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醍醐寺(下醍醐) その1

2011年09月10日 00:30

醍醐寺(下醍醐)


伏見区でも山科に近い醍醐にある、その名も醍醐寺。世界遺産にして、豊臣秀吉の“醍醐の花見”でも有名なこの寺院は真言宗醍醐派の総本山です。


醍醐寺の創建は貞観16(874)年。空海の孫弟子である理源大師・聖宝(しょうぼう)が准胝(じゅんてい)・如意輪の両観音像を刻み、笠取山の山頂に祀ったのが始まり。その後“上醍醐”といわれる笠取山山頂一帯は修験道者の修行場として発展しました。
また、醍醐・朱雀・村上の三代にわたる天皇の帰依もあり、麓には五重塔をはじめとする雄壮な大伽藍が建ち並び、麓の寺域は“下醍醐”と呼ばれるようになったのです。

都名所図会「下醍醐」
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 下醍醐〉

“上醍醐”と“下醍醐”とは同じ醍醐寺の中にあっても、険しい山道を隔てて一時間(2.5キロメートル)ほどの距離があり、また伽藍の成り立ちも少し違うことから、当ブログでは別々に紹介いたします。


しかし、この醍醐寺・・・どこでも、かしこでも拝観料を取りすぎっ・・・。


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〈旧奈良街道の松並木沿いに建つのが「総門」〉

まず総門を入って左にあるのが「三宝院」。醍醐寺は皇室をはじめ貴族や武士の帰依を受けて発展してきましたが、もっとも影響を与えたのが豊臣秀吉でした。

DSC03749_R.jpg 〈三宝院の入り口〉

永久3(1115)年、第14世座主・勝覚が創建し、歴代の座主が住まいとした三宝院ですが、現在の建物は秀吉によって慶長3(1598)年に再建されたものです。
唐門や表書院は国宝に、その他の建物の多くも重要文化財に指定されています。また庭園の設計には秀吉自身が関与したともいわれ、確かに桃山時代の絢爛さを伝える建物、庭園は見応えがあるものの・・・拝観料大人600円で写真撮影は一切禁止。

三宝院の庭園はすばらしいのですが、拝観に600円なら、参道から唐門を眺めているだけでも十分でしょうか。

DSC02274_R.jpg 〈国宝の「唐門」〉

唐門はおそらく修復されたばかりなのでしょう、漆黒の門に金箔が施された菊と桐の門は迫力満点です。

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三宝院を挟んで参道の反対側にあるのが「霊宝館」。もちろん入館料大人600円が必要です。

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昭和5(1930)年の醍醐天皇一千年遠忌記念として建設が計画され、昭和10(1935)年に開館。その後、旧来の収蔵スペースでは手狭になったこともあり昭和54(1979)年に新たな収蔵庫3棟を新築。さらに平成13(2001)年には平成館が増築されました。
霊宝館の中には4万点の国宝や重文、そして10万点におよぶ寺宝が納められていますが・・・多数の寺宝が集められているのには、醍醐寺の中でも、特に上醍醐のある地理的な背景と関係があるのです。

霊宝館の平成館大展示室には国宝の薬師如来坐像と、脇侍の日光・月光菩薩像の薬師三尊像が収蔵されていて、しかもこれは上醍醐にある薬師堂の本尊です。どうして上醍醐の本尊までもが霊宝館にあるのかといえば、笠取山の山上は今でも道が非常に狭く、消防車すら入ることが出来ません。そのために数々の寺宝が本来のあるべき場所ではなく、この霊宝館に集められ護られているのです・・・が、こうなっては仏像は“信仰の対象ではなく美術品”と揶揄されても仕方ありませんね。

近年では、平成20(2008)年に落雷による火災で上醍醐の准胝堂(昭和43(1968)年に再建)が全焼し、本尊の准胝観音も焼失してしまいました。
携帯電話も通じず、落雷の停電で電話も通じなかったようで、寺務所に泊まり込んでいた僧侶が山道を下山し知らせに行ったとのことです。しかも消防は20分かけて辿り着くような有様で・・・。

霊宝館の中には「本館」「平成館」「仏像棟」の三つがありますが、フルに開館している時期は、春と秋の“特別展”の時だけのようで・・・通常は「平成館」だけだったり「仏像棟」だけの開館だったりと通年で全てが見られるわけでもないようです。



・・・さて、下醍醐の伽藍に戻りましょう。

参道の正面に見えてきたのが西大門。通称、仁王門です。

DSC03757_R.jpg 〈西大門(仁王門)〉

慶長10(1605)年に豊臣秀頼により再建され、左右に控える仁王像は平安後期の作。平安後期の長承3(1134)年に仏師の勢増・仁増によって造立されました。もともとは醍醐寺の正門であった南大門に安置されていたものが南大門の焼失後に、この西大門に移されてきたのです。
並ぶ二体の仁王像は、頭の鉢の大きさのわりに小さい顔というアンバランスさから、従来の仁王像のもつ迫力に欠け、むしろ愛嬌のある滑稽な顔立ちが特徴。

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〈阿吽の仁王像〉

檜の寄せ木造りで作られた360センチの巨大な像に見えるまだら模様は、補修の跡なのだとか。


そしてこの仁王門をくぐり、ようやく数々の伽藍にお目にかかれるかと思いきや、またもや拝観料大人600円の徴収です・・・。



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醍醐寺(下醍醐) その2

2011年09月10日 00:30

境内でまず目に入るのが、国宝の「金堂」。

DSC03533_R.jpg 〈金堂〉

もともと平安後期に建てられていた金堂が二度の焼失に遭い、現在の伽藍は秀吉の命によって紀州の湯浅から移築され、秀頼の時代の慶長5(1600)年に完成しました。

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内陣に安置されている薬師如来坐像(重要文化財)が本尊です。


そして、醍醐寺の中でもっとも文化財的価値があるのが金堂と同じく国宝の「五重塔」でしょう。なんといっても京都で最古の木造建築なのですから。

DSC03549_R.jpg 〈五重塔〉

応仁の乱で、伽藍の大部分を失いながらも、これだけが創建当時から残っているのです。

この五重塔は醍醐天皇の菩提を弔うため、第一皇子であった朱雀天皇が承平6(936)年に着工し、第二皇子の村上天皇の天暦5(951)年に完成したもの。高さはおよそ38メートル。そのうち屋根の上の相輪は約13メートルあり全体の三割を占めているのも特徴の一つ。

DSC02294_R.jpg 〈五重塔の相輪〉

天正13(1585)年の地震では軒が垂れ下がる被害を受けたり、昭和25(1950)年の台風で被害を受けたものの、現在にまで至っているのです(昭和29年から35年にかけて全面的な解体修理が行われました)。

また、初重内部にある両界曼荼羅や真言八祖の壁画は平安絵画の重要遺産として、建物とは別に国宝に指定されてもいます。


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〈清瀧宮本殿(右)と拝殿(左)〉

五重塔の西にある醍醐寺の鎮守社。上醍醐にあった清瀧宮の分身を移したもので、現在の社殿は永正14(1517)年に再建されました。


DSC03555_R.jpg 〈不動堂・護摩道場〉

五体の不動明王像を安置し、堂前では柴燈護摩が焚かれます。


DSC02298_R.jpg 〈大講堂〉

下醍醐の伽藍の中でも上の方にあるこの「大講堂」を中心とした林泉や弁天堂、鐘楼、伝法学院等を総称して大伝法院といい、醍醐天皇一千年御忌を記念し、昭和5(1930)年に造築された、比較的新しい伽藍群です。

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〈大講堂から見た弁天堂と弁天池〉

大講堂の堂内には平安末期に製作されたといわれる醍醐寺最大の丈六の木造・阿弥陀如来坐像が祀られています。


下醍醐の見どころは、京都で最古の木造建築を謳う五重塔くらいで、比較的広い境内にポツリポツリと立つ伽藍の印象は閑散としたもの。残念ながら600円の感動は得られませんでした。


そして、下醍醐の伽藍を上っていった先には・・・回転式のゲートが・・・。しかも「再入場はできません」との念押しです(苦笑)。

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醍醐寺(上醍醐) その3

2011年09月10日 00:31

醍醐寺(上醍醐)

時は遡って・・・醍醐寺の開祖・聖宝(しょうぼう、空海の孫弟子)が山中で聖地を求めて歩いていた時、一人の老人が現れました。その老人は湧き出る泉を口にし「醍醐味なるかな」との言葉を残し、消え去ります。
そう、この山こそが求めていた聖地で、老人は山の地主神・横尾明神の化身。聖宝は明神からこの山を譲り受けます。貞観16(874)年、聖宝は笠取山山頂に庵を営み、准胝観音像と如意輪観音像の彫像、そして堂宇建立に着手。二年後の貞観18(876)年に両観音像とそれを安置する准胝堂が完成し、後に薬師堂、開山堂、如意輪堂など数々の伽藍が山上に姿を現しました。

都名所図会「上醍醐」
〈『拾遺都名所図会』(天明7(1787)年刊行)より 上醍醐〉


さて、下醍醐の伽藍を見終わりゲートを通ると・・・「西国第十一番霊場登山口」の大きな碑が建っています。

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〈「西国第十一番霊場登山口」の碑〉

ここかが上醍醐への入り口。そして入り口すぐにあるのが「成身院」、通称・女人堂です。

DSC03594_R.jpg 〈成身院(女人堂)〉

もともと、上醍醐は女人禁制の山であり、昔は女性がこの場所から山上を拝んだことから「女人堂」と呼ばれるようになりました。

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女人堂前には山側から不動明王、理源大師聖宝、弥勒菩薩、役行者、地蔵菩薩が祀られています。


そして登ろうとすると・・・上醍醐に登るのに・・・・また大人600円・・・。

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〈成身院(女人堂)の隣にある庫裏〉

いや、いや、いたるところに看板がでていました(苦笑)。

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「上醍醐登山には入山料が必要となりました」「上醍醐准胝観音堂再建ご寄進のお願い」と。

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女人堂で入山料を払った際、受付のお坊さんからは「一時間くらいかかりますよ」と念を押され、参拝者が、やけに本格的な山歩きの格好をしているのに不安を感じましたが・・・この山を完全に舐めてました(泣)。
しかもペットボトルの水も持たずに、登りはじめたのはいいものの・・・歩けど歩けど、全くの山道。

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途中、一向に「あと何分」や「あと何キロ」の案内図さえ出てきません。石柱が点在していましたが、一丁、二丁と文字が刻んであるだけであと幾つあるのかすら、わからず・・・。

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〈どうやら、一丁ごとに1メートルほどの石柱が山道に沿って建っていて、頂上までは二十丁あったようです〉


そして途中にあるのが、「秀吉の花見跡」。全く往時の面影は感じられません。

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花見が開かれたのは「槍山」。千畳敷と呼ばれた平地には花見御殿が建てられたのだとか。

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慶長3(1598)年3月、秀吉最後の盛大な宴がこの山中で行われ、諸大名ら、およそ1300名を招いて催されました。そして栄華を極めた秀吉はその半年後に亡くなります。


DSC03614_R.jpg 〈不動の滝〉

山道の途中で不動明王が祀られている滝があり、これが「醍醐水」か?と思うも、どうやら雰囲気が違います(実際、まだこの地点は、半分にも達していませんでした・・・)。

何度か、引き戻りそうになりつつも、入山料600円が惜しくて登っているうちに、下りて来るおじさんに遭遇。親切なおじさんの「あと15分くらい」という言葉と、上に自動販売機があることを聞き、何とか足を進ませます・・・。

一つ目の峠を越え、下り坂に入るとようやく寺域らしき雰囲気が開けてきました。


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〈右の門を下がると、上醍醐寺務所〉


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寺務所のすぐそばに、醍醐という地名、寺名の由来となった霊水が今もこんこんと湧き出ています。

DSC03636_R.jpg 〈醍醐水〉

聖宝が聖地を探していた際に、横尾明神の化身である老人と会い、ここから醍醐寺の全てが始まったのです。


DSC02319_R.jpg 〈清瀧宮拝所〉

醍醐水のすぐ傍にある国宝の「清瀧宮拝殿」は室町時代の永享6(1434)年の再建で、檜皮葺の懸造り。

DSC03645_R.jpg 〈清瀧宮本殿〉

一方、拝殿の上方にある本殿は昭和14(1939)年に上醍醐の国有林より出火した山火事で焼失し、再建されたのは昭和32(1957)年と新しい建物です。
清瀧宮は弘法大師空海が長安の青龍寺から勧請した密教の守護神を祀った醍醐寺の鎮守社で、下醍醐にあるのはこの上醍醐の分身です。

DSC03646_R.jpg 〈准胝堂跡〉

醍醐水と清瀧宮のさらに上にあるのが、西国三十三箇所の第十一番札所である「准胝堂」・・・でしたが、平成20(2008)年9月の落雷によって出火、焼失してしまいました(といっても平成20年に焼失した建物は、昭和14(1939)年に清瀧宮本殿を焼いた山火事と時を同じく焼失し、昭和43(1968)年に再建されていた新しい建物だったのですが)。

そして今回の火災では伽藍だけではなく、秘仏であった本尊・准胝観音も焼失してしまいました。
火災の復旧作業により、しばらくの間、上醍醐へは入山禁止だったのですが、平成21(2009)年1月より入山規制が解除されました・・・入山料600円が課されるカタチで・・・。

とにかく西国三十三箇所の巡礼をする人々はここの准胝観音に参るために、西国一険しいと言われた上醍醐を登ってきたのです・・・が、今は鉄板のフェンスに覆われた空き地しかありません。



醍醐寺(上醍醐) その4

2011年09月10日 00:31

現存の「薬師堂」は保安2(1121)年の建立。檜皮葺の入母屋造。国宝です。

DSC02326_R.jpg 〈薬師堂〉

もともとは国宝で本尊の薬師三尊像などを安置していましたが、本尊は火災や盗難の災難から逃れるために、平成12(2000)年から下醍醐の霊宝館に移され、今は門扉を固く閉ざしています。
これこそが・・・がらんどう・・・ですね。


ちなみに薬師堂の下には舞台のように四角に盛り上がった礎石跡がありますが、ここにはかつて経蔵がありました。

DSC03715_R.jpg 〈経蔵跡〉

が、これも昭和14(1939)年の山火事で焼失したのです。


そして、待ちに待った唯一の自動販売機がありましたが・・・、

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種類がコーヒー、お茶、水の三種類。しかも350ミリリットルの小さなペットボトルが150円。さらに、この自動販売機には蜘蛛の巣がはってるわ、ディスプレイの中に蛾が死んでるわで・・・。


DSC03677_R.jpg 〈五大堂〉

「五大力さん」の愛称で親しまれ、柴燈護摩を炊き上げて五大明王の功徳を讚えるのが「五大力尊仁王会」。その中でも余興の“力餅比べ”は京都の風物詩として有名ですが、毎年2月23日に行われているのが、この場所です。
もともとは国家鎮護の祈願道場として聖宝が開いた五大堂も、昭和7(1932)年に焼失し、現在の建物は昭和15(1940)年に再建されました。

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五大堂の正面に列んでいるのは、観賢(聖宝の弟子で醍醐寺の第一世)、聖宝、役行者です。


さて、ようやく頂上に到達です。


DSC02354_R.jpg 〈如意輪堂〉

桃山時代に建てられた舞台造りの「如意輪堂」。

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聖宝により准胝堂とともに建立されたと伝わっていますが、現在の建物は慶長年間に豊臣秀頼によって再建されました。


DSC02342_R.jpg 〈開山堂〉

如意輪堂の隣に建つ「開山堂」も同じ時期の慶長11(1606)年に豊臣秀頼により再建されたもの。

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開山堂の堂内には、聖宝像、弘法大師像、醍醐寺第一世座主・観賢像が安置されていたことから、もともとは御影堂と呼ばれていました。


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〈左の社が白山権現、右が開山堂〉

如意輪堂、開山堂、そしてその両堂に挟まれた白山権現を祀る社のある、ここが醍醐山頂です。

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標高は450メートル。山道を登るつらさからいえば、思ったほど高くはなかったです。
ここからは晴れた日には大坂・宇治の景色が一望できますが、う~ん、ビミョ~な景色・・・。

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そして開山堂の正面階段を下がっていくと、「上醍醐陵」があります。

DSC02348_R.jpg 〈上醍醐陵〉

平安時代中期の白河天皇皇后賢子と、その娘の媞子(ていし)内親王、令子内親王、さらに鳥羽天皇皇女・禧子内親王の陵墓だそうです。


さすがに下りは、距離もだいたいわかり、そう疲れずに下りられました。最後に女人堂のお坊さんが「お疲れ様でした」と声をかけてくれたのが、醍醐寺拝観唯一の救いでしたね(笑)。



それにしてもこの醍醐寺は、他の真言宗の大寺院と比べても、(伽藍の広さのせいでもあるのでしょうが)管理の行き届いていない点が、やや目についてしまいます。
そして中世・近世での山火事や落雷による伽藍焼失は仕方ないにしても、近年にも伽藍焼失を繰り返している姿は・・・。

さらに、伽藍護持のための拝観料は必要なのでしょうが、三宝院600円、霊宝館600円、下醍醐600円、それに上醍醐への入山料600円で計2400円はちょっと高すぎっ。
三ヵ所まとめてで買えば1500円+入山料600円で2100円らしいのですが・・・、“ありがたさ”に払うのが拝観料であって、当たり前のような顔をして事務的に何度も請求されると少し腹も立ってしまうのです。

それなりに拝観料が高くても“もてなし”の精神があれば、参拝者(=客)としては、不満もないのでしょうが、今の醍醐寺にはこれほど多額の拝観料を払うだけの価値は残念ながら見あたらなかったですね・・・。





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