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雁の寺 その4

2011年09月13日 23:22

雁の寺 監督・川島雄三 1962年 大映

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小説「雁の寺」は、1961(昭和36)年3月の『別冊文藝春秋』に発表され、この作品によって水上勉は第45回直木賞を受賞します。

水上勉のつらい小僧時代の体験や出奔をモチーフに、小説の最後は師僧の殺害にいたるというミステリー仕立ての異色文芸作品で、発表の翌年には早くも川島雄三監督によって映画化もされました。


映画のあらすじは、ほぼ小説と変わりません。

京都画壇の重鎮・岸本南嶽(中村鴈治郎)の“雁の襖絵”で有名な衣笠山の麓にある禅寺・孤峯庵。
その住職・北見慈海(三島雅夫)は臨終間際の南嶽から彼の若い愛人・桐原里子(若尾文子)の将来を頼まれる。
南嶽の遺言通り、慈海和尚のもとを訪ねてきた里子は、その日から寺の庫裏で生活をするようになった。

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妻帯が表立っては許されない禅寺にあって、長年にわたり戒律を守ってきた慈海和尚も里子の色香には勝てず、次第に色欲に溺れていく。

そんな二人を冷たい視線で見つめる小僧の慈念(高見国一)。
慈念は遠く若狭より、京都洛北の地に口減らしのために預けられ、中学校に通っていた。
しかし軍事教練が嫌で耐えられない彼は、次第に学校を無断欠席するようになり、勉強だけが取り柄の慈念の将来に暗雲が・・・。

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はじめは陰鬱な存在の慈念を疎ましく思う里子だったが、彼の不幸な境遇を知るにつれ、次第に同情の念を強くしていく。

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心を閉ざす慈念の生い立ちには、乞食女が産み落とし、貧しい寺大工に拾われ育てられたという自らの劣等感があった。
そしてある夜、彼に対する里子の激しい同情に、顔も知らない母の面影を思い、おもわず慈念は里子を押し倒し・・・。

檀家のお通夜を契機に、それまで感情を押し殺していた慈念の眼に一筋の不穏な光が宿る。
酒に酔って帰ってきた慈海和尚を襲う黒い影。
そして慈海和尚が不在のまま執り行われた檀家のお通夜で、深夜、ひとり読経しながら何事かの準備に取りかかる慈念。
翌日、孤峯庵の本堂では、法類である源光寺の藤本雪州(山茶花究)の采配でつつがなく檀家の葬儀が済まされた。
いつもの葬式と違ったのは、棺桶の重さが尋常ではなかったこと・・・。

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「寺を出て旅をしたい」と日頃から慈海和尚が言っていたとの慈念の証言から、和尚は雲水に出たと結論づけられた。
そして住職を失った寺には、宇田竺道(木村功)が仮の住職として入ることとなり、慈念と里子は寺を出ざるをえなくなる。

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行き場のない里子をよそに、すでに身の廻りの整理をしていた慈念は早々と寺を出る。
その寺を出る慈念の後ろ姿に、里子は慈海和尚がいなくなった真実を悟る。

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寺の方丈に戻った里子が見たものは、南嶽の描いた雁の襖絵。そのなかの、子雁に餌を与える母雁の部分だけが無残にはぎ取られていた。

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雁の寺 その5

2011年09月13日 23:23

1963年に45歳で亡くなる川島監督にとっては、若いながらも晩年の作品にあたり、当時、東宝系の東京映画に所属していた川島監督が、大映でメガホンをとり評判を生んだ三作品のうちの一つ(他は『女は二度生まれる(1961年)と『しとやかな獣』(1962年)で三作品とも若尾文子が主演)。しかし大映“京都”制作としては『雁の寺』が唯一の作品となりました。

『雁の寺』は、同じく大映京都が3年前に制作した『炎上』(監督・市川崑、主演・市川雷蔵、1958年)を強く思い起こさせます。
舞台が寺院であることはもとより、鬱屈した修行僧による放火(『炎上』)と、殺人(『雁の寺』)という帰結。
戒律の厳しい寺院内での金銭欲、色欲がモチーフとなっていること。
モノクロのシネマスコープによる格調高さを狙った映像。
美術の西岡善信、照明の岡本健一をはじめとする大映京都を代表する共通の制作陣。
放火による焼失によって、以前よりも雄壮で金ピカの金閣が建てられ、さらなる観光名所となった金閣寺。そして慈念がはぎ取った母雁を修復して、洛北の一大観光ルートとなった“雁の寺”こと孤峯庵の現代の姿を描く最後の場面など・・・。


そしてこの作品を語る上で欠かせないのが、村井博による斬新なカメラワークです。
大映には『炎上』を撮影した名カメラマン・宮川一夫がいましたが、村井博の『雁の寺』でのカメラワークは日本映画の中でも出色として今でも語られ、派手ではない映画のストーリーを飽きさせず魅せることに成功しています。

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あたかも地や壁を這う虫の目線のようなアングルや、止まり木に止まった鳥の視線を思わせるアングル・・・。

WS001134_R.jpg 〈土葬の場面〉

ちなみにカメラマンの村井博は若尾文子の義兄でもありました。

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仏像なめの情事の場面。

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また、作品冒頭は、慈念(高見国一)の肥汲みの場面が執拗につづく点も、排泄を食事と同等に扱う川島雄三ならではの演出。



映画が原作と大きく違うのは、最後に挿入されたシーンです。

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映画の最後は一転、軽快な音楽とともに突如カラー映像となり、観光客の案内役の僧として、「撮ったらあかん。無断で写真を撮ったらあきまへん!」と小沢昭一が登場。

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ここで物語から数十年後の孤峯庵が修復された襖絵により“雁の寺”として観光名所となっていることを知らされるのですが、小沢昭一はカメラで襖絵を撮ろうとする外国人客を遮り、「絵はがき買うてください。売店で売ってますさかい」といい、画面には寝ている売店の老婆が映し出され・・・映画を観る者に対し、この老婆の姿をもって、したたかに寺に居残った後の里子(若尾文子)か、と思わせる・・・演出です。

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この映画のロケ地は、等持院、天竜寺、京福嵐山駅、上七軒など。

WS000469_R.jpg 〈嵐電嵐山駅〉

WS000768_R.jpg 〈上七軒〉

天竜寺の法堂内の撮影では、かつて天井に描かれていた鈴木松年作「雲龍図」も出てきます。

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「雁の寺」のモデルとなり、今も“雁の寺”として観光寺院となっている相国寺の塔頭・瑞春院は、水上勉が口減らしのため、郷里の若狭から10歳だった1930(昭和5)年に入れられた寺でした。その後、妻帯し子どももいる師僧の“偽りの仏門生活”に耐えきれず、13歳の時に出奔。
そして次に預けられたのが衣笠山の麓にあった等持院だったのです。
当時の等持院は荒んだ禅寺で、敷地内には「等持院撮影所」という映画撮影所(この地に撮影所を作ったのは牧野省三)がありました。
朝敵であった足利尊氏をまつる等持院を人は顧みることなく、寺は苦しい経営状態で、敷地を切り売りしていたのです。
水上勉は、その等持院をも18歳の時に去り、僧侶としての生活を終えるのですが、そこで体験した“人間苦”が後の作品に色濃く投影され、この「雁の寺」が代表作となるのです。

還俗してから二十数年後に、自らが僧堂生活を送っていた等持院で、自分の作品の映画ロケが行われたというのは、なかなかに言い表せない感情だったのではないでしょうか。





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