕子を妾にほしいとかつ枝に申し出るが、夕子の幸せを思うとかつ枝は気乗りではない。
そんな中、初めて夕子は一人で町へ散歩に出かけた。
その日を境に、吃音の学生が夕子の客としてやって来るようになる。陰気で挨拶もろくにしない若者だったが、目が澄んでいるのが印象的だった。

DSC04700[1] 〈現在の五番町〉

ある日、竹末と櫟田正順というその若い学生が偶然、夕霧楼で居合わせてしまう。
その後、竹末は春の展示会の会場となっていた燈全寺(モデルは相国寺)で、修行僧の櫟田を見かける。
懺法会の回向の稽古の為に、本来の修行の場であった鳳閣寺(モデルは金閣寺)から本山に来ていたのだった。
すぐに夕霧楼のかつ枝に竹末は耳打ちする。「あの学生は鳳閣寺の小僧やでェ」と。
かつ枝は思い当たることがあった。夕子が京都に来た日、葉書を書いていた中に鳳閣寺の櫟田宛の葉書があったことを。

夕子を心配したかつ枝は、櫟田が鳳閣寺の僧であることを夕子に問いただす。
学生僧が十日と空けず廓に通うことが出来るというのが不思議で、もしや夕子が櫟田の為に花代を立て替えているのではとの疑念を抱いたのだ。

夕子は観念し、説明する。櫟田はかつ枝の旦那・酒前の葬儀をした浄昌寺の子どもで、夕子とは幼馴染みであることを。
和尚である櫟田の父親は実の父ではなく、母の連れ子として寺に入ったこと。そして小さい頃から吃音を人にバカにされ、京都の寺に修行に来てからも仲間からいじめられ、「坊さんになりたくない」と、夕子に打ち明けているという。出生にまつわる暗い屈辱に耐え、生きてきた若者だった。

同じような不幸な境遇から櫟田に惹かれた夕子を理解できなくもないが、かつ枝は櫟田との付き合いを改めるよう言いくるめる。
廓で稼いだ金をその若者に貢いでいる夕子をいっそう哀れに感じた。

櫟田と夕子の関係にかつ枝が気をもんでいる時、竹末が櫟田の情報を仕入れてきた。それは夕子が言っていたことを裏付ける話だった。
そして、「宗務所の坊さんにいうたった。あの櫟田は、十日にいっぺんほど、五番町へゆきよって、夕霧の妓ォにうつつをぬかしとる。そんなことが世間にしれたら、鳳閣さんも、評判おとしまっせいうたった」と竹末は告げ口したというのである。
それ以来、櫟田が夕霧楼に姿を現すことはなかった。

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〈当時の面影を微かに残すT字路〉

突然、夕子が喀血をした。母親と同じように肺病を病んでいたのだ。
かつ枝が竹末に「一度会いに来てくれ」との電話をしても、商売に忙しいのか、つれない返事だった。所詮、竹末も夕子にとっては赤の他人だと、かつ枝は痛感し、夕子を不憫に思った。

ずっと部屋で養生していた夕子だったが、肺外科の権威がいる病院に入院する。大事にいたる前に、疾患部の根絶をはかった方が良いとのかつ枝の親心だった。
そして、かつ枝は櫟田に夕子の入院のことを知らせようと鳳閣寺に向かう。竹末の告げ口によって老師から叱られ謹慎の身である櫟田に。
櫟田は夕霧楼に来て夕子と会っている時だけが、昔、兄妹のように夕子と寺の百日紅の木に登って遊んだ楽しく明るかった頃に戻れたのだ。それは夕子にとっても同じことだった。

鳳閣寺で、かつ枝は櫟田から夕子に言付かった。「もうすんだ、安心せい」という言葉を。そう言ったきり、櫟田はかつ枝の元から走り去った。
かつ枝が鳳閣寺を訪れたその日の深夜、鳳閣寺が炎上した。その燃える様子を、五条の病院の一室から夕子も見ていた。

ひと月後、櫟田は留置所で自殺を図り、死亡した。その死亡記事の出た日、「町へ涼みに行く」といったまま夕子は病院から失踪する。
夕子の死骸が見つかったのは故郷、浄昌寺の裏にある墓地の百日紅の根元だった。




五番町夕霧楼 その3

2010年10月03日 23:12

花街の物語、とくに遊郭となると、とかく同僚同士の陰湿なイジメや、経営者の過酷な搾取のイメージがつきまといがちです。
しかし、この『五番町夕霧楼』に、従来抱く遊郭特有の暗さはありません。敢えて言うなら、登場人物の生まれもっての業の暗さといったものでしょうか。
むしろ女将であるかつ枝の、芸妓たちを思いやる優しい気持ちが、彼女たちの置かれた立場をさらに切なく読者に感じさせてしまうのです。

水上勉が初めて五番町に足を踏み入れたのは17歳の頃。まだ等持院での小僧時代でした。
それから京都を離れる21歳まで、何度となく通い、「千鶴子」という馴染みの芸妓もいたといいます。
「青春のすべてを五番町に埋めた」というくらいに思い入れの深い場所だったようです。

「西陣京極のある千本中立売から、西へ約一丁ばかり市電通りを北野天神に向かって入った地点から南へ下る、三間幅ほどしかない通りである。この通りは丸太町まで千本と並行してのびているが、南北に通じるこの通りを中心にして、東西に入りこむ通りを含めて、凡そ二百軒からなる家々は軒なみ妓楼だった」(『五番町夕霧楼』本文より)

DSC04756[1] 〈現在の夜の市電通り〉

そんな小さな遊郭の五番町へ、放火犯である林養賢が、放火の一週間ほど前に登楼し、娼妓に「もうすぐ大変なことをやってみせるぞ」と漏らしていたことが、この物語を生むきっかけともなったようです。



売春防止法が施行されて赤線が廃止されたのは、1958年(昭和33年)。
今の五番町には昔日の面影はまるでありません・・・。
ただ、引き取り手のない遊女の亡骸を葬った「投げ込み寺」と呼ばれた報土寺が、住宅街となりマンションの建つ町なかに、今もひっそりと残っています。

DSC04727[1] 〈「投げ込み寺」と呼ばれた報土寺の塀〉

事件当時の西陣は、『五番町夕霧楼』の登場人物・竹末甚造ら「糸ヘン景気で闇金をにぎった特権階級」に代表されるように、未曾有の好景気に沸いていました。
その活況ぶりは町を見ても明らかで、西陣、とくに千本通り一帯(北は今出川通から上長者町通にかけた長さ約700mの西陣千本商店街付近)は、新京極と並ぶ歓楽街として人の波で溢れていたのです。
最盛期には20軒ほどの映画館があったともいわれていますが、現在は成人映画専門の映画館がわずか一軒残るのみとなっています。

かつて五番町の検番があった場所に建つ「千本日活」。

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映画館のホームページによると、1964年の『愛と死をみつめて』(主演・吉永小百合、監督・斉藤武市)が入場者数の最高記録だったそうです。
いまだにポルノ映画を放映している時代遅れの映画館ですが、ちょうど土曜日だということもあり、近隣のオッチャンたちが自転車で乗り付けて入っていく姿が、思いの外、目につきました。

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かつての色町に、その爪痕のようにひっそりと残っているポルノ映画館。すっごく哀愁を感じますね。
少しでも長く、続けていってほしいものです。


すっぽん鍋で有名な「大市」。こちらは五番町を少し南へと行った六番町にあります。目と鼻の先の距離です。

DSC04717[1]


五番町から千本中立売の交差点を挟んで北東にある「西陣京極」。昔はこの中にも何軒かの映画館がありましたが、今は飲み屋と一軒の銭湯が営業しているだけです。すこし猥雑な路地の雰囲気がいい味を醸し出していますが、あまり人は通っていません。

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あ、そうそう、井筒八ッ橋本舗の生八ッ橋「夕子」っていうのは、五番町夕霧楼の「片桐夕子」から名付けたそうですよ。昭和49年から発売されている息の長い銘菓ですが、ちゃんと水上勉の許諾も取ってあるんですって。




雁の寺 その1

2010年10月29日 00:12

雁の寺 水上勉 1961年


水上勉は1919(大正8)年、若狭に生まれます。四男一女の次男坊で、口減らしのため、京都にある相国寺の塔頭・瑞春院に入れられたのが1930(昭和5)年、10歳の時でした。1年後には得度し、僧名は大猶集英となります。

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〈瑞春院。“水上文学名作の舞台”の看板が・・・〉

水上が弟子入りしたのは山盛松庵という住職のもと。この住職には多津子という女性と、生まれたばかりの赤ん坊がいました。
それまで、禅宗の坊主というものは墨染めの衣に一汁一菜の粗食で、妻帯も許されないものだと思っていた水上少年にとっては、住職の生活は少なからず衝撃的だったようです。
小学校は寺と目と鼻の先の室町小学校に通いますが、朝の五時に起床し、掃除、飯炊き、そして授業を終え帰った後も赤ん坊を背負って庭の草取りという毎日。おむつ洗いも日課だったとか・・・。
かたや住職夫婦は芝居を観たり映画を観たりという、遊興三昧・・・(笑)。
偽りの仏門生活を目の当たりにして、子ども心に反感と失望を覚えるのは無理もありませんね。

そんな水上少年を支えたのが、瑞春院の仏間にあった“孔雀”の襖絵だったのです(そう、雁ではなく、孔雀だったのです)。
仲睦まじい孔雀の母子絵に若狭にいる母を思い、涙したといいます。

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〈相国寺の西門。瑞春院はこの門を入ってすぐ左。右は同志社大学〉

その後、紫野中学校(現在の紫野高校ですが、当時は禅門立の学校で、禅僧になる徒弟の通う学校でした)へと進学しますが、住職に中学の制服も買ってもらえず、ひとり小学校時代の半ズボンで登校していたのだとか。
学校をさぼり、近くの船岡山で弁当を食って時間をつぶしたことも一度や二度ではなかったはずです。
耐えきれず、何度か八条坊城の叔父の家に逃げ込みますが、そのたびに諭され、寺に戻ります。が、13歳の時、本気で瑞春院を飛び出します。

結局、その後は同じ相国寺塔頭の玉龍院に一旦預けられ、さらに衣笠山の麓の等持院(相国寺と同じ臨済宗ですが、等持院は天龍寺派です)へ移り、僧名も承弁と改め、花園中学3年に編入しました。
ちなみに、玉龍院は瑞春院の法類にあたり、辛い目に遭っていた水上少年をいつも不憫に思っていた坂根良谷住職が匿ってくれ、瑞春院の山盛住職とは違い優しかったそうです。

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〈相国寺の山内。中には12の塔頭がある〉



雁の寺 その2

2010年10月29日 00:19

さて、「雁の寺」です。
が、久しぶりに読んでみて、はて、こんな小説だったかな? と思っちゃいました。殺人の場面がもっと凄惨な作品だったように記憶していたのです。

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水上勉の心の支えでもあった“孔雀”の襖絵と、辛い修行生活が作品の底辺に漂う鬱々とした物語です。



舞台は、相国寺の塔頭・・・ではなく、衣笠山の麓にある灯全寺派の孤峯庵。京都画壇の重鎮・岸本南嶽の描いた襖絵があったことから雁の寺ともよばれていた。
孤峯庵の檀家総代でもあった南嶽が亡くなり、その妾であった桐原里子が孤峯庵の住職・北見慈海のもとを訪れる。
南嶽は自分が死んだ後の里子のことが気に掛かり、慈海に里子の面倒を託していたのだった。
里子は32歳。小柄でぽっちゃりとしていて、胴のくびれた男好きのするタイプ。かなりの美貌であった。
50歳を過ぎても独身を通していた慈海だったが、南嶽を交え3人で酒を飲んでいた時から、里子とは妙に性があった。
南嶽の死を機に、里子は庫裡の奥に住むようになる。そして慈海は昼夜を問わず里子を求めた。
雲水時代から独身を通してきた慈海がためていたものを噴出するように。

里子には馴染めないものがあった。それが寺の小僧である13歳の慈念であった。
慈念は若狭の貧しい寺大工の倅として育ち、口減らしのため寺に預けられ、宗門の中学校へ通っていた。
学校の成績はよいが、頭が大きく、体が小さく、外見がいびつで・・・。何よりも見た目の陰気さを、里子は嫌悪し気味悪がった。

里子は、ある日、慈念を寺に紹介した若狭の住職から、慈念の出生の秘密を知る。
慈念の本名は捨吉といい、乞食女の子で、その子を貧しい大工夫婦が引き取り育てられたということを。
自分の境遇よりも惨い慈念に同情を寄せた里子。
今まで忌み嫌っていた慈念の大きな頭や、引っ込んだ眼、白眼をむいた目つきさえ、哀れでいとおしく思えた。
慈念の境遇を知った夜、里子は慈念の部屋を訪れ、羽交い締めに抱きしめた。「なんでもあげる。うちのものなんでもあげる」と。
慈念は力を入れて里子を押し倒した。

慈海が法類の源光寺に碁を打ちに出かけたきり、帰ってこない。慈念が源光寺へと使いに走るが、最近はずっと来ていないという。
そんな中、檀家である久間平吉の兄・平三郎の葬儀が迫っていた。が、慈海の行方は知れないまま・・・。
仕方なく、慈海不在のまま孤峯庵の本堂では、源光寺の宇田雪州や法類の采配でつつがなく葬儀が執り行われた。
しかし、慈海の不在が本山にばれれば一大事である。
葬儀で集まった法類たちが慈念に詳しく話を聞くと「和尚さんは寺を出て旅したいというてはった」という。

里子にとっては懸念があった。源光寺に行くといって、行っていなかった慈海。自分が裏切られる理由があるとすれば、ただ一つ。
慈念があの夜のことを言ったのだ。慈念を問い詰める里子。しかし慈念は否定する。「いいまへん。あんなこと、いえしまへん」と。

宗務会議で慈海は雲水に出たと結論づけられた。もし遁走ということになると世間の物笑いになるからだ。
しかし実は、慈海は雲水に出たのでもなく、遁走したのでもなかった・・・。

久間平三郎の葬式の前々夜。
酔って帰った慈海を黒犬のような影が足下へ飛びかかってきた。あばら骨の下に激しい痛みを感じ、百日紅の木の下で慈海は倒れた。
竹小刀をもって襲ったのは慈念だった。
床下に隠していた慈海を引きずり出し、通夜の本堂に安置されていた棺に平三郎の向きと逆に慈海を詰め込む慈念。蓋を閉め釘を打ち付け、白布を元通りに包んだ。
棺が出る時、担い手のひとりが呟いた「どえらい重たい仏やな」の言葉は、経文の流れでかき消された。





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