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曼陀羅 その1

2011年11月01日 00:03

曼陀羅 監督・実相寺昭雄 1971年


実相寺昭雄監督は自ら自作品の解説をするということを極端に嫌ったといいますが、それは解説をしたがらなかったのではなく、きっとできなかったのでしょう。

観念的(観念という言葉自体があまりに観念的なのですが・・・)な言葉とは、ただ何となくぼんやりと輪郭があるだけで、しっかりと説明しろといわれてもうまく説明出来ません。
初期の実相寺作品はとにかく、いくつかの“観念”的な言葉や事象を、映画という“概念”でつなぎ合わせているものですから、余計に複雑で、わかりにくくなってしまっているのです。

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〈前作『無常』に引き続き主役・裕を演じる田村亮〉

そして、近親相姦やスワッピングなどといったタブーを導入口に、哲学としてのエロティシズムや、政治、宗教、日本の土着思想にいたるまで、そのテーマは多岐にわたり、果てはレーゾンデートルという厄介な領域にまで踏み込んでしまって・・・。

ただ一つ言えるのは、1970年代初頭の日本における、もっとも切迫した題材がふんだんに盛り込まれていたということだけは、確かです。

あまりに論理的で哲学的な展開の物語を、斬新な演出で観る者を惹きつける・・・。左脳だけではなく右脳でも感じなければ作品世界についていけない。それが初期の実相寺作品なのかもしれません。

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〈裕の恋人・康子には、ウルトラマンのアキコ隊員役でお馴染み、桜井浩子〉

役者の表情を無視して顔を切り取ったり、アップにしたりするカメラアングルや、広角レンズを使った歪んだ画面、リアリティーを無視した場面転換・・・、観る者の関心を惹きつけておくことに、これ以上効果的な演出方法は見あたりません。

ただ、あまりに作品世界に没入してしまうと、登場人物と同じように観ている者の立つ地平をも揺るがしかねませんので、ご注意を(苦笑)。もしくは脳内麻薬が分泌される恐れもありますので、ほどほどに・・・。

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〈信一役は清水紘治、その恋人・由紀子には森秋子〉


『曼陀羅』の、大まかなあらすじは――

学生運動にドロップアウトし、官能の世界に刺激を求めていた学生・信一が、ある団体の中心人物・真木に見初められる。
その団体こそ“農業を中心とした自給自足”と“エロティシズムの追求”という二本柱を掲げる原始宗教的(もしくは原始共産的)ユートピアだった。
信一は恋人・由紀子とともに単純再生産の共同生活の中で次第に個を没していく。求めるものはただ一つ。“生きながらにして時間の感覚を失い、歴史を失う瞬間を味わう”というエロティシズムの持つ究極の恍惚。
もはや、彼は未来などという時間の概念に絶望し、“無階級の単一共同体”を求めるという学生運動時代に掲げていた理想も捨て去ってしまっていた。

そのユートピアに現れたのが、信一の友人・裕。彼は究極とも言える個人主義者で、カリスマからなる宗教的な存在を否定し、あくまで永久革命者の考える未来を信じている人物。
信一を説得し呪縛から解き放とうとするが、同じバリケードで戦ったかつての仲間も、もはや両者の間で会話が成立するはずもなかった。

そして、裕の恋人・康子がユートピアの住民によって暴行され、自殺するに及んで、裕の怒りは頂点に達する。
ユートピアのカリスマとして神々の霊媒をしていた真木の妻を犯し、土地を穢してユートピアをユートピアでなくならしめた。

住民たちは、再度、安住の土地を求めて遠く隠岐の島へと旅立つが・・・。

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〈ユートピアのリーダー・真木には岸田森。作品最後での熱演は、伝説ともなりました(笑)〉



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曼陀羅 その2

2011年11月01日 00:04

冒頭は二組の学生カップルがスワッピングしているという、なんとも官能的な場面から始まります。
フツーの映画なら恋人同士のスワッピングがテーマというだけで一本の映画がつくれそうですが、実相寺昭雄の世界観ではこんなの・・・映画への導入に仕掛けられた一場面でしかありません。

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モーテルの一室をカメラでのぞき見ているのが、真木(岸田森)。表の顔はモーテルの支配人、そして裏の顔はユートピアの中心人物(ちなみにモーテルの名前は「ホテル バロッコ」。イタリアの小さなコムーネ(コミューン)の名がつけられていて、設定が細かい)。

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信一(清水紘治)が恋人の由紀子(森秋子)にベッドの上で語った「僕自身が僕に対して疎遠になる。魂が離れていく時みたいに、現在という時間が希薄になる」という感覚や「幼い頃に得た時間のなくなるような感覚に恐怖と恍惚を感じた」との言葉に、真木は彼がユートピアの住民になる素質があると感じとって、手下の二人に襲わせ、ある仕掛けを施すのです。手下の一人・茂雄役には草野大悟。

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茂雄によって一撃で倒された信一。一方、由紀子は海岸沿いを走って逃げるも男たちに取り押さえられ、砂浜で強姦されます。ようやく目が醒めた信一は、砂浜に倒れた由紀子が死んでいると思い、妙な興奮に襲われ・・・。
死という時間の停止を意識した中での信一の由紀子に対する愛撫は、今まで味わったことのない恍惚感を信一にもたらし、由紀子もそれを知ってか、死んだふりをしながら信一にされるがままに横たわっていたのです。

実相寺監督のATG三部作(『無常』(1970年)、『曼陀羅』(1971年)、『哥(うた)』(1972年))のなかでは、この作品だけがカラー映像です。広角レンズに映し出された海岸沿いの青空が実に深い。

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海岸の怪しげなモーテルでの日々から少し経って、京都に帰ってきたもう一組のカップルが裕(田村亮)と康子(桜井浩子)。

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康子が妊娠し、裕に結婚を迫りますが彼は「子どもは欲しくない」と堕胎をすすめます。お腹の子がスワッピングした相手・信一の子だとの疑念が彼を結婚に踏み切らせない理由だと考える康子に裕は無碍なく答えます。「子どもの血なんて、観念なんや。その証拠に赤ん坊を取り違えられた夫婦を見てみ、日が経てば経つほど他人の子を離せなくなってるやんか。これは自分の子やと思ったら、もう自分の子なんや・・・子どもを作って結局、人類繁殖に寄与するなんてとんでもないことや。僕は類概念なんて信じてない。人類なんてなくっていい。個の集合体であるだけなんや」。

恋人・康子の「いったい、うちはなんやの?」との恋人らしい問いかけにも、「個や。たまたま女のカタチをしている個や」と言い放つ裕。相変わらずの実相寺節、いや脚本を担当した石堂淑朗節とでも言いましょうか(笑)。

康子「それやったら、何のために生きてるのかわからへん。生きながら死んでるのと同じや。それでいて生きてるのは傲慢な居直りや!」
裕「いつでも死んでやる! 僕は死ねる理由を見つけるために生きてるんや」
ホント、シビアなセリフを役者に吐かせますね・・・。


結局、康子は由紀子に紹介してもらった産科で堕胎することになるのですが・・・、堕胎手術に失敗し、二度と子どもを産めない体になったと、康子は泣きながら裕を責め立てます。

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二人のいる鴨川の三角州のすぐそばでは、裕とセクトの違う「統一と団結」派の学生がシュプレヒコールを交わしていて、裕に気づいた彼らは襲いかかってきます。彼は川を渡って逃げ・・・その逃げた先は、信一の部屋。後を追ってきた康子に裕は言い放ちます。

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「あいつらに自己批判して学校に戻るくらいなら、いっそうのこと、爆弾放り込んでやるわ!」
「あんたはいつでも自己本位や・・・」嘆く康子。



曼陀羅 その3

2011年11月01日 00:05

その頃、海岸での出来事を怪しく思い、すべてがモーテルの主人・真木(岸田森)に仕組まれ、今も操られていると感じた信一(清水紘治)と由紀子(森秋子)は疑問を晴らすためにモーテルへと向かいます。
海岸で二人に再会した真木は、彼らを山あいにある寺へと招き入れました。その寺を中心とした土地で行われていたのは、農業を中心とする完全自給自足のユートピア。

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最初は懐疑的だった信一も、真木の力説に次第に、ユートピア思想の魅力に取りつかれていきます。
「エロティシズムこそ、果てしのない単純再生産、いや、セックスとちごうて、エロティシズムはむしろ縮小再生産の行為とすら言えるかもしれないくらいなんや。エロティシズムの背後には絶えず死の影が揺らめいているからな。・・・人間は一瞬の恍惚を求めて彷徨うが、恍惚とは何か? それは生きながらにして時間の感覚を、いや、もっと大きく言うたら歴史を失う瞬間のことを言うんや。ファウストのセリフやないが『時間よとまれ』ということや。単純再生産こそ、人間のすべての営為の中で時間を失った永遠の空間を作り出すことができるんやないのか」
二人は手に鍬を持ち農作業に加わっていたのでした・・・。

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ユートピアでは、真木の妻(若林美宏)が、様々な神様(作品の中では神も仏もごちゃ混ぜになってます)と交信し、「神様相手の娼婦」を自認。そのいでたちは、感情を隠すかのような白塗りの能面づらで、巫女のよう。真木は、妻との契りをせず、もっぱら手下の守と茂雄が真木の世話をしているという。


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京都から姿を消した二人を心配する裕(田村亮)は、彼らの行方を捜して、恋人の康子(桜井浩子)とともにあの海岸に辿り着くのですが、またしても二人を襲う影が・・・。

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ユートピアに招かれた裕は、真木や茂雄と対峙し、彼を連れ戻すために説得します。
裕「もし、こんなユートピアで世直しがきくんやったら、我々は何も苦労しいひん。単純再生産は人類の夢かも知らんけど、他方、拡大再生産の資本主義的様式は確固としてある上は、なんにもならへん。いずれはそっちに逃げ込まれるんや。そのあげく、あんたたちが苦心して切り開いたこの谷間なんか、せいぜい悪どい観光会社の別荘地として麗々しく売り出されるという寸法や」
真木「そうはさせない。この土地は私が生まれ育った先祖代々の土地や。誰の手にも渡すわけにはゆかん」
裕「あんたの夢は甘い・・・観光会社というて悪かったら、国家というてもええ。国家はいったん狙いをつけたらどんな犠牲を払っても必ずその意志を貫くもんや」

しかし時間の中に生きることを否定してしまった茂雄に、裕の声は届きません・・・。

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実相寺昭雄の前作『無常』同様、田村亮の熱演にして、この『曼陀羅』での核となるやりとりがつづきます。

信一に語らせる“ファウストの感性”や“パリ・コミューンが成立した時、一人の労働者が石を投げて時計台の時計を壊したというエピソード”もなかなかのもの(学生運動を象徴するものが、各大学の時計台を擬した建物というのも意味深で皮肉なものです)。

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そして彼ら三人がユートピアの一室で対面していた同じ頃、別の部屋では康子が住民によって凌辱され、絶望のうちに木に首をくくり自殺してしまうのです。

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〈首をくくって自殺した康子(桜井浩子)を目にして微笑む真木の妻(若林美宏)〉


そんな康子の状況を知らず、京都に帰って彼女を捜す裕。

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かつての同志ですでに運動から手を引き転向したジュン(左時枝)に行方を尋ねるも、手がかりは見つかりません。

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〈左時枝は、この場面だけの登場〉



曼陀羅 その4

2011年11月01日 00:05

ユートピアに舞い戻った裕(田村亮)は、住民たちの奇妙な面をつけて踊り狂う姿を見て、康子(桜井浩子)が彼らによって殺されたことを悟ります。

「お前の神を俺が征服してやる」
怒りに燃える裕は、寺の祭壇で、霊媒の後に疲れ果て着物もはだけて寝ていた真木の妻(若林美宏)に襲いかかるのです。

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真木の妻を犯した後、裕は康子の死体のありかに連れて行かせ、さらに逃げ惑う真木の妻を追いかけ、いつしか二人は滝に迫り、妻は足を踏み外して滝壺へ・・・。
それを見ていた真木(岸田森)と住民たち。息絶えた妻を連れてこようと信一が水に入ろうとするものの、「やめい!」と真木の一喝。

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「神の宿らん女の死体なんか、単なる有機物や。それに、あの腰のあたりを見たまえ。愛撫の跡が歴然としている。相手は言うまでもない・・・。この土地はもう穢れてしもうた・・・出発しよう! 隠岐の島にまだ私の土地が残されている。そこへ行って新しく畑を開いて、我々の国をつくり直すんや!」

住民たちは早速、荷物をまとめ移動の準備に取りかかります。向かうは隠岐の島。
もぬけの殻になったユートピアの寺。そこに潜り込んだ裕は火をつけて、真木ら一行の後を追います。

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ようやく隠岐の島へと渡る船まで辿り着いた一行。「神仏の命ぜられるままに・・・」と小さなボロ船に乗り込み、曼陀羅を帆にして出航。

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一行に追いついた裕は「やめ~! やめろ~! ・・・そこまでして死にたいのか・・・」と叫ぶも、一行には届かず船は沖合へ。


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その後、疲れ果てて海岸で眠っていた裕が起きると・・・砂浜には打ち上げられたユートピアの住民の遺体が。苦悶する表情で死んでいた真木の手には、本尊で拠り所でもあった曼陀羅がかたく握られ・・・。

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〈出ました! 岸田森渾身の名演技! シビアな場面にもかかわらず、上映当時、あまりの熱演に場内では笑いが漏れたという伝説のシーンです〉



曼陀羅 その5

2011年11月01日 00:06

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場面は一転、京都に戻った裕は刀剣商で一振りの日本刀を手にします。代金の500万円は真木が経営していたモーテルを売り払ったものでした。

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〈ロケで使われたのは京都で(ある意味)最も有名な東大路通りの古道具屋「鈴木古道具店」。店主役には実相寺作品常連の原保美です〉

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そして・・・何事かを決意した裕が向かおうとする先は・・・東京。まなざしに宿るものは・・・破滅に向かう狂気。

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実際、学生運動にドロップアウトした少なからずの若者が自殺に走り、その他の少なからずの若者が田舎での原始共産社会を夢見て、小さなコミューンのような共同生活をして暮らしていたというのは、当時の日本では珍しくないことでした。また、ヤマギシズムのような団体に加入する全共闘世代の人々が1970年前後に増加したのも、その一例です(もちろん、この物語に出てくる信一のような心境だったかどうかは知りませんが)。自殺という究極の絶望に陥らないための最後の砦が、内部完結している(カルト)宗教や(カルト)コミューンだったのでしょう。

題名の『曼陀羅』は、仏教の宇宙観を感得するための秩序の元に完成された(閉塞した)宗教的世界観をあらわしていると同時に、
ユング哲学を論じる上で語られるのが、しばしば精神病患者が曼陀羅のような絵を自発的に描くことで精神の均衡を保っているという逸話。

そんな若者たちの姿を、同時代的に瞬時に切り取ったこの作品は、ただ、それだけで評価されるべき映画だと思うのです。

いずれにせよ、妻というカリスマを失った真木率いるユートピアの住民が、(難破という天災であろうとも)滅ばざるを得ない運命にあったのは物語の上では(実際の社会の上でも・・・かな)必然の終わり方なわけで・・・。

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京都駅に向かう裕が、その途中に立ち寄った書店では、三島由紀夫、高橋和巳の著作が列んでいました。
三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をしたのが、1970年11月25日。
全共闘世代に最も読まれた作家のひとり・高橋和巳の『捨子物語』が出版されたのが1968年、『わが解体』の連載が1969年。

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しかし、そんなベストセラーの著作には目もくれず、裕が手にするのは・・・万葉集の文庫本(映画の前半、信一の下宿で、何度もアップになった書物が野島秀勝著『「日本回帰」のドン・キホーテたち』でもありました)。

そして日本刀を携え、東京(おそらく国家の象徴・国会議事堂)に単身乗り込もうとする裕に待っている運命も、“個人にとっては”破滅でしかなく・・・。

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