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わが解体

2011年10月11日 00:48

わが解体 著者・高橋和巳 1971年

高橋和巳『わが解体』


小説家にして中国文学者だった高橋和巳は、1971年に39歳の若さで腸ガンを患い亡くなります。

学生時代から同人誌に作品を発表し創作の道を歩んでいた彼は、のちに河出書房新社から出版されることとなる『捨子物語』を1958年に私家版として出版。
しかし小説家としての本格的なデビューは、1961年に創設されたばかりの第一回文藝賞に、大学教授のスキャンダルを題材とした『悲の器』が当選してからのこと。
その後も、新興宗教を扱った『邪宗門』(1966年)、さらに『憂鬱なる党派』(1965年)と話題作を次々と発表し、その作風から「苦悩教の教祖」とも呼ばれました。

そして創作と並行して、1959年には立命館大学の講師となり、1966年には明治大学文学部助教授、さらに翌年には自らの母校・京都大学文学部の助教授に就任。

この寡黙で、「陰々滅々」と自称するほどの陰気な若き新進学者は、吉川幸次郎をはじめ、奈良本辰也、白川静、梅原猛ら、そうそうたる学者にかわいがられ、また一方で、思想哲学の違いを越え、埴谷雄高、三島由紀夫らとの交流でも有名です。

高橋和巳 〈高橋和巳〉


この『わが解体』は全共闘運動で荒れる京都大学の助教授という学生と対立する立場にありながら、学生に理解を持ち、自らの属する教授会との狭間で揺れる一青年学者の、心身をすり減らすまでの苦悩に満ちた葛藤を描いたノンフィクションなのです。

新聞やテレビが連日伝える全国の大学における紛争なるものは、単に視覚的に部外者にも見える事態の突起にすぎない。むろん東大の安田講堂や京大の時計台の占拠とその排除の攻防にも、象徴的政治行為を志向する学生政治団体の、それに賭けた情念の表現はあり、それもむろん重大な大学闘争の一環ではある。しかし学生相互の議論のなかで、政治的には一つのスローガンにすぎない「大学解体」や「自己否定からの出発」をまともに身に受けとめて、自己の矛盾を追究するうちに嗚咽してしまう学生の涙や、不意に人知れず自殺してゆく学生の死や、内ゲバによって負傷してのち病床で声低く文学について語る学生の声などが、それら華々しく報道される〈大事件〉より価値低いものとは断じていえない。
(『わが解体』本文より)


1969年初頭には京都大学にも学園紛争の火種が飛び火。
「わが解体」は『文藝』(河出書房新社)の1969年6・7・8・10月号に連載され、まさに全共闘運動を肌で感じ取ったままを文章化した、当時を知る貴重な記録となっています。

ちなみに、『わが解体』が単行本として出版されたのが1971年3月。一年あまりの長い入退院を繰り返した末、高橋和巳が亡くなったのは、出版から二ヶ月後のこと。
その頃には学生運動は下火となり、学生たちの狂騒はすでに内ゲバの時代に投入していましたが、この本は全共闘世代の若者を中心に爆発的に売れ、高橋の死と相まって彼の他の著作とともに一大ブームとなりました。

奇しくも三島由紀夫の絶筆『天人五衰』が新潮社から刊行され、“豊饒の海”全四部作が黒い箱入りの装幀で出揃ったのが1971年2月。
そして、高野悦子さんの『二十歳の原点』が新潮社より出版されたのが1971年5月。


一つの時代の終焉を“見事に”象徴する出版界の出来事でした。



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