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竹久夢二と京都 その1

2011年09月27日 00:37

竹久夢二と京都

黒船屋 〈「黒船屋」大正9(1920)年頃〉


特定の師にもつかず、美術学校にも通わなかった竹久夢二は、外国の雑誌や美術誌を切り抜き、それを手本に作画の腕を磨きました。
中でも、彼の絵を象徴するモチーフ“黒猫”を扱った一連の作品は“黒猫シリーズ”と呼ばれ、マリー・ローランサンの絵を手本にしていたのだとか。
そして、一番の代表作「黒船屋」は、当時付き合っていたお葉をモデルに、さらに亡くなったばかりの最愛の彦乃を思って描いた作品として、夢二を語る上で欠かせない傑作です。


日本近代画壇の中で、山下清とともに美術史の系譜から黙殺され、全く論じられることのない画家・・・竹久夢二。

独学で磨いた絵画技法。そして、日本画、洋画、装画に挿絵、さらには手ぬぐいや浴衣のデザインにいたるまで夢二の作品は若い女性を中心に一世を風靡するものの、その先進な表現手段ゆえ正統な画壇からは無視されつづけてきました。

山下清も竹久夢二も、中央画壇の動向なんていっこうに気にはしなかったのでしょうが・・・異端をつまはじきにしてしまうアカデミズムってなんだか陰険でつまらないですネ。

まあ、そんな批判はさておき、竹久夢二が五十年足らずの生涯のうちの二年間を京都で過ごしたというのは有名な話です。
清水の二年坂の入り口には、寓居跡が残り、その隣には夢二馴染みの甘味処「かさぎ屋」が今も営業しています。甘党の夢二はここの「しるこセーキ」が好物で、すぐ近くの高台寺門前に越してからも、恋人・彦乃と二人でたびたび通いました。

加茂川 〈「加茂川」大正3(1914)年〉


竹久夢二(明治17(1884)年)―昭和9(1934)年)は本名・竹久茂次郎。
岡山に生まれ、神戸中学校をへて、早稲田実業学校に進学。上京した理由の一つとして、画家になりたいという夢二の夢を認めない父親の存在があり、少しでも早く親元から離れたかったようです。そして早稲田の学生だった頃は平民社に出入りするほど社会主義に傾倒し、また、車夫や書生をして糊口を凌いでいたほどの苦学生。そんな彼に、人生の一大転機が訪れます。

明治38(1905)年、21歳の時、『読売新聞』の日曜附録に投書した「可愛いお友達」が掲載されたのです。当時のペンネームは竹内洦子(はくし)。
さらに平民社の機関紙『直言』にコマ絵(挿絵のようなもの)が載ったり、同年6月には雑誌『中学世界』に投稿したコマ絵「筒井筒」が一等入選となり、このとき初めて“夢二”のサインが用いられました。ちなみにペンネームの“夢二”は彼が憧れていた油絵画家・藤島武二にあやかって、のもの。
『中学世界』での入選と、それで得た賞金に自信をもち、翌月には早稲田実業学校を中退し、投書家として数々の雑誌に投稿しては入選。徐々に名を上げ、それと同時に欧州遊学から帰ってきた早稲田大学教授の島村抱月に可愛がられ、『早稲田文学』でも活躍します。


竹久夢二を語る上で欠かせない女性。それが、岸たまき(本名・岸他万喜)、笠井彦乃、お葉(本名・佐々木兼代)の三人です。


たまき 〈岸たまき〉

金沢出身の岸たまき(1882年―1945年)は、富山で絵画教師だった夫を亡くし、兄を頼って上京。明治39(1906)年11月、早稲田鶴巻町に絵はがき店「つる屋」を開店します。開店の五日後に客として現れたのが夢二で、その後、自らの描いた絵はがきを持参し、たまき目当てに毎日のように通うのです。
夢二からの求婚で明治40(1907)年1月、夢二24歳の時に結ばれた二人でしたが、二歳年上の姉さん女房で、気の強いたまきと嫉妬深い夢二は性格的にあわず、喧嘩も絶えず、明治42(1909)年5月には協議離婚。書類上の結婚は二年あまりしか続きませんでしたが、離婚後もたびたび同居と別居を繰り返す奇妙な関係は続きました。

たまきが夢二に与えた芸術的な影響は大きく、この頃にはすでに彼女をモデルとした“夢二式美人”と称される独特の美人画スタイルを確立しています。
女性遍歴の多い夢二が唯一結婚したのはたまきだけで、離婚後も含めてたまきとは三人の男の子をもうけました。

港屋絵草紙店とたまき 〈港屋絵草紙店とたまき〉

「下街の歩道にも秋がまゐりました。港屋は、いきな木版絵や、かあいゝ石版画や、カードや、絵本や、詩集や、その他日本の娘さんたちに向きさうな絵日傘や人形や、千代紙や、半襟なぞを商ふ店でございます。」(「港屋」開店の案内状より)
夢二が日本橋呉服町に「港屋」を開いたのが大正3(1914)年10月、夢二31歳の時。
「港屋」は、すでに絵描きとして名をなしていた夢二自身がデザインをし、若い女性が好みそうな木版絵、カード、絵本、詩集、風呂敷、浴衣などを売る雑貨店として開店。店の中は彼のファンでもある若い女性でいつも賑わっていました。その実、この店を開いた動機として、たまきの自活を目的としていたようで、開店の案内状も「岸たまき」名義となっていました。


夢二と彦乃 〈夢二と彦乃〉

そして、夢二のファンとして港屋に現れたのが、すぐそばある宮内省御用達の紙問屋の長女・笠井彦乃(1896年―1920年)でした。
彦乃は当時、19歳の女子美術学校日本画科の学生。ちょうどひとまわり歳の離れた二人でしたが次第に恋仲となり、この彦乃の存在が夢二とたまきとの関係を決定的に裂く結果となります。
彦乃と夢二との関係を知ったたまきが、彦乃の親許を訪ね「わたしの良人のお嫁さんに娘さんを頂きたい」などといった狂気じみた行動を聞くに及んで、夢二はたまきの行状に恐れをなして「港屋」を整理し、京都の旧友の元に身を寄せることになるのです。

相思相愛だった夢二と彦乃との関係は、夢二の離婚歴と二人の年齢差から彦乃の親が交際を断固として認めず、彼女は親の厳しい監視下の元におかれます。しかし、夢二は彦乃をあきらめることができず、知人に手紙を託しては彼女と連絡を取り、ついに彼女は父親の厳しい監視から逃げるため、「日本画修業のため」と称して夢二がいる京都に赴きます・・・が、夢二が最も愛した彦乃との生活もそう長くは続きません。
一年ほどの京都・高台寺そばでの仲睦まじい生活の後、彦乃は旅行先の九州で患っていた結核が重篤となり、ついには父親に東京に引き戻され、一年間の入院の後、23年の短い生涯を終えるのでした。


お葉 2 〈お葉〉

彦乃が亡くなる直前に夢二が知り合ったのが、お葉(1904年―1980年)です。
彦乃が父親に引き戻され順天堂病院に入院し、夢二との関係も終わり、彼も京都を引き払い東京の本郷菊富士ホテルに居を移します。傷心の夢二を仕事に没頭させようと、彼の友人の斡旋でモデルとして夢二の前に現れたのが、お葉でした。秋田出身の本名・佐々木兼代(カ子ヨ)。しかし夢二は彼女を「お葉」と名付けます。

お葉 本郷菊富士ホテルにて 〈お葉 本郷菊富士ホテルにて〉

お葉は東京美術学校の職業モデルとして人気があり、当時、彼女は16歳。夢二との年齢差は20歳でした。
そして、彦乃が亡くなった翌年、大正10(1921)年にはお葉と世帯をもち、彼女はのちに妊娠するのですが・・・夢二は生まれてくる子供に一切の関心を持たず、出産の時でさえスケッチ旅行に出かけたままで・・・。お葉は男の子を出産しますが、子どもはすぐに病気になってしまい、彼女一人の必死の看病もむなしく亡くなってしまいます。
さらに、お葉と出会って四年後には別の女性(作家の山田順子)が夢二の前に現れ、お葉は夢二の元を去っていくのでした。
ただ、夢二がお葉をモデルとして残した名作は数知れず。そして代表作でもある「黒船屋」は、彦乃が入院していた頃にお葉をモデルに描かれた作品なのですが、彦乃をよく知る人物が「黒船屋」をみると、その絵には彦乃の面影が色濃く残っていたのだとか・・・。



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竹久夢二と京都 その2

2011年09月27日 00:39

小春
〈「小春」大正3(1914)年 「心中天網島」に題材を取り、大正3年に日本橋呉服町に開店した「港屋」で売り出された夢二オリジナルの版画〉


最初の妻・たまきの狂気性に怖じ気づき、大正5(1916)年に京都に逃れ住んだ夢二でしたが、そもそも彼と京都の関係は明治43(1910)年、夢二27歳の時に遡ります。

夢二と京都を繋いだ人物が同志社中学の学生だった堀内清なる人物。
二人は明治42(1909)年7月に、キリスト教者の酒井勝軍(さかい・かつとき)が主催した富士山頂讃美礼拝に参加した際に知遇を得て、翌年5月、夢二は堀内の招きで京都を訪れます。
その時は、御所の西にある護王神社近くの堀内家に泊まり、さらに明治45(1912)年7月からの一ヶ月間、夢二は堀内家に厄介になり京都で明治天皇の崩御を知り、明治から大正への移り変わりを過ごしたのです。
この時、キリスト教に強い関心を持っていた夢二は同志社女学校の教師で宣教師のデントンや画家の竹内栖鳳、鹿子木孟郎らを訪ね、さらに京都府立図書館館長の湯浅吉郎と親交を結び、秋に京都府立図書館で個展を開く約束を取り付けました。

現在も岡崎の同じ場所にある府立図書館。そこで開かれた「第一回夢二作品展覧会」(大正元(1912)年11月23日~12月2日)には総数137点の作品が列べられました。そして「夢二展」会期中の同時期にはすぐ近くの京都勧業館で「文展」が開かれていたにもかかわらず、入場者は「夢二展」の方がはるかに多く、毎日数千人の来場者が押し寄せ好評を博します。

白木蓮と乙女
〈「白木蓮と乙女」大正元(1912)年 京都府立図書館で開催された「第一回夢二展」で非売の札を付けられた四作品の中の一つ。モデルはたまきで、夢二初期の代表作〉


その後、東京日本橋での「港屋」の開店(大正3(1914)年10月)・・・彦乃との出会いと、たまきとの別れ・・・京都への逃避行・・・と続くのです。


大正5(1916)年11月には堀内清の家に身を寄せ、翌年の2月に清水の二年坂に家を借り、次男で幼い不二彦をたまきの元から引き取り二人で暮らし始めます。さらに4月には高台寺の南門鳥居わきに家を移り、6月には彦乃を東京から京都に呼び寄せたのでした。

彦乃 京都高台寺鳥居わきの家の二階にて 〈彦乃 京都高台寺鳥居わきの家の二階にて〉

当初は女子美術学校の学友の協力や長唄の師匠の取りなしで、遠く離れた夢二と連絡を取っていた彦乃でしたが、日本画修業のためと称し父親の目を欺いて京都にやってきたのです。
そして、八坂の塔と京都の町並みが見渡せる風情ある家での、夢二、彦乃、不二彦、三人の一年あまりにわたる短いながらも幸せな生活が始まりました。

しかし翌年、大正7(1918)年3月には彦乃の父親に事情がばれてしまい、一旦東京に連れ戻されます。そして夢二が京都府立図書館で二回目の個展「竹久夢二抒情画展覧会」(4月11日~21日)を開催していた最中に、彦乃は京都にひとり戻ってきて、以前と変わらぬ三人での生活に戻るのですが・・・同年8月から9月にかけて夢二は不二彦と二人で九州・長崎を旅し、遅れて京都を発った彦乃と別府で落ち合うも、すでに彦乃の結核は酷い状態で、即日、別府の病院に入院させられます。

10月には東京から娘の病気を知った彦乃の父親が京都に駆けつけ、すぐに京都の病院に入院させ、それ以降は夢二の見舞いも一切拒絶する始末。
彦乃との関係を断たれ傷心の夢二は11月に京都・高台寺の家を引き払い、東京本郷の菊富士ホテルに居を構え、年末には彦乃も東京の順天堂病院に転院させられて、京都での蜜月生活はあえなく終わったのでした。



竹久夢二と京都 その3

2011年09月27日 00:43

竹久夢二は絵画の他にもたくさんの文章を残していますが、その文章をみると古今の文人が惹かれた京都の町については、それほど好印象を抱いていなかったようにも見受けられます。

砂がき 〈『砂がき』(1976年、ノーベル書房刊行)〉

たとえば、夢二の詩や随筆を集めた『砂がき』(1976年、ノーベル書房刊行)に収められている「西京雑信」には、
東京の方から偶々訪ねて來る朋友はきまつて「京都は面白いだらう」と聞く。私はまたきまつてかう答へた。「京都つて言ふところはお金をたんまり持つて旅人として遊びに來るには好い所だが、住むに好い所ぢあないね、やつぱり東京の方がどんな生活でも出來るし、長く住んだせゐか氣樂だよ」京都へ住むやうになつてから、彼是もう半歳になる。
〈『砂がき』所収「西京雑信」より〉
と、大正6(1917)年に二年坂や高台寺に住んでいた頃の感想を述べていますが、それ以前の明治43(1910)年7月に友人宅に一ヶ月間滞在した際にも「清さん(友人の堀内清)の家がなかったら僕はとても京都に三日と居堪らなかっただろう」と語っています。どうやら京都に住む人々の閉鎖性に馴染めなかったようです。


ふるさとの笛
〈「ふるさとの笛」大正6(1917)年頃 京都の琵琶湖疏水沿いにたたずむ青年が笛を吹く叙景を描いた作品〉


他にも、この『砂がき』には大正時代の京都の様子が画家特有の観察眼で描かれ、興味深くもあります。
京都は夏のゆくことが早う厶います。夕方になると祇園囃の笛の音が、四條の方から聞えて來ます。やがて晝間から戸をおろして店先きへ屏風をならべ、軒下で「じんべい」をきた子供達がギヤマンで作つたペコペンを鳴らし、大僧小僧は屏風のまへで將棋をさし、雪洞のかげでは中京のいとはんが打水した庭先きで團扇の風をやる景色を見るのも、遠くはないでせう。
〈『砂がき』所収「西京雑信」より〉

祇園祭をみる彦乃と不二彦 〈祇園祭をみる彦乃と不二彦〉

夢二が最も溺愛した次男の不二彦。彦乃が京都にやってきた当初は不二彦が彼女になつかず、彦乃が悲しんだこともあったようですが、次第に歳の離れた姉弟のように打ち解け、夢二が撮ったスナップ写真には二人並んだものが数多く残っています。

山の街は秋の來ることが早い。高臺寺の馬場の並木の櫻の緑が褪せ、六波羅畑の玉蜀黍の黒い髯を凉風が渡るのも侘しい。
後の祇園會がすむと、この街ではもうすぐに八月盆の仕度です。昔ながらの麻のじんべいを着て、仕切袋を肩に柿色の日傘をさして往く男も、表に赤く定紋を入れ裏には屋方と藝名とを書いた澁團扇を旦那筋へ配つて歩く仲居衆の帷衣姿も、盆節季にふさはしい風景の一つで「あの頃は」と誰もがよく言ふことだが、河原の凉みがあつた頃は、「祐信畫がく」ものゝ本で見ても四條河原の夕凉は、世がよかつたやうに思はれる。昔は鎗が迎ひに出る、今は時間極めの自動車乘らぬが損なやうに、一山何文、ぎつしりつめて、老少男女を吹きわけて四條橋を渡るすさまじさ。それにしても世が世なれば、四條橋の下には、一臺十五錢と言ふ安い床が出來て、なんのことはない「夜の宿」の背景のやうな所なれど、河原の夕凉の面影を殘した唯一のもの、風は叡山おろし、水は加茂川、淺瀬をかちわたるよきたはれめもありといふ。

秋の夜や加茂の露臺にしよんぼりとうつむける子にこほろぎの鳴く
〈『砂がき』所収「西京雑信」より〉

夢二は、京都の蒸し風呂のような夏の暑さに耐えられなかったようで、大正7(1918)年8月、うだるような暑さの京都から脱出し、次男・不二彦をつれ長崎を旅行します。そこで、長崎の異国情緒を思わせる風景に大いに感化された彼は後に名作「長崎十二景」を完成させました。

長崎十二景 眼鏡橋 長崎十二景 凧上げ
〈「長崎十二景 「眼鏡橋」と「凧上げ」大正9(1920)年〉

京の街はどんな小路を歩いてゐても、きつと路のつきる所には山が見える。それは京の町が昔から言はれてゐるやうに、碁盤の目のやうに南北東西に眞直に通つてゐるから、東西北の三方には實に近く山の姿が見られる。東山が紫にかすむことも、北山に時雨が降りることも、高尾栂尾の山が紅葉することも、京の人にとつては、隨分親しみの多いことなのである。江戸の女に比べて京の女は、着物の裾をはし折つて、よく歩くことが好きだ。櫻が咲いたと言へば、折詰をこしらへて青い古渡りの毛氈をぼんさんに持たせて、嵯峨の方へ出かけて、どこの田の畦でもピクニツクをはじめる。動物園の夜櫻の下、動物の糞の匂ひをかぎながら平氣で高野豆腐をたべる。かくの如き自然兒は、江戸の女の中にはないのである。「お前とならば奥山住ひ」と唄にはあるが、深川の女にはとても田園生活は出來さうもない。
〈『砂がき』所収「上方の女と江戸の女」より〉

装幀 長田幹彦著「小夜ちどり」 装幀 長田幹彦著「舞妓姿」
〈長田幹彦・著『小夜ちどり』と『舞妓姿』の装幀〉

夢二が生涯に描いた装画はおよそ三百点。雑誌、楽譜の表紙も合わせれば千点を超えるのだとか。“祇園もの”を多く描いた小説家・長田幹彦の作品には、夢二の京都での生活が活かされたかのように、舞妓や芸妓の姿が装画として用いられました。


現在も夢二人気は絶えないようで、数多くの書籍や画集が出版されています。手軽なところでは、『新潮日本美術文庫33 竹久夢二』(新潮社)など。

新潮美術文庫33 竹久夢二 〈『新潮日本美術文庫33 竹久夢二』(新潮社)〉

少し変わった本としては、『竹久夢二写真館「女」』(栗田勇・編、1983年、新潮社刊)。
ここには竹久夢二が写した、たまき、彦乃、お葉の写真が幾葉も掲載されています。

竹久夢二写真館「女」
〈『竹久夢二写真館「女」』(栗田勇・編、1983年、新潮社刊)〉

古ぼけた印画紙の効果と相まって、夢二の描いた女性同様、彼女たちは一様に消え入りそうな表情をたたえ、本当に実在していたのかさえ疑りたくなるような儚げで美しい存在として残されています。





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