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崇道神社

2011年12月26日 21:48

崇道神社

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崇道神社は京都市内から八瀬へと向かう鯖街道沿いにあり、西に池泉鑑賞式庭園で有名な蓮華寺、東に知る人ぞ知る紅葉の穴場・栖賢寺に挟まれ、日中でも深い木々に陽の光が遮られた、鬱蒼とした妖しげな雰囲気。

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いかにも怨念を残して亡くなった早良親王が祀られるにふさわしい、湿気の高そうな境内です。

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京の都が誇る三大怨霊といえば、菅原道真、崇徳上皇、そして早良(さわら)親王。
なかでも後に学問の神と崇められた菅原道真に対して、崇徳上皇と早良親王はいまだに怨念を昇華しきれない存在として京都の闇を語る上では欠かせない存在です。

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早良親王(天平勝宝2(750)年―延暦4(785)年)とは、平安京を造営した桓武天皇の実弟。
まだ都が奈良の平城京にあった天応元(781)年に、兄・桓武天皇の即位とともに皇太子となり、次の天皇の座を約束されましたが、延暦4年に長岡京の造営使・藤原種継が暗殺されると、その暗殺の首謀者として捕らえられ、さらに皇太子の座も廃されて、淡路島への配流が決定します。
そして乙訓寺に幽閉された後に淡路島へと流される途中、無実を訴えつづけた早良親王は食事を拒絶し、自らの意志で餓死したのでした。

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この藤原種継の暗殺に早良親王が実際に関わっていたのかどうかは定かではありませんが、奈良の旧都と京都の新都との間の勢力争いに巻き込まれたのは事実で、
一方、桓武天皇が弟である早良親王の即位を望まず、自らの子・安殿親王(後の平城天皇)を皇太子とするため早良親王を策略におとしめたとの意見も。

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しかし問題は早良親王の死後にありました。
桓武天皇のまわりでは息子・安殿親王の病気、后の相次ぐ病死、生母の病死、日照りによる飢饉、疫病の流行、水害・・・と不幸が続き、それらが占いによって早良親王の祟りによるものだとわかったのです。

桓武天皇は和気清麻呂のすすめもあって、わずか10年で災難続きの長岡京を捨て、延暦13(794)年に平安京へと遷都したのでした。

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さらに早良親王の怨霊を鎮めるため、延暦19(800)年には親王に“崇道天皇”の追号を贈り、墓を大和に改葬。
平安京の地では、藤森神社や上下の御霊神社に他の御霊とともに早良親王を祀り、さらに京都の鬼門に位置する上高野には早良親王を祀る崇道神社を貞観年間(859年―877年)に創建したのです。

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この地はもともと小野郷とよばれ、遣隋使で有名な小野妹子をはじめとする小野氏発祥の地でした。また、妹子の子・毛人(えみし)の墓が境内の山中で慶長18(1613)年に発見され、その際出土した鋳銅製の墓誌は大正3(1914)年に国宝に指定され、現在も京都国立博物館に保管されています。

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〈境内の片隅には小野妹子と毛人を祀る小野神社〉



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