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噂の女

2011年12月26日 21:48

噂の女 監督・溝口健二 1954年 


『噂の女』は京都の遊郭・島原を舞台とした溝口健二作品です。脚本はお馴染み、依田義賢と成澤昌茂。
この作品以前にも、溝口健二による京都の花街・遊郭を題材にとった作品には『祇園の姉妹』(1936年、第一映画社)や『祇園囃子』(1953年、大映)があり、溝口監督最後の作品は奇しくも東京・吉原を舞台にした『赤線地帯』(1956年、大映)でした。

『噂の女』での主演のひとり・田中絹代は1940年の『浪花女』に出演して以来、幾たびも溝口監督とコンビを組んできましたが、そのコンビも結果としてこの作品が最後となります。

同じ島原を舞台とした作品には、『廓育ち』(1964年、東映、監督・佐藤純彌)や『玉割り人ゆき』(1975年、東映、監督・牧口雄二)があり、この両作品が廓に生きる女の悲哀を前面に押し出し、廓の実態を赤裸々に描いた名作となっているのに対し・・・、
『噂の女』は田中絹代演じる母親が、久我美子演じる娘に、若い医師の愛人をとられまいとする嫉妬劇が廓に生きる女の悲哀に割り込んできてしまって、どうも世評の高さほど、いい映画とは言い切れません。

それに、『廓育ち』や『玉割り人ゆき』とは違い、ほとんどがスタジオセットでの撮影だったこともあり、島原そのものの空気感が十分に感じられるかといえば・・・否、なのです。

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あらすじは・・・、

京都島原で置屋を兼ねたお茶屋「井筒屋」を営む女将・馬淵初子(田中絹代)。
彼女には一人娘で、東京の音大に通っていた雪子(久我美子)がいた。
しかし、娘の雪子が失恋から自殺未遂を起こし、初子は「井筒屋」に娘を連れて帰ってくる。
女将・初子には若い医師の愛人がいて、その医師・的場(七代目大谷友右衛門)に雪子の診察を頼んだ。

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最初はふさぎ込んでいた雪子も、親身になって話を聞いてくれる的場には心を許す。
そして的場と初子は、雪子の失恋の原因が家業である廓によるものだったことを知る。

雪子は失恋による失望感から、廓稼業での儲けで大学まで出た自らの境遇を卑下するようになっていた。と同時に、廓で働く太夫たちをも少なからず蔑みの目で見ていた。
ところが間近で太夫たちの生活に触れ、次第に彼女たちの一途でどうにもならない境遇を不憫に思うようになっていく。
また太夫たちも自分たちのことを親身になって思ってくれる雪子に心を開くようになった。

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その頃、女将・初子は、的場を開業医として独立させてやりたいと、京都に手頃な物件を探していた。そして願わくば、年下の的場と結婚をし、世間に後ろ指をさされることのない生活をしたいと思っていた。

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雪子の美貌に惹かれた的場は、初子から娘の雪子へと心変わりをしていて、雪子も親身に相談に乗ってくれる的場に恋心を抱くようになる。
そんな二人の気持ちも知らず、初子は廓組合の原田(進藤英太郎)に病院物件の購入費の借金を依頼する。

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しかし、馴染み客たちと行った能の公演で、雪子と的場が親密な関係になっていることを知った初子は静かに逆上し、嫉妬の炎を燃やす。

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的場は的場で、開業費用を初子に出させることと、雪子を手に入れることを天秤にかけ、打算的な本性をあらわしはじめていた。

ついに、初子は的場に本心を迫る。ところが的場は都合の良いご託を並べ雪子と一緒に東京に行くと言い出す。その会話を聞き、母親の初子と的場との関係を知った雪子は、母親をないがしろにした的場に憤り、別れを決意する。失恋の辛さを知っている雪子だからこその決断だった。

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的場が二人の前から姿を消した時、一連のショックから初子が倒れてしまう。
雪子は倒れた母親の代わりに帳場に座り、お茶屋を切り盛りしていく。

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廓の中では、貧困や病気から若くして亡くなる女郎が多く、この『噂の女』の中でも、薄雲太夫(橘公子)がガンに倒れ、亡くなってしまいます。そして薄雲太夫の亡骸を引き取るため京都に赴いた妹の千代(峰幸子)が病気の父親のことを思い、姉の代わりに太夫になりたいと懇願するのです。一度は雪子の説得で姉の遺骨を抱き郷里に帰りますが・・・、映画の最後、家業の廓を手伝う決意をした雪子のもとに再度、千代が太夫になりたいと訪問してきました。

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その千代の姿に太夫の一人が、「あてらみたいなもん、いつになったら、ないようになんのやろ・・・。後から後から、なんぼでも出来てくんねんなあ・・・」とつぶやき、「井筒屋」から別のお茶屋へと出かけていく場面で映画は終わります。

そう、これは『祇園の姉妹』で、妹のおもちゃが姉の梅吉に言う「何で芸妓みたいな商売、この世の中にあんにゃ。なんでなけりゃならんにゃ。こんなもん間違うても・・・こんなもんなかったらええんや」と同じ意味を持つセリフです。

ただ、花街や遊郭に生きる女性の悲哀を、いかにもなセリフで締めくくるのは、映画としてはすこぶる軽い・・・。このあたりが、リアリズム映画を作り出してきたにもかかわらず、まだ前時代的な色街の物語しか描けない溝口健二と依田義賢の限界だとも感じてしまうのです。


あ、そうそう、お茶屋の番頭格で浪花千栄子さんも出演していますが、まったく千栄子節が披露される場もなかったですね・・・残念。



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