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浄蔵 その1

2012年01月30日 23:12

浄蔵


怨霊、鬼、疫病・・・と数々の禍々しい闇がうごめく1200年の都・京都。
その一方で、平安時代にこれらと対峙し、また現世と冥界との橋渡しをした人物として有名なのが、

官僚・学者にして閻魔大王の片腕でもあった“小野篁”(延暦21(802)年―仁寿2(853)年)、
第十八代天台座主の“元三大師”(良源、延喜12(912)年―永観3(985)年)、
陰陽師の“安倍晴明”(延喜21(921)年―寛弘2(1005)年)でした。

これら三人は、現在でも多くの人に知られている人たちですが、忘れてはならない人物・・・

それが、怪僧・浄蔵貴所(じょうぞうきしょ、寛平3(891)年―康保元(964)年)なのです。


浄蔵は、元三大師や安倍晴明と同時代に生き、彼らに勝るとも劣らない数々の不思議な霊力を発揮した天台宗の僧侶です。


浄蔵は、当代一の文章博士であった三善清行の八男にして、母は嵯峨天皇の孫という高貴な血筋に生まれ、12歳の時、宇多法皇にその才能を見いだされ法皇の弟子となり受戒、仏門の道に入ります。その後、比叡山の玄照律師に密教を学び、さらには慈覚大師・円仁らに師事し、仏教はもとより天文、医薬、占い、管弦など様々な行に秀で、若くして名を馳せ、類いまれな法力で災厄平癒や疫病治癒を行ってきました。


浄蔵がまだ十代の頃に依頼されたのが、時の左大臣・藤原時平(871年―909年)に祟った菅原道真(845年―903年)の怨霊を取り除くという、大仕事。
そもそも道真と、浄蔵の父・三善清行(847年―919年)は長年、学者・官僚としてのライバルで、清行はむしろ道長を左遷した時平の側にいた人物でもあったのです。

延喜9(909)年4月、苦しむ時平の病の原因が道真の怨霊の仕業だとわかると、名だたる僧侶が時平の元に呼ばれ祈祷をおこないます。が、いっこうに効果はみられません。そこで、時平と親交が深く、調伏師としても世間の評判が高かった清行の子・浄蔵が呼ばれ加持祈祷をおこないます。
父に連れられた浄蔵が畏まって祈祷すると、床に伏していた時平の左右の耳から青龍の頭があらわれ、道真の怨霊が無実の罪を述べるという妖しげな出来事が・・・。そして道真の怨念の言葉に、一連の事態の真実を悟った清行・浄蔵親子はそれ以上、道真の怨霊を鎮めることをあきらめ、時平の屋敷を辞してしまいます。その後、ほどなくして時平は39歳の若さで息を引き取ったのでした。

清行は道真のライバルでありながらも、昌泰3(900)年には道真に対して書を送り右大臣を辞するように忠告を促し、後の左遷を回避させようともしていたという間柄。ちょうどこの浄蔵の加持祈祷の際にも、道真の霊が清行に対して、その時の助言に対する礼を述べるという出来事もあったのだとか。

以上の出来事は『北野天神縁起』などで浄蔵と道真の霊が対峙する場面として著されていますが、決して浄蔵の霊力が道真の怨霊の力に屈したという失敗談ではなく、無実の罪で流罪となった道真の正当性を語るために、若くして当代一の霊力を持った浄蔵が引き合いに出されたとみれば、どれほど浄蔵が有名だったかがわかるでしょう。


なんせ、紛う事なき法力の持ち主であった浄蔵は晩年の天慶3(940)年正月、勅命により平将門の乱を調伏するため、比叡山横川にあった首楞厳院(しゅりょうごんいん)で三七日(21日間)の大威徳法を勤行し、乱を鎮め、調伏に成功しているくらいの人物なのですから。



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浄蔵 その2

2012年01月30日 23:14

二十代の頃には、大峯山、葛木山、那智山と修験道の聖地で数々の修行をおこなっていた浄蔵貴所。

祇園祭の山鉾に登場する「山伏山」のご神体は“山伏の人形”ですが、その人物こそが浄蔵で、大峯山に入るときの姿をあらわしています。

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〈宵山までは山伏山町の町家の二階に祀られ、右手に苛高数珠(いらだかじゅず)を持ち、左手には斧、そして腰には法螺貝をつけた、まさに修験道者の勇ましい格好〉

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さらに、浄蔵の奇想譚の中でも最も有名なのが、「一条戻橋」の橋の名の由来となった、父・三善清行を生き返らせたという伝説でしょう。

山伏としての修行に励み、さらに法力を身につけていた浄蔵が二十代後半の頃。
浄蔵が熊野に詣でる途中、父の死を知り、急いで都に戻るも、すでに死後五日を経過していて、一条堀川の橋の上で偶然出会った葬列が父のものでした。
父の亡骸と対面した浄蔵は、臨終を看取ることが出来なかったことを嘆き、橋の上で祈祷をおこないます。すると父は蘇生し、その後三年間(一説には四、五日とも、一週間とも)生きながらえたというのが、浄蔵伝説の中でも最も知られた逸話で、それ以来、橋の名が「戻橋」となり今に伝わっているのです。

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浄蔵は数々の病気治癒のほか、「一条戻橋」での父の蘇生にとどまらず、数多くの蘇生伝説を残しています。

南院親王(光孝天皇の第一皇子・是忠親王)を蘇生させ、四日間生きながらえさせたり、
浄蔵が比叡山西塔に聴法のために出かけた際、乗っていた馬が突然亡くなり、法会が終わった後、その馬を蘇生させて自らの庵までその馬に乗って帰ったり、
浄蔵自らが、自分の臨終を悟り、金剛般若経一万巻や法華経を転読して、閻魔大王に寿命を長らえさせてくれるように頼み、その通りになったり・・・。


ちなみに、生き返った父・清行は、その三年後の死に臨んで、手を洗って口をゆすぎ、西に向かって念仏を唱えて息絶えるのですが、清行を火葬した後には、舌だけが焼け残っていたのだとか。
また陰陽道にも通じていた清行は、五条堀川あたりに人が住むにはあまりにも荒れ果てた家を買い入れ、そこに夜な夜なあらわれる化け物を退散させたとの逸話も『今昔物語』には記されています。

浄蔵の父・清行も並みの人物ではありませんでした。



浄蔵 その3

2012年01月30日 23:14

京都東山にも、浄蔵ゆかりの伝説、寺院が存在します。

「八坂の塔」で有名な法観寺(八坂寺)もその一つ。

今では、寺の伽藍が五重塔だけとなってしまった法観寺ですが、浄蔵は天暦年間(947年―957年)の頃に、この寺に寄住していて、その時、傾いていた八坂の塔を祈祷で一晩のうちにまっすぐに直したとの伝説はあまりにも有名。

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〈最初の八坂の塔は592年に聖徳太子によって建立されたとされるが、現在の塔は室町時代に足利義教により再建されたもの〉

また天暦4年、法観寺に強盗十余人が侵入したのを、護法善神を使って懲らしめ、その罪を諭したとの話も伝わっています。

護法善神とは、浄蔵が使役していた鬼神の守り神で、時に浄蔵はこの護法善神に鉢を持たせ、空を飛ばせて托鉢に行かせていたことも。
しかし善神は常人にはその姿が見えず、空中を鉢だけが飛んでいたことから、人びとからは気味悪がられ恐れられてもいました(他にも「鉢飛ばし」で有名なのが『信貴山縁起絵巻』で知られる僧・命蓮です)。

八坂法観寺
〈安永9(1780)年刊行の『都名所図会』より 八坂法観寺〉


また、八坂の塔の隣にある「八坂庚申堂」も開基は浄蔵。

八坂庚申堂は日本最初の庚申信仰の霊場として、江戸時代には大坂四天王寺の庚申堂、江戸入谷の庚申堂とともに日本三庚申と呼ばれ、とても栄えていました。

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庚申信仰とは、人の体に生まれ持って巣くう“三尸(さんし)の虫”が60日ごとに訪れる庚申(かのえさる)の日に、天帝(閻魔大王)にその人の日頃のおこないを報告に行く日とされ、悪事により寿命を縮められることを恐れた人びとが、一晩中寝ずに夜を明かすこと。三尸の虫は人が起きている間は、体から出ないとされていることから、庚申の日を寝ずに明かすことを「庚申待ち」といいます。
平安時代の宮中でも盛んに行われ、江戸時代には広く庶民にもその信仰が根づいていました。

三尸の虫を食べる神として崇めらた八坂庚申堂の本尊・青面金剛は、もともと京都の豪族・秦氏の守り神。中国伝来の本尊にして秦氏の氏神との性格を持って祀られていたものを、浄蔵が一般の人も気軽に参拝できるようにと、天徳4(960)年に八坂庚申堂として創建したのです。

現在も八坂庚申堂では庚申の日に一晩中“お籠もり”が行われ、接待として出される「こんにゃく焚き」は、浄蔵が父・三善清行の病気の際に祈祷にこんにゃくを捧げたところ無事に治癒したことに由来しているのだとか。

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また浄蔵が亡くなったのは、現在の高台寺付近にあったという雲居寺(現在は廃寺、別名、八坂東院)でした。


安倍晴明のように昨今のブームとは縁の遠い浄蔵貴所ですが、その霊力、法力は1200年の京都の歴史の中でも随一と言っていいほどの人物なのです。





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