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大覚寺 その1

2011年08月01日 22:26

「写経」と「いけばな」で有名な大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある真言宗大覚寺派の大本山です。

太秦から近く、寺の境内地でもある大沢池が時代劇のロケに頻繁に使われることから、京都では馴染みの深い大寺院ですが・・・、たまに紫野にある大徳寺(臨済宗大徳寺派の大本山)と混同したりもします(苦笑)。

DSC02025_R.jpg 〈大門〉

もともとは嵯峨天皇(786年―842年)の離宮「嵯峨離宮」が起源の、1200年ほど前にまで遡ることのできる由緒正しき門跡寺院なのです。

DSC02022_R.jpg 〈式台玄関〉

貞観18(876)年に嵯峨天皇の皇女・正子内親王(淳和天皇の皇后)が離宮を寺に改め大覚寺となって、淳和天皇の皇子・恒貞親王(恒寂入道親王)が初代の住職に就きました。これが門跡寺院の始まりです。

拾遺名所図会「大覚寺」 - コピー
〈『拾遺都名所図会』(天明7(1787)年刊行)より 大覚寺〉

天明年間の図と現在とでは、伽藍の数も配置も少し違っています。

大覚寺の宮は真言宗にして、仏殿には五大尊を本尊とす、弘法大師の作り給ふとなり。開基は恒寂法師。〔淳和帝第三の皇子なり〕代々ゝ法親王御住職し給ふなり。〔嵯峨天皇の故宮を精舎として大覚寺と号す、三代実録に見えたり〕菖蒲谷といふは大覚寺の北にあり。〔小松中将惟盛卿の君達六代御前北の方姫君など、此ところに忍んであはせし所なり〕八角堂は大沢の西にあり、後宇多院の陵なり。〔内に五輪の石塔あり、昔は堂の形八角なり、今も其名を呼ぶ〕相沢池〔広沢大沢の中にあり〕長刀坂〔其北にあり〕僧正遍照の旧跡〔此ほとりにあるよし、古書に見えたり〕
新続古  夕暮は秋のさがのゝ鹿のねに山もと深き露ぞこぼるゝ      忠定
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 大覚寺宮〉


建物もなかなかに寺院の伽藍としては個性豊かで、雅やかな皇室ゆかりの建物ばかりです。

DSC03087_R.jpg 〈正面が唐門〉



江戸時代に後水尾天皇より大覚寺に下賜されたのが寝殿造りの「宸殿」。

DSC01931_R.jpg 〈宸殿〉

入内した徳川二代将軍秀忠の娘・東福門院和子が、女御御所の宸殿として使用していたもので、蔀戸の装飾も豪華。

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「御影堂(心経前殿)」は、大正天皇即位式の際に御所に建てられた饗宴殿を式後の大正14(1925)年に移築したもの。

DSC02019_R_20110731134505.jpg 〈御影堂(心経前殿)〉

内陣には嵯峨天皇、秘鍵大師(弘法大師)、後宇多法皇、恒寂入道親王と、大覚寺の歴史に大きな役割を果たした人物の尊像が安置されています(後宇多法皇は大覚寺で院政を行い、伽藍を整備したことから中興の祖とされているのです)。

DSC02000_R_20110731134505.jpg

入母屋造りの立派な建物ですが「心経前殿」という通り、「勅封心経殿」の拝殿の役割を果たしています。

DSC01959_R.jpg



本来の本堂で、本尊の五大明王を祀る「五大堂」は、江戸時代の天明年間の再建。

DSC03144_R.jpg 〈五大堂〉

中では毎日、参拝者が写経できるように外陣に長机と椅子が列べられ、斬新なのはエアコンが完備され快適だということ(笑)。

DSC01982_R.jpg

建物の東側には、池に張り出すように濡縁があって、大沢池が一望できます。御影堂が大正期に移築されるまでは、伽藍の中心部にあったものが、御影堂が新しく建つことによって東側に移されたのです。



「正寝殿(客殿)」は幾たびかの再建を経て、現在の建物は桃山時代様式の書院造り。

DSC01946_R.jpg 〈正寝殿(客殿)〉

再建されたとはいうものの、まさにここが、永きにわたる南北朝の争乱を治めるため、元中9(1392)年に後亀山天皇(南朝)と後小松天皇(北朝)との講話が成立し、南朝から北朝へと三種の神器が引き継がれた場所なのでした。

DSC03114_R.jpg 〈正寝殿(客殿)の内部〉



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大覚寺 その2

2011年08月01日 22:27

さて、大覚寺がどうして“心経写経の根本道場”と呼ばれるのかというと・・・、

伽藍の中心部にある「御影堂(心経前殿)」の裏手(北側)にはコンクリート造りの八角形の校倉造風の建物があります。

DSC01965_R.jpg 〈勅封心経殿〉

大正14(1925)年に再建された特に目を引く建物ではありませんが、これこそが大覚寺の真髄である「勅封心経殿」なのです。

法隆寺の夢殿を模したこの建物の中には嵯峨天皇をはじめ後光厳・後花園・後奈良・正親町・光格と六天皇直筆の般若心経が収蔵されていて、もちろん内部は非公開。扉が開けられるのも60年に一度とのこと。

空海が嵯峨天皇の信任を得て、宮中に真言密教を広めたことは周知の事実ですが(東寺が空海に下賜されたのも嵯峨天皇によってでした)、弘仁9(818)年に疫病が大流行した際、嵯峨天皇が空海の勧めに応じて般若心経の写経をすることで疫病はたちまちに治まったといいます。

またその後の歴代天皇も嵯峨天皇の写経に倣って、国の異変、天災のたびに自ら筆をとって国の平静を祈願し、さらに時を経て、嵯峨天皇や歴代天皇の直筆の般若心経は、都に悪疫の流行や大飢饉の際に開封され、宮中の人々が拝見し、国の安泰を願ったのだとか。

そして、今も「勅封心経殿」に納められている天皇直筆の「般若心経」はところどころ文字が欠損しているらしいのですが・・・それは、“宮中の人々が文字を洗って飲んで?!”、病気平癒を祈ったからだともいわれています。

しかし大覚寺側のアピール不足なのか、この建物の前に建つ「御影堂(心経前殿)」の存在感が大きすぎるのか、参拝者で足を止めて、天皇直筆の写経に思いを馳せる人はほとんどいません・・・。昔の宮中人はその文字を洗って飲むほど、すがったというのに(苦笑)。


もうひとつの大覚寺の特徴「いけばな」も嵯峨天皇の時代に遡ります。

都名所図会「大沢池 大覚寺」 - コピー
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 大沢池 大覚寺〉

大覚寺の境内の東にある大沢池は、嵯峨離宮の造営にあたって中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が造った庭園の名残。日本最古の人造湖です。

DSC03146_R.jpg

たびたびこの池で船遊びに興じていた嵯峨天皇が小島に咲いた菊を手折り花瓶に挿したところ、その姿が仏教の花を献じる供花と相まって、“いけばな嵯峨御流”として今日にまで続いているのだとか。

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〈嵯峨天皇が野菊を手折ったとされる「菊島」〉

寺院と華道はいにしえより深い関係にはありますが、嵯峨御流は仏教寺院が主宰する華道の流派の中でも、かなり有名な流派と言えます。境内のいたるところに花も活けてあって「いけばなの寺」としてのアピールは上々。



大沢池の北東にあり、嵯峨離宮庭園の遺構として有名なのが「名古曽の滝跡」。『百人一首』で「滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ」と藤原公任によって詠まれた滝跡です。平成6(1994)年からの発掘調査で中世の遺水が発見され、平成11(1999)年に復元が完了したとはいうものの・・・ただ石が転がっているだけです・・・。

DSC03171_R.jpg 〈名古曽の滝跡〉


池のほとりに映える真紅の宝塔ですが、古い建物ではありません。昭和42(1967)年、嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立されたものです。

DSC03155_R.jpg 〈心経宝塔〉


DSC02040_R_20110731134504.jpg 〈大沢池の蓮の花〉





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