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パッチギ! その1

2010年09月25日 00:31

パッチギ! 監督・井筒和幸 2005年 

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公開時、みうらじゅんが「井筒和幸(にいちゃん)、死んでくれ! これ以上はもう有りえないでしょ。最高の遺作にしとこ。新年早々今年のNo.1に決定! まいった!」とコメントしていましたが、ほんと、そう思いました。

井筒監督という人は、一般映画デビュー作である『ガキ帝国』(1981年)を越える映画はもう撮れないだろうと思っていたところに、この作品でした。びっくりしましたね。いつもくだらない映画評や小遣い稼ぎのコメンテーターばかりしていたこの監督を見直したものでした。


あらすじ。


1968年。時はGSサウンズ真っ盛り。主人公・康介(塩谷瞬)と友人・紀男(小出恵介)は最先端のマッシュルームカットにして女の子にもてようと必死な東高校2年生。女子校生に声を掛けるが相手にもされない。
銀閣寺近くでは、朝鮮高校の学生が長崎の修学旅行生と乱闘を起こしていた。過激な朝高生の怒りはおさまらず、修学旅行生のバスを横転させて、新聞沙汰になる始末。

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東高校の教師(光石研)は毛沢東語録を持ち出し、戦争をやめさせるには戦争しかないと、朝鮮高校とのサッカー試合の申込みを康介と紀男に行かせる。嫌々ながらも朝高へ赴いた康介は「イムジン河」の旋律に誘われ、吹奏楽部でフルートを吹くキョンジャ(沢尻エリカ)に一目惚れをする。しかしキョンジャは朝高の番長・アンソン(高岡蒼甫)の妹だった。

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「イムジン河」に魅せられた康介は紀男と楽器店へ。そこで常連の坂崎(オダギリジョー)にザ・フォーククルセダーズや「イムジン河」について教えてもらい、戦後の朝鮮半島を取り巻く厳しさを知り、フォークソングに目覚める。
「アメリカとソ連が戦争になったら、世界はどうなる? 日本も線を引かれてしまうかもしれんで・・・仮にこの川で線を引かれたらどうする」と紀男は鴨川を指して、康介に問う。一方の岸にはキョンジャの住む朝鮮部落があり、その対岸に康介たちの家があった。

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朝高と東高のサッカー試合は、想像通りの乱闘に。その頃、アンソンは北朝鮮に帰り、サッカーでワールドカップに出場することを決意。女友達・ガンジャ(真木よう子)はアンソンについて行きたいと思いつつも、素直に打ち明けられず、朝高も中退してしまう。

ある日、康介は坂崎からフォークルのコンサートチケットをもらう。朝鮮語を勉強し、キョンジャをデートに誘うが、コンサートの日は円山公園での兄・アンソンの送別会だった。
キョンジャからアンソンの送別会に招待された康介は、キョンジャと「イムジン河」を演奏する。それを聴いていたラジオ局のディレクター(大友康平)から、「フォーク勝ち抜き合戦」に出ることをすすめられ、また、この祝宴をきっかけに康介はアンソンたちとも仲良くなった。

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その頃、アンソンの恋人・桃子(楊原京子)はアンソンの子を身ごもるが、北朝鮮に帰る決意をした彼にそのことを打ち明けられないでいた。

ある夜、川岸でフルートの練習をするキョンジャの元へ、鴨川の水の中を渡り意を決して康介は告白する。しかし、「もしずっとつきあって、結婚するようなことがあったら、朝鮮人になれる?」とキョンジャに問い返され、言葉に窮する。

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桃子が検査に来ていた病院で看護婦をしていたガンジャから、桃子が妊娠していることを知らされたアンソンは出産費用として学ランを売って金を作ろうと、後輩のチェドキに託す。アンソンの学ランを着て街なかを粋がって歩くチェドキを、東高空手部の応援に駆けつけた大阪の愚連隊・ホープ会が襲う。巡査が通りかかり一難を逃れたと思った直後、交通事故でチェドキは突然死んでしまった。

チェドキの通夜。康介は在日一世から、戦中、戦後の迫害を責められる。いたたまれなくなった康介は帰り道、大切にしていたギターを鴨川の欄干にたたきつけ、川に流してしまった。

一方、アンソンらはチェドキの弔い合戦と称し、出町柳の三角地帯で東高との大喧嘩を始める。同じ頃、桃子は出産に臨み、さらにギターを棄てたはずの康介はラジオ局のフォーク合戦で放送禁止曲「イムジン河」を歌う。そして通夜の席でラジオから流れるその歌をキョンジャは耳にしていた。

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病院に駆けつけたアンソンは生まれた子を抱き、朝鮮に帰ることを諦め、ラジオ局から出た康介を待っていたのは自転車で駆けつけたキョンジャだった。

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パッチギ! その2

2010年09月25日 01:13

さて、この映画で一躍ブレイクしたのは、なんと言っても沢尻エリカでしょうが・・・
改めてみるとそれほどでもないんですよねえ(もちろん清楚な佇まいで、演技も自然なのですが)。
(むしろ、昨年公開『愛のむきだし』(監督・園子温、2009年)での、満島ひかり。この人のどえらい演技を見てしまうと、世間がいまだに沢尻エリカで騒いでいるのが、不思議でならないのです)。

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俳優では、高岡蒼甫や波岡一喜、そして小出恵介の演技は自然と目立ってました。主演の塩谷瞬は残念ながら、いまいちでしたねえ・・・。

嵯峨のボーリング場では、アンソン、バンホー、チェドキたちと、東高校空手部との因縁の乱闘が行われ、東高の空手部主将・大西役はケンドーコバヤシ。副主将・近藤役には桐谷健太。
エキセントリックな風貌で怪演した桐谷健太が、このあと、二枚目もこなす役者になろうとは・・・。60、70年代を舞台にした青春映画で、ボーリング場の場面は定番ですね。

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アンソンやチェドキたちは、バンホーの父親が営む廃品回収所から屑鉄を持ち出し、アドベンチャービジネスと称して、学生集会に乗り込み鉄パイプやヘルメットを売り、小遣い稼ぎをします。
集会場は京都大学西部講堂。屋根の三つ星も輝いております。

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映画後半では、『ガキ帝国』でおなじみ「ホープ会」が京都まで遠征に来ます。
ホープ会は当時実在した大阪の愚連隊で、もちろん会員の愛用煙草はホープなのでした。このあたりを登場させるのは、ちょっとした遊び心でしょうか。

登場人物の名前についても少し遊んでますね。
主人公・松山康介の「松山」は原案者の松山猛から、
オダギリジョー演じる坂崎は、フォークルの期間限定再結成時、はしだのりひこの代わりに加入したTHE ALFEEの坂崎幸之助からとったものでしょう(坂崎の実家も酒屋ですしね)。
そして、波岡一喜演じるモトキ・バンホー。このバンホーの役名は、おそらく1997年に亡くなった趙方豪(ちょう・ばんほう)から取っているんでしょうね。
趙方豪は井筒監督の出世作『ガキ帝国』で島田紳助・松本竜介とともに主役を演じた名優です。まあ、この後は主に助演でドラマや映画で活躍していましたが、
『三月のライオン』(監督・矢崎仁司、1992年)や『パン屋襲撃』(監督・山川直人、原作・村上春樹、1982年)での演技は印象深いです・・・。

パッチギ!_20100925010708 〈『パン屋襲撃』より〉


ちなみに、釜山から密入国し、バンホーの家でかくまわれて働く金太郎(きん・たろう)役の趙和(ちょう・たみやす)は趙方豪の甥だそうです。

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これほどの映画を撮ったにもかかわらず・・・、この監督、やっぱり悪い癖が出てしまいます。
『ガキ帝国』の時もそうでした。『ガキ帝国 悪たれ戦争』(1981年)なんて続編をだしてしまいました(さらにひどいのは、在日の趙方豪が豪田遊(ごうだゆう)という日本的な芸名に変えさせられたり、劇中でアルバイト先として出てくる「モスバーガー」に対し「この店のハンバーガーは猫の肉や!」とのセリフを役者に言わせ、モスバーガーの抗議で上映を打ち切られたり・・・)。
そして今度は『パッチギ! LOVE&PEACE』・・・“LOVE&PEACE”ですか・・・、はぁ~(苦笑)。
沢尻エリカをはじめ、かたくなに続編の出演を拒んだ役者は賢明でしたね、ってか、ふつうスベるのわかるでしょ?
いや、スベるだけならまだしも、前作を汚しかねないのです。



パッチギ! その3

2010年09月25日 01:49

そもそも「イムジン河」が出来るきっかけは、ザ・フォーククルセダーズのデビュー曲「帰って来たヨッパライ」の作詞も担当した松山猛が、学生時代の朝鮮人の友人に教えてもらったメロディーがはじまり。

そのメロディーを、まだ20歳前だった友人の加藤和彦に口頭で教え、加藤が採譜して作った曲が「イムジン河」で、加藤は龍谷大学の学生でした。
当時はまだアマチュア時代の“フォーク・クルセイダーズ”で、「イムジン河」が初めて音源になったのは1967年。
フォークルの解散を記念して、製作費23万円で自主制作アルバム『ハレンチ』を300枚制作します。この中に、「帰って来たヨッパライ」と「イムジン河」も入っていたのでした。

アルバム『ハレンチ』が好評を得、頻繁に地元ラジオ局で流されるようになり、解散するはずのグループが一転、メジャーデビューをすることになるのです。
そもそも加藤はデビューに反対でしたが、乗り気の北山修の説得に折れ、1年限りでプロとして活動することを決意します。
メジャーデビューを機に、加藤に請われメンバーに加わったのが、はしだのりひこ、でした。

「帰ってきたヨッパライ」がいきなりのミリオンヒットとなり、満を持しての2曲目がアマチュア時代から好評を得ていた「イムジン河」のはず、だったのです・・・。

原曲は、臨津江(イムジンガン)で分断された朝鮮半島を歌った曲で、臨津江を渡って飛んでゆく鳥を見て、北朝鮮側から分断された祖国への思いを募らせる、という内容でした。
原曲には歌詞の3番はなく、しかも松山が友人から教えてもらった歌詞は1番だけだったそうで、2番と3番の歌詞は松山猛の全くの創作だそうです。


加藤和彦は『パッチギ!』DVDの特典映像で、「東芝レコードが、ソ連の方と韓国側からクレームがきたと言ってきた。いろんな理由あるのだろうが、ソ連側の方は国名を明記しろと言うことだった。(『北朝鮮』は)そもそも国名として認知されておらず、表だって書けないということで東芝が遠慮した、びびったというか、そういうことでしょう』と語っています。

実際、発売元の東芝音楽工業に、朝鮮総連が作詞作曲者の名を明記することと、原詞に忠実に訳すことを求めていた、ともいいいます。
レコード会社は国交のない北朝鮮の名を出すことを躊躇い、韓国も北朝鮮の曲が日本でヒットすることを望まず、発売自粛となったようです。

結局、「イムジン河」が発売されるのは、2002年、発売中止から34年の歳月を経てのことでした。この発売がなければ、映画『パッチギ!』もなかったのです。


この映画を彩るもうひとつの名曲「悲しくてやりきれない」。劇中ではオダギリジョーが味のある歌声を披露しています。
発売自粛となった「イムジン河」の代わりに2枚目のシングルとして発売されたのがこの曲ですが、
「イムジン河」が発売中止となったため、急遽、代わりの曲をつくらなければならなくなった加藤が、音楽会社の会長室で3時間缶詰になり作った曲で、
「イムジン河」のコード進行を反対からたどっていった時にひらめいた曲といわれています。

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パッチギ! その4

2010年09月25日 23:20

『パッチギ!』の原案は、松山猛著『少年Mのイムジン河』(2002年、木楽舎)です。

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松山氏は、「平凡パンチ」「ブルータス」「ポパイ」等の雑誌編集者としてよく知られていますが、
編集・ライター業と並行して、ザ・フォーククルセダーズや、サディスティック・ミカ・バンドをはじめ、多くの作詞を手がけています。

松山氏は1946年生まれで、地元の日吉ヶ丘高校の、おそらく美術工芸科(後の銅駝美術工芸高等学校)の出身だったはずです。
生まれ育った泉涌寺、東福寺界隈は、京都でもディープな町として有名で、かつては、京都で最も物価の安い地区でもありました。
少し西に行った東九条には在日朝鮮人、韓国人の方が今も多く住んでいます。

『少年Mのイムジン河』は、松山氏と「イムジン河」との出会いが描かれた小さな本です。
映画の印象的なエピソードも、この本から取られていて驚きます。人と人との“出会い”って、ほんと不思議なものですね。


中学生になった松山少年は、ヒロシ君という後に陶芸家になる同級生と、京子さんという弁論大会で一等賞を取る2級先輩の女性と友だちになります。
京子さんは朝鮮系の人で、民族の違いからイジメを受け、「人間どうしは理解し合うことによって、表面的なちがいを乗りこえ、仲よく生きられる」と主張し、一等賞を受賞したのでした。

彼らは学校の中で夢を語り合うグループとして仲よくしていましたが、一方、学校の外では市立中学生と朝鮮系の学校とのいさかいやケンカが絶えません。
その頃、世間では安保闘争が激しく、民族や文化間のいさかいだけでなく、「同じ国の中でも、考えがちがう者を、取り除こうという力がはたらいてしまう」ことに松山少年はショックを受けます。

松山少年は次第に、「京都で続いている、中学生どうしの小さな戦争のような、争いごとをなくせたら」と考えるようになります。
そこで原田先生に、ある計画を相談します。
朝鮮中学校と松山少年の通う月輪中学校で、サッカーの対抗試合をして、スポーツでたたかうことによって、お互いの理解を深め、友だちになろう、というものでした。
原田先生は、計画に賛同してくれ、「君たち中学生が自分たちでやってみるほうが、いちばん理想的だから、試合の申しこみは君たちでやってごらん」と、温かく見守ってくれたのでした。

そして、松山少年は銀閣寺近くの朝鮮中高級学校に行き、小学生時代の友だちで、今は朝鮮学校に通っている子を通じ、サッカーの試合を申し込みます。
そのとき校内で聴こえてきた曲が、どこかものがなしいメロディーの「イムジン河」だったのです。
またその頃、仲よしだった京子さん家族が帰国船で北朝鮮へ帰ることが決まったのでした。

ブラスバンド部でトランペットを吹いていた松山少年は、自宅近くの陸橋でいつも練習をしていました。そこは大石橋と呼ばれていた九条大橋でした。
大きな声を立てても、迷惑がかからないとの考えからでした。
そこに、同じ考えを持った少年がもう一人いたのです。
それが、朝鮮中学に通っていた文くんで、サキソフォンの練習に通っていたのです。
だんだん、気が打ち解け、仲よくなった二人でしたが、ある時、松山少年はたずねます。
朝鮮中高級学校にサッカーの試合を申し込みに行った日に聞いた、あの曲のことをです。

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〈大石橋。『パッチギ!』では主人公・康介がギターを欄干に叩きつけ、鴨川に流してしまいます〉

しばらくして、文くんが松山少年にあるものをくれます。それは文くんのお姉さんがメモに書いてくれた朝鮮語の歌詞と1番の日本語訳、そして新しい朝日語小辞典だったのです。
文くんによると「北と南に引きさかれた朝鮮の人たちが、いつの日か平和な日を迎えられ、自由に行き来できることを願って作られた」歌でした。

その後、高校に入った松山少年でしたが、北朝鮮に帰国した京子さんからの手紙が、いつしか途絶えてしまいます。
ヒロシ君は陶芸訓練所に入るも、胸に影があることがわかり、遠くのサナトリウムで療養することになりました。
さらに、松山少年の最愛の父親もこの世を去り、それまでにない孤独を味わうのでした。

そんな中、松山少年のたましいの中の欠けた部分を、うめ合わせるものが詩だったのです。


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〈現在、このあたりの鴨川東岸は都市計画整備事業の工事中です。東岸にあった朝鮮部落の家々もすでに取り壊され更地となり、数年後には光景も大きく様変わりするようです〉



パッチギ! その5

2010年09月25日 23:30

あの日の「イムジン河」を松山氏に再び思い出させたのは、フォークソングの世界でした。
デザイナーを志していた松山氏と高校時代から顔見知りだったのが北山修。
そして北山修とともに加藤和彦が中心になってコミカルな曲を演奏していた風変わりなフォークソンググループ「ザ・フォーククルセダーズ」。
松山氏は彼らのポスターを描いたり裏方として関わることになります。

ヴェトナム戦争が激しくなり、若い兵士が命を落とす中、「ぼくらにできることといえば、なるべく早くその哀しみにあふれた戦争をやめさせるために、NOを言いつづけること」しかありません。松山氏は反戦の歌を歌う仲間のために、コンサートでヴェトコンの側からヴェトナム戦争をとったフィルムを映写したりもしました。
当時はアメリカ側からの一方的な報道や映像しかなかったからです。

ある日、お好み焼きを食べながら松山氏はすでに親友となっていた加藤和彦に相談します。
中学生の時に心を動かされた「イムジン河」をフォークルで歌ってくれないか、と。
すぐに松山氏とフォークルのメンバーとが集まり、「人間どうしが持ってしまう差別の感情、僕ら戦後すぐに生まれたベビーブーマー世代に、重くのしかかる競争の時代を、よりよい時代にしていくために、まずはぼくらの身のまわりの現実を見つめなくては」と、自分の思いを松山氏は訴えます。
その熱い思いにフォークルも協力することとなり、練習を始めるのです。

ところが、歌詞はハングルの1番と日本語の1番しかありません。歌うには短すぎると、松山氏が2番と3番の歌詞を書き加えることとなります。
北朝鮮に帰っていった友だちのことを思い、また、世界で起こっている不幸な紛争を思い、「いつの日か、夢に見た日がやってくる」と信じて。


イムジン河


イムジン河水清く とうとうと流る
水鳥自由に 群がり飛び交うよ
我が祖国 南の地 想いははるか
イムジン河水清く とうとうと流る

北の大地から 南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を 二つに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの

イムジン河空遠く 虹よかかっておくれ
河よ想いを 伝えておくれ
ふるさとを いつまでも 忘れはしない
イムジン河水清く とうとうと流る


作詞:朴世永 作曲:高宗漢 訳詞:松山猛



原案であった『少年Mのイムジン河』は、映画よりも素朴でささやかながらも、いい物語です。

少年Mのイムジン河_20100925215522 〈大石橋より北を眺める〉





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