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智積院 その1

2011年08月08日 00:40

東大路七条にある智積院は、真言宗智山派の総本山です。

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〈総門(東福門院の旧殿の門を移築)〉

もともとは和歌山にある根来寺の塔頭に過ぎなかった智積院でしたが、天正13(1585)年の豊臣秀吉による根来攻めの際に難を逃れ、根来寺を後にします。学頭でもあった玄宥僧正を先頭に高野山や京都の各所を転々とし、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した翌年の慶長6(1601)年、家康の加護によって現在の地に再興されました。

DSC03204_R.jpg 〈大書院〉

その後、元和元(1615)年に大坂の役で豊臣家が滅ぶと、秀吉が三歳で夭折した嫡男・鶴松の菩提を弔うために建てていた大寺院・祥雲禅寺(しょううんぜんじ)の寺域が徳川家によって智積院へと寄進され、現在の広大な境内の礎が出来上がったのです。

秀吉の根来攻めに始まった智積院の苦難の流転は、豊臣家の滅亡とともに広大な伽藍を得るという、なんとも皮肉な寺の歴史の始まりでした。

拾遺都名所図会「智積院」 - コピー
〈『拾遺都名所図会』天明7(1787)年刊行より 智積院〉

しかし、もともとの智積院は根来寺にあった“学問所”としての塔頭寺院で、再興によって大寺院へと変貌を遂げた洛東の地においても江戸時代を通じて学問の寺としての性格を色濃く反映していきます。それが、“学山智山(がくざんちざん)”といわれる由縁で、庶民の信仰を集める寺としてではなく宗侶養成の役割を一身に担ったのです。

江戸の最盛期には名だたる学匠(先生)が名を馳せ、真言宗に限らず宗派を問わない1600名もの僧侶が全国各地から、この洛東の地に集ったのだとか。“朝がゆをすする音が七条大橋まで届いた”ともいわれています。
今も境内の東奥には「学侶墓地」という、江戸時代に智積院内で修行をし、そして志し半ばで亡くなった僧侶たちの墓碑が整然と列べられた一画があります。

DSC03257_R.jpg 〈学侶墓地〉


この智積院、江戸時代から現代にいたるまで、たびたび火災の難に遭っていて、創建当時から残っているのは長谷川等伯の障壁画と、豊臣の謳歌を思わせる祥雲禅寺時代から引き継いだ庭園のみ・・・。


もともとの「金堂」は桂昌院(徳川五代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を元に学侶からの寄付金をあわせて、宝永2(1705)年に建立されたものの、明治15(1882)年の火災により焼失。

DSC03231_R.jpg 〈金堂〉

現在の「金堂」は弘法大師空海生誕1200年の記念事業として昭和50(1975)年に建てられたコンクリート造りの大伽藍です。

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また、金堂の南隣に建ち不動明王が祀られている「明王殿」は、昭和22(1947)年の火災により旧本堂(方丈殿)が焼失した際に、京都四条寺町(現在の高島屋)にあった浄土宗の大雲院の本堂を譲り受け、移築した建物です(ちなみに大雲院はその後、円山公園南にある大倉喜八郎の別荘だった地に移転し、現在は祇園閣を所有していることでも有名ですね)。

DSC03229_R.jpg 〈明王殿〉


庭園に隣接する「講堂」は、興教大師850年遠忌記念事業として平成7(1995)年に完成したもの。祥雲禅寺の法堂があった建物でしたが、天和2(1682)年に焼失し、その後、幕府から与えられた東福門院の旧殿・対屋を基に、貞亨元(1684)年に再建されるものの・・・またしても昭和22(1947)年の大火災によって焼失してしまったのです。

DSC03271_R.jpg 〈講堂〉


空海の像を安置する「大師堂」(寛政元(1789)年建立)や、中興の祖・興教大師覚鑁像を安置する「密厳堂」(寛文7(1667)年建立)は火災の難には遭わなかったものの、現在は「これより先は修行中につき、立ち入りを禁止します。」の札により間近で見ることはできません・・・。

DSC03245_R.jpg 〈大師堂〉



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智積院 その2

2011年08月08日 00:41

さて、たびたびの火災に遭い伽藍も比較的新しい智積院にあって、誇るべき見どころといえば・・・そう、長谷川等伯の障壁画と、名勝庭園です(ここから先は拝観に大人500円がかかってしまいますが・・・)。


桃山時代に豊臣秀吉の命によって長谷川等伯一派が描いた金碧障壁画は、当代一の大寺院であった祥雲禅寺の客殿を飾っていました。そして、度重なる火災の際にも、僧侶たちがその障壁画を真っ先に担いで逃げ延び、現在に伝わってきたのですが・・・しかし・・・、

DSC03262_R.jpg 〈収蔵庫の入り口〉

収蔵庫のちゃっちいこと、といったら(苦笑)。しかも入り口の横にはモップが置きっぱなしで・・・。
さらに「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」等の国宝の障壁画は、豪華絢爛とは程遠い色褪せようで・・・ガッカリです。


一方、“利休好みの庭”として知られる名勝庭園は確かに、いいです。

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この庭園は祥雲禅寺時代に原型が造られていたものを、第七世・運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭として『都林泉名勝図会』(寛政11(1799)年刊行)にも紹介されています。

都林泉名勝図会「智積院」 - コピー
智積院〔養源院の東にあり、真言新儀派、開基正憲法印。此地初めは豊太閤御子棄君菩提の為に創建ありて、祥雲禅寺と号す。厥后故障ありて妙心寺玉鳳院に移す、事は四巻妙心寺の部に見えたり。将軍家より覚鑁派断絶を惜み、初瀬に小池坊を創し、当院をこゝに建る〕
原当院は法住寺殿の古蹟、北は滑谷妙法院を限り、南は新態野瓦阪を限る。林泉は東に翠巒層々として深林の中に宝閣寂々たり。客殿書院倶に百花の図長谷川等伯の筆、玄関松に鶴の画も同筆なり、みな惣金極彩色なり、艸木の絵の屏風一双も極彩色にしてこれも等伯の筆なり、生涯の奇筆にして世に比類なし。
〈『都林泉名勝図会』寛政11(1799)年刊行より 智積院〉

なんでも、「正面右側より奥は祥雲禅寺時代のもので桃山時代の特色ある刈込みを主体」とし、「中央の築山は阿弥陀ヶ峰の山麓を利して造られたもので、江戸好みの感じをだしてい」るのだとか。

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説明書きには「庭には歩く庭、立見の庭、座っての庭とありますが、この庭は座って見る庭で名勝庭園の中でも傑作の一つに数えられます」とありましたが、書院の中程から座って見る景色は確かに色鮮やかでありつつも幽玄そのもの、といった感じ。ただし、団体観光客と鉢合わせると・・・そんな風情はあったものではないかも、デス。

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〈国宝の障壁画がかつて飾られていたのは、ここにあった大書院。庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいます〉


さて、智積院の寺紋は「桔梗」ですが、これは秀吉の家臣であった加藤清正の家紋にちなんでいます。

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智積院に下げ渡された祥雲禅寺は築城の名手・清正によって建てられたもので、あまりの伽藍のすばらしさに敬意を表し、そのまま加藤家の紋が使われているのだとか。


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〈大書院の玄関から連なるのが七条通り〉





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