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本法寺 その1

2012年07月09日 18:43

本法寺


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表千家や裏千家が並ぶ小川通は茶道家にとっての聖地でしょうが、その両千家と小川通をはさんで山門が建つ日蓮宗の本山・本法寺(西の堀川通からもすぐに入れますが、初めての方はぜひ、小川通りから入るべきでしょう)。


01DSC04358.jpg 〈小川通〉

02DSC04352.jpg 〈山門〉

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〈参道のアジサイ〉

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〈山門から見た小川通〉

大寺院の揃う京都の中では、そう大きなお寺ではないものの、京都府指定有形文化財の建物や、重要文化財の宝物がたくさん。特に本阿弥光悦や長谷川等伯にゆかりの深い寺院でもあります。

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〈山門を入って右手にある摩利支天堂〉

狛犬ならぬ狛猪。猪は摩利支天の神使。

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京都で有名な摩利支天は建仁寺の塔頭・禅居庵にある摩利支尊天堂でしょうが、禅宗や日蓮宗では護法善神、つまり守護神として祀られることの多い神様です。

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本法寺の開祖は将軍の怒りを買い、焼けた鍋をかぶらされた日親上人(応永14(1407)年―長享2(1488)年)です。

そもそも創建は永享8(1436)年に日親上人によって東洞院綾小路に建てられた「弘通所」が始まりとされますが、禅宗に帰依する足利将軍家の目を日蓮宗に向けさせようと、日親上人は永享12(1440)年に六代将軍・足利義教の元に赴き、自らが書いた『立正治国論』を献上します。

しかし日親上人の態度が将軍・義教の怒りを買い、牢獄に入れられ、寺は焼かれ、おまけに真っ赤に焼けた鉄の鍋を頭にかぶせられる拷問にあうのです。翌年、義教が亡くなったため赦され出獄しますが・・・その容貌は、頭皮が焼けただれ、頭はくぼみ、鍋をかぶったままのよう。

それ以降、人々は拷問に打ち勝った尊称の念も込めて「鍋かぶり日親」「鍋かぶり上人」と呼ぶようになったのでした。

そして康正年間(1455~57年)に四条高倉で再建の後、寛正元(1460)年に二度目の破却にあった本法寺は三条万里小路に移転し復興しますが、天文法華の乱で和泉の堺に移転。乱が治まった後、一条戻り橋付近で再興の後、豊臣秀吉の天下となった天正15(1587)年に現在地に移転し、今日に至っています。

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〈多宝塔〉

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〈開山堂〉

都名所図絵「本法寺」
〈都名所図会 叡昌山本法寺〉



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本法寺 その2

2012年07月09日 18:44

14DSC04475.jpg 〈本堂〉

本堂の前には長谷川等伯像と本阿弥光悦手植えの松。

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日親上人が投獄されていたときに知り合ったのが本阿弥清信。日親上人は彼の帰依を得て本法寺を再建し、その後、本阿弥家の菩提寺ともなりました。
清信は光悦の曾祖父で、刀剣の鑑定や研磨を生業とする名家でありながら、刀剣の鞘走(鞘がゆるく、刀身がひとりでに鞘から抜け出ること)が原因で、将軍・義教の怒りに触れ投獄。その獄中で一緒になった日親上人に教化され熱心な法華信者となったのです。

18DSC04337.jpg 〈長谷川等伯像〉

第十世・日通上人(天文20(1551)年)―慶長13(1608)年)の頃、長谷川等伯(天文8(1539)年―慶長15(1610)年)は本法寺の塔頭・教行院に寄宿していていました。
時あたかも、本法寺は復興事業を進めていて、本阿弥光二・光悦親子の支援を受け本堂は慶長4(1599)年に、客殿、仁王門は慶長10(1605)年に建立。また寺の中でも印象的な多宝塔は元和9(1623)年に造営されました。

そのような中で、代々家が日蓮宗信者であった長谷川等伯も日通上人と親交を結び、再建された本法寺の天井には等伯の描いた「龍図」もあったのだとか。もともと大涅槃図は本堂に掛けられていたそうですが、天明8(1788)年の大火で諸堂が消失。その時、蔵庫だけが消失を逃れ、「大涅槃図」などの宝物が今に伝わっています。

21DSC04320.jpg 〈唐門〉

20DSC04317.jpg 〈庫裡〉

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〈十(つなし)の庭〉

唐門前の「十(つなし)の庭」は、どうして“十”を“つなし”と呼ぶかというと、ひとつ、ふたつ、みっつ…ここのつ、とお、と“つ”が付かないからだとか。

23DSC04276.jpg 〈巴の庭〉

「巴(ともえ)の庭」は本阿弥光悦作庭と言われ、書院の東側から南へ曲がる鍵形の庭で、広さ200坪。庭の中心部には半円を二つ合わせた円形石と、切石による十角形の蓮池が配置され、二つで「日」「蓮」を表現しているのだとか。

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毎年、春には一ヵ月間にわたり特別寺宝展が開催され、縦10メートル横6メートルの大迫力の長谷川等伯筆「仏涅槃図」(1599年)が公開されます。本来、涅槃図には描かない“猫”や、この時代には珍しい“コリー犬”が描かれているのも特徴の一つ。
普段は涅槃会館にレプリカが掛けられていますが、カラーコピーのような模造品では、本物の迫力には及ぶべくもありません。

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〈本物の「仏涅槃図」。猫の部分だけを拡大です。本来は写真撮影禁止(許可を得て撮影していますので、あしからず)〉

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やっぱり、日本庭園は曇り空か雨の日が、絵になりますね。





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