--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

隨心院 その1

2011年10月16日 23:53

醍醐寺から旧奈良街道を北に向かってすぐにあるのが隨心院で、真言宗善通寺派の大本山です。

隨心院のある土地は、古くから現在まで“小野”と呼ばれる地域で、小野一族が栄えた土地であることに由来します。
特に現在の隨心院は、小野小町(825年頃―900年頃)の旧宅跡に建てられていることから、“小町伝説ゆかり”の寺として名高く、明治から昭和にかけて隨心院の属する宗派は真言宗小野派と名乗っていました。そして昭和6(1931)年に小野派が善通寺派に改称され、現在に至っているのです(総本山は、弘法大師空海の生誕地に立つ香川県の善通寺です)。

拾遺都名所図会「小野隨心院」
〈『拾遺都名所図会』(天明7(1787)年刊行)より 小野隨心院〉

隨心院の歴史は、もともと仁海(954年―1046年、空海から数えて8代目の弟子)が開いた「曼荼羅寺」(正歴2(991)年創建)に始まります。仁海は事相(真言密教の儀式作法)の奥義を極めた名僧で多くの弟子が彼の元に集いましたが、のちに曼荼羅寺の一末寺であった隨心院の住持にして曼荼羅寺第五世の増俊が事相の流派である「隨心院流」を創始したことで、曼荼羅寺はいつしか隨心院と称されるようになったのだとか。

その後、順徳、後堀河、四条天皇の勅願寺となり、第七世親厳の寛喜元(1229)年には後堀河天皇の宣旨によって門跡寺院となり、隨心院門跡と称され、七堂伽藍を擁する名門寺院となったのです。
しかし、都を襲った承久の乱や応仁の乱は、この山科小野にある隨心院にも影響を与えます。隨心院は小野を離れ、何度かの移転を繰り返した末、慶長4(1599)年に曼荼羅寺創建の元の地に本堂を再建。二条家や九条家の庇護の元、再興したのでした。


DSC03779_R.jpg 〈総門〉

旧奈良街道に面した「総門」は宝暦3(1753)年に、二条家より移築されたもの。


DSC03801_R.jpg
〈薬医門から眺めた「小野梅園」〉

総門を入って右手に広がる「小野梅園」には約230本の梅の木があり、小野小町も愛でたといわれる薄桃色の梅は“はねず”と呼ばれ、「はねず踊り」が毎年3月最終日曜日に開催されます。

DSC03785_R.jpg

「はねず踊り」とは、小町に恋をした深草少将の“百夜通い”をモチーフにした踊りで、大正時代以降久しく廃れていたものが、昭和48(1973)年に復活しました。


DSC03789_R.jpg 〈薬医門〉

隨心院の「薬医門」は時代劇のロケでおなじみです。九条家ゆかりの豊臣完子(天真院尼)の寄進により大玄関、表書院とともに寛永年間に建造されたと伝えられています。

ちなみに豊臣完子(天真院尼)とは、父親は秀吉の甥「豊臣秀勝」、母親は浅井三姉妹の「江」。その後、母であった江が再婚し、第二代将軍・徳川秀忠の正室となったことから、完子は徳川家光の異父姉となるのです。
そして完子自らは、公家の名門・九条家に嫁ぎ、将軍家と公家の重要な仲介者の役割を担ったのでした。


DSC02390_R.jpg 〈大玄関〉

「大玄関」は表書院、薬医門とともに、豊臣完子(天真院尼)の寄進により寛永年間に建造されたもの。

DSC02402_R.jpg
〈大玄関から薬医門を望む〉


DSC02411_R.jpg 〈庫裏〉

総門とともに、宝暦3(1753)年に二条家より移築され、「庫裏」はかつての二条家の政所御殿であったそうです。


DSC03860_R.jpg 〈庭園〉


DSC02408_R.jpg
〈書院縁側から見た本堂〉

「本堂」は慶長4(1599)年の建築で、寝殿造り。


DSC03868_R.jpg
〈本堂から書院と庭園を望む〉


DSC03862_R.jpg 〈本堂〉



スポンサーサイト

隨心院 その2

2011年10月16日 23:53

隨心院は、数々の小野小町伝説と、“雨僧正”と呼ばれた開基・仁海にまつわる逸話が有名です。


DSC02385_R.jpg

DSC03797_R.jpg
〈小町化粧井戸(小町姿見の井戸)〉

小野小町が朝夕、顔を洗ったという井戸。境内の南西角にひっそりとあります。


DSC03805_R.jpg DSC03821_R.jpg
〈文塚〉

境内の東、雑木林の中に佇むのが「文塚」。小野小町に寄せられた千束の恋文を埋めたといわれる塚です。


隨心院の仏間には、小町ゆかりの「文張地蔵」と「卒塔婆小町坐像」が祀られています。

「文張地蔵」とは、小町自身が彼女に寄せられた恋文を下貼りにして作ったとされる地蔵菩薩像。

「卒塔婆小町坐像」は小町晩年の姿で有名な坐像です。小野小町の生涯はあまり多くの謎につつまれていて、出生地も墓地も定かではありません。しかし晩年の姿を偲ぶものとして有名なのが、この隨心院にある小町百歳の時の姿をあらわしているという「卒塔婆小町坐像」と、京都市左京区静市にある小町寺(補陀洛寺)の「小野小町老衰像」でしょう。

なお、文張地蔵と卒塔婆小町像が安置されている仏壇の前の障壁画は、「極彩色梅匂小町絵図」という題の小町の一生を描いたグラフィックアート。「だるま商店」という若手芸術家の描いた斬新なものですが・・・名前も知らない日本画の大家が描く地味な障壁画に比べれば、格段におもしろいですね。


DSC03877_R.jpg
〈小野小町縁の榧(かや)の実〉

「深草少将が百夜通いの折、榧の実を糸に通して日を数えたと伝えられ、実の上部、左右に糸を通した跡が残っている」と説明書きには書いてありましたが・・・、何度か移転を繰り返した寺に、しかも1100年前の榧の実が残ってるわけが・・・ってツッコミはなしです(苦笑)。


深草少将の“百夜通い”とは・・・、

小野小町を愛した深草少将に小町は冷たく、彼女は条件として「私の元へ百日間通い続けたら結婚しましょう」とその場を取り繕います。しかし少将は彼女の元に通い続け、その証拠として小町邸の門前にあった榧の木の実を、毎夜、小町の元へと差し出しました。次第に小町も少将のことが気になり、百日目の夜を心待ちにしていました。
ところが、雪の降る九十九日目の夜、門前に辿り着いた少将は疲れ切って、そのまま倒れて亡くなってしまった・・・という悲哀の物語です。
しかしそもそも、深草少将は伝承上の人物で、実在はしません。鎌倉時代に能の世阿弥が創作した物語に登場する人物なのです。



DSC03874_R.jpg 〈請雨本尊石〉

「元慶元(877)年、小野小町井戸にて、一身上人が雨を祈った時の本尊石で中心の梵字は仏の種字(しゅじ)である」・・・らしいですが、一身上人っていったい誰?



隨心院の前寺名「牛皮山曼荼羅寺」の由来。

曼荼羅寺の開基・仁海は、夢の中で、亡き母が牛に生まれ変わっていることを知ります。
その牛を鳥羽に尋ね求めてやっと見つけた彼は、大切に育てていました。ところが日なくして牛は亡くなり、悲しんだ仁海がその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊にしたことにちなんで、「牛皮山曼荼羅寺」となったのです。
そして曼荼羅寺が隨心院となった後も、隨心院の山号は「牛皮山」のままつづいている・・・と。


DSC03825_R.jpg 〈仁海供養塔〉

また仁海は別名“雨僧正”とも呼ばれていました。
宮中からの帰依も深かった仁海のもとに、京都の神泉苑での雨乞いの勅命が九度ももたらされましたが、そのたびに雨を降らせることが出来たことに由来します。


DSC03828_R.jpg 〈榧(かや)の大木(小町榧)〉

仁海供養塔の後ろにある巨大な榧の大木は、別名“小町榧”です。





Twitterボタン

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。