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青空の人たち その1

2011年12月13日 23:19

青空の人たち 著者・平林英子 1969年

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平林英子の夫である中谷孝雄や梶井基次郎らが東大の学生時代に作った文芸同人誌が『青空』。

その『青空』(1925年1月~1927年6月)に集った人々の思い出を平林英子が綴った文章が『青空の人たち』です。
中心となって取り上げられている人物は・・・梶井基次郎、三好達治、外村繁、淀野隆三、そして『青空』の同人ではなかったものの旧制三高時代から梶井、中谷らと親しかった武田麟太郎。

まだ学生だった彼らが、同人誌の打ち合わせでたびたび訪れ、会合の場所として使用していたのが、早くから“ままごと”のような結婚生活をしていた中谷と平林の家でした。
のちに自らも作家となる平林英子ですが、むしろ作家としての眼よりも、中谷孝雄の妻として見た彼らの姿が描かれていて、おもしろい一冊となっています。
これらの文章の初出は、檀一雄が編集に携わった季刊文芸誌『ポリタイア』。何度かに分けて掲載された文章が1969年に皆美社より単行本として出版されました。


平林英子(1902(明治35)年―2001(平成13)年)は長野に生まれ、京都で事務の仕事をしていた頃、旧制三高に通っていた中谷孝雄と知り合い、同棲を始めます。

いったん平林と中谷との関係がこじれ、平林は実家に帰った後、当時私淑していた武者小路実篤が主宰する「新しき村」に入村。しかし、翌年には離村し、地元長野で新聞記者として働きます。その頃にはすでに、中谷との関係も修復していました。

1924(大正13)年、中谷が大学入学で東京へ移ったのを機に、夏には平林も新聞社を辞めて上京。翌年には子どもにも恵まれますが、家柄を重んじる旧家の中谷家にはこの結婚は秘密とされ、事実婚のままの生活が長く続いたのです。

作家となる夫の影響や、『青空』の会合での多くの文学青年との交流もあって、のちには自らも作家に転身。
1932(昭和7)年には「日本プロレタリア作家同盟」に加わり、解散後は「日本浪漫派」に夫とともに属しました。

平林は母親や妻としての一面も強く、多作な作家ではありませんが、1974年には『夜明けの風』で芸術選奨新人賞を受賞。
自らも99歳と長命でしたが、夫の中谷孝雄も93歳と天寿を全うしています。


「日本プロレタリア作家同盟」は非合法組織である日本共産党の子飼いの組織でもあったわけですが、そこで平林は後に財政部長となります。とはいえ、毎日、同盟費の集金に回るような仕事ばかり。しかも平林は共産党員でもなく、挙げ句の果てには近所に陸軍の将校の家があるからというだけで共産党員からは「スパイ」呼ばわりされる始末で・・・。
働く者が倖せになるような、社会のくることを希い、そうした理想のもとに、よい作品を書きたいという、まことに単純な気持から入ってきた私にとって、上部から出る観念的な指令には歯がたたなかった。同盟員の間では「政治と文学」についての論争も、しばしば繰返されはしたが、結局は、政治にひきずりまわされる結果になった。
徳永直や、林房雄といった幹部らが離れ、「日本プロレタリア作家同盟」は自然消滅し、平林も「ほっとした」と述懐しています。



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青空の人たち その2

2011年12月13日 23:21

『青空の人たち』では梶井基次郎について、次のような文章から始まっています。
もし梶井さんが五十歳を過ぎるまで生きていたら、どんな顔になったであろうかと、私は以前から何かの折にふっと思うことがあったが、そんな時必ず目に浮かぶのは、晩年のお母さんの顔であった。

『青空』同人の中でも、平林英子と最も古くから付き合いがあったのが、梶井基次郎。彼は京都の旧制第三高等学校時代に、同棲していた中谷と平林の部屋に学校をサボっては入り浸っていました。

梶井が初めて小説を書いたのは、三高に入学した二年目の初夏。「汽車通学の往復で、度々顔を合わせた同志社女学校専門部の女生徒に思いを寄せて、見事失敗した直後のこと」(本文より)と回想しています。同性の中谷には話しづらい恋愛の相談も、平林には気軽に相談できる間柄だったようです。

ある朝、梶井は通学途中の意中の彼女に、英詩集の一ページを破り、彼女の膝上へ「これを読んでください」とお置いてくるのです。そのページには女性への愛情を訴える詩が載っていました。そして行動に移した直後に、梶井が現れたのは、平林の部屋。
「大胆なことをなさったのね」という私の顔を見ているうちに、梶井さん自身も少し不安になってきたらしく、自分で自分を元気づけるように「細工はりゅうりゅう……」などと云って胸を叩いたり、大きい掌を宙に振ってみせたりしたが、何となく落ちつかないようだった。
この告白は平林の予想通り失敗に終わるのですが、それから間もなく、その時のことを二十五、六枚の小説にして平林のもとに読んでほしいと持ってきたのです。
小説のすじは忘れたが、胸をわるくしている青年が主人公で、夜中、熱にうかされた青年が、両手を宙にあげては、弱々しい救いを求める場面があったことだけ覚えている。作品の題も忘れたが、表題の右肩には、例の達筆で「習作」と書いてあり、左方の少し下った場所に「この拙なき一篇を中谷妙子に捧ぐ」と書いてあった。中谷妙子なんて、初めて聞く名前だったが、世の中には似た名もあるものだと、私は軽く思っただけだった。
おそらく恋の告白の相手が、中谷妙子という女学生だったのでしょう。その日の帰り、梶井からその小説を「これはあなたにあげましょう」と渡された平林でしたが、残念ながら梶井の幻の処女作は、平林が住居を転々としているうちにどこかへなくしてしまったようです。


そのほかの平林が梶井を語ったエピソードには、

近くの洋館から聞こえる讃美歌をいつしか覚え、口ずさんでいた平林を見て、梶井が音符の付いた立派な歌集を持ってきてくれたり・・・、
平林と中谷と梶井との三人で嵐山で遊んだとき、梶井は寒いだろうからと平林の肩にマントを掛けてやったり、持ち物を持ってくれたりするのに、中谷は何も気づかない態度なのを怒って「おまえは暴君だぞ!」と叱りつけたり・・・。

と、女性想いの優しい一面ばかりが語られています。中でも、

中谷や梶井が東大進学で東京に出てきてからのこと。
生活に困窮していた中谷家では、平林の着物を質屋に入れて金を用立てようと考えますが、平林は一度も質屋に行ったことがなく恥ずかしさもあって、しぶしぶ涙を拭きながら夜道を歩いてたどり着いたのは梶井の下宿。
質屋通いになれていた梶井に気安く行ける質屋を紹介してもらおうとの心つもりだったようです。
下宿の玄関に現れた梶井は、泣きはらした平林と風呂敷包みを見て事情を察したらしく、目的の質屋の前に来ると、平林の手から風呂敷包みをもぎ取るようにして、「あなたはしばらく、その辺をぶらついていなさい」と、ひとり質屋の暖簾の中へと入って行くのです。
私はその時まで、自分が店へ行って金を借りる交渉をするつもりだったから、何となく緊張していたが、梶井さんが行ってくれたので、嬉しいやら、ほっとしたやらで、その辺をぶらつくどころか、じっと道傍に立ったまま梶井さんが出てくるのを待っていた。そして、やがて出てきた梶井さんの手から、小さく畳んだ風呂敷や、若干の金と質札を渡された時は、しみじみと「いい兄貴だなあ」と思ったことだった。

・・・いい話です。



それにしても三好達治が、あんなにもわがままでダメ人間だったとは。

1930(昭和5)年には処女詩集『測量船』を発表し、ほどなく叙情的な詩風で人気詩人となった三好達治でしたが、

うすら寒い夜、突然、中谷家を訪れ、尊敬していた萩原朔太郎に詩が古いと言われた悔しさのあまり、「俺の詩は古いのか! 古くはないだろう……」とうめくように言い放ち、涙を流したり・・・、
友人の家の畳の上に平気で痰を吐いたり・・・、
病気になり友人宅に厄介になっているにもかかわらず、その病人という立場にかこつけて、わがままし放題、甘え放題の粗暴ぶりを発揮したり・・・(笑)。





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