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仁和寺 その1

2011年08月30日 00:28

仁和寺は右京区御室にある真言宗御室派の総本山で、世界遺産に登録されています。

そもそも仁和寺は、光孝天皇(830年―887年)が勅願寺として仁和2(886)年に建て始めるものの、天皇が翌年に崩御。その意思は息子の宇多天皇(867年―931年)へと受け継がれ二年後の仁和4(888)年に完成します。
宇多天皇はこの御室の地で親政を行ったことから「御室御所」とも称されました。

また昌泰2(899)年には宇多天皇が東寺で受戒した後に仁和寺に入って法皇を名乗り、以後、明治にいたるまで皇室にゆかりの人物が住職を務める門跡寺院として最高の格式を誇っていたのです。

都名所図会「仁和寺」 - コピー
御室仁和寺は真言密乗の霊地なり。はじめ光孝天皇の御願として、仁和四年八月にいとなみ給ふ、代々法親王の御法務にて、御門跡と称し給ふこと此寺にはじまりけるとかや。御室と号するは宇多天皇御出家の後、延喜元年十二月に御室を此所に建させ給ふゆゑなり。又承平の御門も天暦六年御出家ありて、此所にうつり給へり。金堂の本尊は阿弥陀仏、観音、勢至、脇士とし給ふ。観音院には千手観世音たゝせ給ふ。祖師堂は弘法大師自作の像、脇壇には寛平法皇の宸影を安ず。五重塔、九所明神、十二権現、経蔵、閼伽井、下乗の立石は藤木甲斐が筆とかや。夫当山は佳境にして、むかしより桜多し、山嶽近ければつねにあらしはげしく、枝葉もまれて樹高からず、屈曲ためたるが如し、弥生の御影向くは猶更、花の盛には都鄙の貴賎春の錦を争ひ、幕引はへ、虞松が酒にふし、李白が恨は長縄を以て西飛の白日を繋ぐ事を得んとは、春色の風客花にめでゝ日ををしむと同じ論なり。
〈『都名所図会』安永9(1780)年刊行より 御室仁和寺〉


京都でも有数の桜の名所であり、八重咲きで背の低い“御室桜”が境内におよそ200本も植わっています。
遅咲きの桜として有名で、「花(鼻)が低い」ことから“おたふく桜”とも呼ばれています。

DSC02211_R.jpg 〈御室桜〉

最高格式の門跡寺院としての面影は、今も境内の中に見ることができます。
とはいっても、多くの京都の寺院と同じく、この仁和寺も応仁の乱(1467年―1477年)によって全焼の憂き目に遭い、現在見られる伽藍が整備されたのは江戸の寛永年間(1624年―1644年)。その頃には、皇居の建て替えが行われていて、建長年間に建てられて使われていた紫宸殿、清涼殿などが仁和寺に下賜されました。


仁和寺の南の通りは、かつて“観光道路”と無粋な名前で呼ばれていました。その、衣笠山の麓の金閣寺から龍安寺を通り、そして御室仁和寺へと観光名所が並ぶ約2.5キロメートルの道は、いつの頃からか“きぬかけの路”という風流な名で呼ばれるようになっていました(笑)。
“きぬかけの路”に面して建つ巨大な門が仁和寺の「仁王門」です。

DSC03376_R.jpg 〈仁王門〉

高さは18.7メートルの重層、入母屋造。門の左右には阿吽の二王像が安置されています。

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同時期に建てられた知恩院の三門、南禅寺の三門とともに京都の三大門のひとつ(三大門には、仁和寺の仁王門の代わりに東本願寺の御影堂門が入ることもあるのだとか)。

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仁王門から境内に入り、長く広い参道を進んで中門を抜けると右手に見えるのが「五重塔」。高さ36.18メートル(ちなみに東寺の五重塔は高さ54.8メートル、八坂の塔は高さ49メートル)と、数字的には決して高くはありませんが雄壮です。

DSC02212_R.jpg 〈五重塔〉

塔の内部には大日如来と、無量寿如来など四方仏が安置され、初重西側に懸けられている梵字は、大日如来を示しています。

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五重塔の北にひっそりと佇む社が「九所明神」。

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社殿は本殿・左殿・右殿にわかれていて、八幡三神を本殿に、東側の左殿には賀茂上下・日吉・武答・稲荷を、西側の右殿には松尾・平野・小日吉・木野嶋が祀られているのだとか・・・。重要文化財ではあるものの、参拝者の目にはつきにくい社のようです。


さて、仁王門から中門を通り、その正面に鎮座するのが国宝の「金堂」です。

DSC03424_R.jpg 〈金堂〉

本尊である阿弥陀三尊を安置する本堂で、慶長年間に建てられた内裏の紫宸殿を寛永年間に移築したもの。
現存する最古の紫宸殿として、また当時の宮殿建築を伝える建物として威容を誇っています。数ある寺院の本堂の中でも、壮麗さでは随一。プラチナのような宝飾品の気品すら漂っています。


金堂の東側にあるのが「経蔵」。

DSC03417_R.jpg 〈経蔵〉

禅宗様の建物で、内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)があり、その中には各面に96箱、計768の経箱が備えられていて、天海版の『一切経』も収められているのだとか。


DSC03420_R.jpg 〈鐘楼〉


境内の北西に位置する「御影堂」はその名の通り弘法大師空海をはじめ、宇多法皇、第二世性信入道親王(三条天皇の子)の像を安置した建物です。

DSC03450_R.jpg 〈御影堂〉

金堂と同じく慶長年間に造られた内裏の清涼殿の一部を移築し、寛永年間に再建したもので、蔀戸の火災除けの蝉型の金具なども当時の清涼殿のものが使われています。


DSC03466_R.jpg 〈観音堂(左)と五重塔〉



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仁和寺 その2

2011年08月30日 00:28

鐘楼と御影堂の間にひっそりと位置しているのが石造りの不動明王像。通称、「水掛不動」です。

DSC03421_R.jpg 〈水掛不動〉

この不動明王像は、かつて京都堀川の一条戻り橋が大洪水で流され、その復旧の時、橋の下から取り出されたもの。

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そしてこの像の「仁和寺に帰りたい」とのお告げによって、境内の現在地に祀られ、諸願成就、特に幼児の難病平癒に霊験あらたか、なのだとか。


仁和寺に付随する名所として忘れてはならないのが「御室八十八ヶ所霊場」。

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これは第二十九世門跡・済仁法親王が文政10(1827)年に、遠く四国八十八箇所を巡拝できない都の人々のために、各札所の砂を持ち帰らせてつくった霊場巡りなのです。

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仁和寺境内裏の成就山の約3キロメートルにおよぶ山沿いに、小さな八十八のお堂を設けて持ち帰らせた砂を埋め、四国霊場を再現してあります。

DSC03434_R.jpg 〈第一番札所〉

DSC03444_R.jpg 〈第八十八番札所〉

近年までは幼稚園児や小学生の遠足、また手頃なハイキングコースとして人気がありましたが・・・今は閑散としているようで、しかも・・・、

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「まむしがいます ちゅういをしてください」の貼り紙や、不審者の出没を知らせる貼り紙が・・・。


さて、江戸初期の仁和寺は多くの前衛芸術家が集った場所でもありました。尾形光琳・乾山兄弟、野々村仁清らが門前に居を構え、仁和寺の「遼廓亭」(非公開)は光琳の住居を移築した建物です。また、仁和寺に出入りしていた野々村仁清の「仁」は仁和寺から字をとったのだとか。


仁和寺は古典文学にもたびたび登場し、その中で最も有名なのは吉田兼好(兼好法師)の『徒然草』でしょう。
吉田兼好が徒然草を執筆していた当時、草庵は双ヶ岡にあり、伊賀で死去した兼好の遺志に従って、亡骸は双ヶ丘二ノ丘西麓辺りに葬られたと伝えられています。その後、江戸中期には双ヶ岡の東麓にある長泉寺に墓が移されたといい、同寺の境内には、兼好の墓と伝わる「兼好塚」が今も残っています。

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〈仁王門から眺める双ヶ岡(雙ヶ岡)〉

『徒然草』で仁和寺の法師をとりあげた滑稽譚で有名なのが第52段と第53段。

第52段の「仁和寺にある法師」では、年老いた法師が、初めて石清水八幡宮に参拝するものの、肝心の山頂にある本殿には参らず、下の末社のみを参拝して帰ったという話。「すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。」でくくられる『徒然草』でも最も有名な教訓譚です。

第53段の「これも仁和寺の法師」は、宴席で酔った法師が、酔狂のあまり足鼎を頭に被って困る話です。
無理して頭に突っ込んだため鼎がなかなか抜けず、鼎を割ろうと思っても硬くて割れません。当人達は大騒ぎで鼎をかぶったまま医者に行きますが、途中で出会う人々には失笑される始末。結局、医者にもどうすることも出来ず、再び仁和寺に帰って、どうにでもなれと力任せに引っ張ると、耳や鼻が欠けたものの鼎は抜けて、命拾いをしたのでした。

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〈双ヶ岡(雙ヶ岡)から見下ろす仁和寺の境内〉

吉田兼好も双ヶ岡からこのように仁和寺を見下ろし、格式の高い門跡寺院であるからこそ、世間知らず揃いの僧侶を、からかい半分で面白おかしく書き綴ったのでしょう。


謡曲『経正』の舞台も仁和寺です。

登場人物の平経正は、清盛の甥にあたり、また熊谷直実に討たれ能や謡曲の『敦盛』として有名な平敦盛の実兄でもあります。
経正は幼い頃から第五世仁和寺門跡の覚性法親王に仕えていて、法親王から仁和寺に伝わる名宝「青山」という琵琶を賜るほどの琵琶の名手として知られていました。
ところが時は源平の合戦。木曾義仲が都に攻め入るに及んで経正は、覚性法親王を継いだ第六世門跡の守覚法親王に「青山」を返上し、西国へと落ちて延びていったのです。
経正は一ノ谷の戦いで討ち死に、そのことを知った守覚法親王に仕える僧・行慶は「青山」を仏前に供え、経正の霊を弔っていました。
その夜更け、行慶のもとに経正の霊が現れ、二人は言葉を交わし、行慶が琵琶を弾くように勧めると経正は琵琶を手に取り弾き鳴らし昔を懐かしみます。
やがて経正に修羅の苦しみが襲ってきて、自らの苦しむ姿を見られることを恥じた経正は、灯火を吹き消し行慶の前から消え失せたのでした。

死んだ後も、自分の苦しむ姿を見られたくないという少年心が何とも切ないですねえ・・・。


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最後に、仁和寺にまつわる太平洋戦争末期のエピソードを、ひとつ。

日本が敗戦濃厚となった際、当時の首相だった近衛文麿が昭和天皇を仁和寺に迎えて出家してもらうことで、難局の事態を収拾し、国体護持をはかろうとしたという逸話が残っています。
しかも仁和寺の近くには五摂関家の筆頭でもあった近衛家に伝わる20万点におよぶ古文書や古美術を保管する“陽明文庫”(昭和13年(1938年)設立)があり、また仁和寺の「霊明殿」の扁額は近衛文麿の揮毫で、後に自殺した近衛にとっては絶筆だったともいわれていて、昭和天皇の出家画策の噂もまんざら嘘ではなさそうです。





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