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それでも私は行く

2011年07月31日 00:58

それでも私は行く 著者・織田作之助 1946年

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〈1956(昭和31)年発行の現代社版『それでも私は行く』〉

面白みも、ひねりもない地味なタイトルですが、織田作之助が京都を舞台にした作品としては『土曜夫人』(1946年)とともに有名な一作です。

初出は昭和21(1946)年4月25日から7月25日まで、三ヶ月にわたって夕刊紙「京都日日新聞」に連載された新聞小説。織田作之助が亡くなる一年前、32歳の時の作品です。

京都を舞台にした連載小説が京都の地元紙に掲載されたのは初めてのことで、しかも著者がすでに流行作家となっていた織田作之助だったことからかなりの反響を呼び、次の読売新聞連載となる『土曜夫人』につながったようです。


主人公は先斗町のお茶屋「桔梗屋」の息子で三高に通う梶鶴雄。先斗町界隈で知らぬものはいないという評判の美少年。
町では戦災罹災者を見かける中で、お茶屋の息子という境遇に負い目を感じているのか、何かにつけてシニカルな態度をとり、その日の一日の予定もサイコロの目で決め、町を彷徨って無為に過ごすという気ままな学生なのです。

そんな主人公の梶鶴雄が、スタンダールの『赤と黒』を愛読する女スリ師・弓子と出会い、さらに彼を慕う芸妓の君勇や舞妓の鈴子を巻き込んで、最後には“新円成金”として花街で奔放に振る舞う小郷虎吉の殺人事件に関係してしまうというサスペンス仕立ての展開なのですが・・・。

DSC04414_R.jpg 〈先斗町〉

梶鶴雄と知り合うという設定で小説家の“小田策之助”(もちろん著者の織田作之助自身のことです)が登場し、鶴雄を主人公に『それでも私は行く』という題名の新聞小説を書くというメタフィクションの体裁をとっているのですが、著者の分身“小田策之助”が「残念だが、通俗小説だね。夕刊新聞小説は通俗小説でなくっちゃ読まれないし、だいいちこう偶然が多くっちゃね」と作中で苦言を述べているとおり、あまりに都合のよい予定調和的な物語の展開は、お世辞にもよくできた作品とは言い難いです(苦笑)。

それでも、戦前・戦中の抑圧された時代からの反動なのか、登場人物の姦通や、出戻りの女性が学生の主人公を誘惑するシーンや、京都のヤトナ(雇われ仲居)の実態が赤裸々に描かれ(よく戦後すぐの新聞小説でここまで書けたものです)、そして何よりも戦後間もない京都の風俗、町の雰囲気が、当時実在した地名や店、建物をそのまま登場させ直截的に表現したことで浮き彫りにされ、発表当時話題となった要因であることは想像に難くありません。

四条通りはまるで絵具箱をひっくり返したような、眩しい色彩の洪水だった。
去年の八月まで灰色の一色に閉ざされていたことが、まるで嘘のようなはなやかさである。
学生たちがセンター(中心)と言っている三条河原町に夜がするすると落ちて来ると、もとの京宝劇場の、進駐軍専用映画館の、「KYOTO THEATER」の電飾文字の灯りが、ピンク、ブルー、レモンイエローの三色に点滅して、河原町の夜空に瞬きはじめる。
丁度それと同じ頃だ、キャバレー歌舞伎の入口の提灯に灯りがはいるのは――。
提灯の色はやはりピンク、ブルー、レモンイエローの三色だ。
ここはもとアイススケート場だった。
アイススケート場が出来た頃、朝日会館と並んで、三条河原町の最もハイカラな建物といわれたが、しかし、今そのハイカラな建物に古風な提灯がついている。
これが京都なのだ、今日の京都だ。
と、終戦後一年目の京都の風景とは思えない鮮やかな描写がふんだんに紙面を彩っていました。

章立ても「四条河原町」「木屋町」「寺町通り」「下鴨」「先斗町」「三条河原町」「蛸薬師」「高台寺」「京極」と京都の“目抜き通り”ばかりをタイトルにしていて、いかにも一般大衆受けを狙った感もあって・・・。


さて、以下の文章は、先斗町の芸妓・君勇の元旦那で戦前は大阪で名の知れた呉服屋の主人であった三好が、呉服が統制に引っかかり、空襲で店も家も商品も焼かれて、裸一貫となって、それでも未練たらしく、君勇の姿を追って京都を彷徨っている時の様子です。
夜の木屋町は美しかった。
「べにや」の軒の長い赤提灯、円いピンク・ブルウ・レモンイエローの提灯の灯りが、高瀬川の流れに映って、しみじみと春の夜更けの感じだった。
三好は、キャバレー歌舞伎を出て先斗町へ戻って行く君勇や鈴子や小郷のあとを、ひそかに、しかし執拗につけて行きながら、そんな木屋町の美しさが、かえって恨めしかった。
焼けた大阪とくらべて、何という違いだろう。
かつて、京都は大阪の妾だといわれていた。大阪あっての京都であった。それほど、京都は古障子のように無気力であった。
ところが、今や古障子の紙は新しくはりかえられて、京都は生々とよみがえっている。
旦那の大阪が焼けて、落ちぶれてしまうと、当然妾の京都も一緒に落ちぶれるかと思われたのに、旦那と別れた妾の京都は今は以前にもまして美くしく若返り、日本一の美人になってしまっている。
それが、三好には恨めしかったのだ。
「ちょうど、おれと君勇の関係みたいなもんや」
三好は、焼けなかったことが京都の幸福であると同時に、京都の不幸であることを知らず、ひたすら羨しがっていた。
焼けなかった京都が、その幸福に甘んじていい気になっておれば、やがて焦土の中から起ち上ろうとする大阪の若々しい復興の力に圧されてしまって、再び大阪の妾となる日が来るのだ――ということを知らなかった。
「今にみろ、おれかテもう一ぺんあの女を妾にしたる」
という気力は、もう三好にはなかった。

DSC00922 (2)_R 〈木屋町の高瀬川〉

この文章を読めば、やはり「オダサク」は大阪を代表する作家なのだと実感できます。もちろん『夫婦善哉』で作家として名をなした織田作之助自身も大阪を背負っている自負を持っていたのでしょう。しかしこの作品では、空襲で壊滅してしまった大阪の復活を待ちわびつつも、青春時代を過ごした京都を舞台に、しかも主人公の梶鶴雄に自らの青春の影を仮託し、彼自身にとって懐かしい思い出の場所を描き、おもしろがって書いていた印象は存分に伝わってきます。

作品中には、チョイ役としてではあるものの、フランス文学者の伊吹武彦を“山吹正彦”、桑原武夫を“桑山竹夫”、吉村正一郎を“吉井正太郎”、ドイツ文学者の大山定一を“中山定二”として登場させる遊び心があったり、それでいて、これらの三高出身の学者が一堂に会している寺町錦角の錦ビル四階にある“世界文学社”は実名で登場していたりして・・・といった、実在と虚構の混ざり具合が、なんともチープで、サービス精神旺盛なのです。
このビルは終戦直後は進駐軍専門の土産物のマーケットで「一般の人ご遠慮願います」という貼紙が出ていたが、そんな経営法もいつか立ち行かなくなったか、一階二階はいわゆる「一般人」相手の雑貨店、二階のすみには喫茶店三階は料理店や美容室――というややこしい経営法に変ってしまっていた。
世界文学社の事務所はこのビルの四階にあった。
世界文学社が入っていたのは「錦ビル」。ちなみに世界文学社は昭和20年代の10年間ほど何度かの移転を繰り返しつつも翻訳本の出版を中心に活動し、また伊吹武彦を編集長とする雑誌『世界文学』を発行し、その中では織田も執筆していました。社長の柴野方彦は織田と三高の同級生で、かつて織田と青山光二らが創刊した雑誌『海風』の同人だった人物でもありました。


織田作之助の作家としての不幸は、この程度の作品が話題となってしまうまでに大作家となってしまっていたこと・・・でしょうか。
とはいえ、つづけて読売新聞に同じ手法の通俗小説『土曜夫人』を連載中に大喀血をし致命傷となって連載中の作品は未完となるのですが、『土曜夫人』の第二部は東京を舞台に構想していたようで、やはり京都という町は「オダサク」にとって、青春時代も、大作家となってからも“通り過ぎる町”でしかなかったのでしょう・・・。だからこそ、ピンクやブルウやレモンイエローの提灯の灯りが、そこに住む人々よりも鮮明に映り、しみじみとした旅情で描くことが出来たのです。



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織田作之助と京都 その1

2011年07月31日 00:59

織田作之助と京都


織田作之助を語る上で外せないのが、青山光二。
そう、このブログで紹介した奇人哲学者“土井虎”こと土井虎賀寿をモデルにした小説『われらが風狂の師』(1981年、新潮社刊)の著者、その人です。


青山光二は1913年(大正2)2月生まれ。1930(昭和5)年に第三高等学校文科甲類に入学。同学年には田宮虎彦や戯曲家の森本薫(『女の一生』の作者)がおり、一年の終わりに文芸部の投書箱に「廻る」という30枚ほどの習作を投函し、それが『嶽水会雑誌』(三高の文芸部が編集していた校友誌で、かつては梶井基次郎の「矛盾の様な真実」も掲載されていました)に載ったことから、文学の道を本格的に志すようになります。その時、二年生で文芸部の編集にあたっていたのが西口克己でした。
『嶽水会雑誌』は四、五人の文芸部委員が合議して編集するのだったが、私の幼稚な作品の掲載をきめたのは西口克己であるらしかった。西口は当時は難解でハイカラな詩を書いていた。後年、『廓』にはじまる、誰にでも読める小説を書くようになるとは思いもよらなかった。
〈青山光二『懐かしき無頼派』所収「京都・文学的回想」より〉

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〈『懐かしき無頼派』著者・青山光二、1997年、おうふう刊〉


青山光二より一年遅れて1931(昭和6)年に三高文科甲類に入学してきた織田作之助でしたが、青山が二年の9月から肺尖カタルを口実に一年間休学したこともあり、初めての出会いは1933(昭和8)年10月にふたりが三年生になったドイツ語の試験会場で。
織田の方から「青山君でしょう? こっちへ来ませんか」と声をかけます。一年間の休学でドイツ語を忘れてしまっているであろう青山を気遣いカンニングの手はずを整え、自分の後ろの席に青山を座らせたのをきっかけに、33歳で織田が亡くなるまで終生無二の友人としての付き合いが始まったのです(ちなみに、その際のカンニングは失敗に終わったようです(笑))。

そして、もうひとり織田を文学的指向(当初、織田は小説ではなく戯曲に傾倒していたようです)に導いた人物が、織田と同年に三高の文科甲類に入学し、在学中から詩誌『椎の木』(主宰・百田宗治)同人として活躍していた詩人・白崎礼三でした(白崎は太平洋戦争末期、30歳にして肺結核で亡くなりましたが、後年、1972年に富士正晴と青山光二の共編で『白崎禮三詩集』が刊行されています)。

つまり、織田作之助を文学の世界に引っ張り込んだのが白崎礼三で、当初は劇作家志望だった織田を小説家志望へと転身させたのが青山光二だったのです。

年三回発行されていた校友誌『嶽水会雑誌』の合評会が寺町の鎰屋(梶井基次郎の作品で有名な鎰屋ですが、当時の三高生御用達の店でした)で行われた1934(昭和9)年1月。三年生の青山と織田が編集を任されていて、当時二年生の野間宏の投稿小説について、その席では激しいやりとりがあったようです。
その号には、野間宏が小説を書いていた。野間は文芸部員ではなく、原稿も募集に応じて投稿して来たものであった。はじめに織田が読んでダメだと言っていたのを、私がこれはいいと主張して載せたのだった。
野間は会が始まる頃になってから、のちに彼の義兄となった富士正晴といっしょに、のっそりとはいって来た。野間は長いマントを羽織った陰鬱な表情の生徒で、会のあいだじゅう、ほとんど一言も口をひらかなかった。代わりに富士が、野間の分も二人分、いやそれ以上も、威勢のいい調子で弁じ立てた。富士は詩を発表していた。
〈青山光二『青春の賭け 小説織田作之助』所収「漂白」(初出は「中央評論」昭和25年11月号)〉

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〈『青春の賭け 小説織田作之助』著者・青山光二、2010年、講談社文芸文庫〉

その席で初めて、病気療養中で合評会のためだけに故郷の敦賀から出てきた白崎が青山と対面。その夜、織田も含めた三人で新京極・四条界隈の喫茶店や飲み屋を歩き回り文学談義に花を咲かせ、円山公園の円山食堂で夜を明かし、三人は終生の友人となったのでした。
その頃、三高生がよく行った酒のみ場所は、新京極裏の正宗ホール、四条大橋西詰の八百政、たまには南座前の菊水などだったが、あまり酒を飲まない私たち三人は喫茶店をハシゴすることの方が多く、四条河原町の長崎屋あたりが街あるきの出発点だった。長崎屋の近くの路地の「ヴィクター」というほの暗い店や、河原町三条の「リプトン」へも毎日のように行った時期がある。
〈青山光二『懐かしき無頼派』所収「京都・文学的回想」より〉
DSC04937_R.jpg 〈南座前の「菊水」〉

しかし、三人のうちで青山光二は順調に卒業し東京帝国大学文学部に入学するものの、織田は五年も通ったにもかかわらず、試験結果がかんばしくなかった上に、出席日数も少なかったため卒業できず、白崎も織田に同調してか、同じように三高中退という経歴に付き合う羽目となりました。
そして青山が東京で学生生活を送り、織田と白崎が京都に残ってまだ三高の三年生をしていた時に、織田と知り合ったのが後に彼の糟糠の妻となる宮田一枝でした。

三高近くの酒場「ハイデルベルグ」の住み込み女給だった彼女に一目惚れした織田は、その酒場に通い詰め、ふたりで織田の下宿に住む同意を彼女から得ます。しかし、彼女にはすぐに実行出来ない訳がありました。宮田一枝は「ハイデルベルグ」を経営していた映画監督・徳永フランクに借金があったのです。
宮田一枝は徳永フランクからいくらかの金を前借した上で「アルト・ハイデルベルグ」に住込んでいるようだった。同様な身分の女性と二人で、二階に寝泊りしていたのだが、それを知った作之助は、深夜、彼女を「アルト・ハイデルベルグ」の二階から脱出させることを計画した。(中略)ある夜更け、瀬川がどこかから調達して来た梯子を「アルト・ハイデルベルグ」の横丁に面した壁に立てかけ、一枝の身の廻りの物をつめこんだ柳行李を窓から紐で吊して地面へ降ろし、次に一枝自身が梯子をつたって降りるのを二人で手伝った。一階には徳永フランク夫婦が住んでいるので、こうするのがいちばんてっとり早い脱出方法だった。
〈青山光二『懐かしき無頼派』所収「一通の書簡から」より〉

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〈「ハイデルベルグ」のあった場所は「東大路通東一条」交差点の西〉

瀬川とは織田と同級の瀬川健一郎のことで、後に東大文学部から大阪毎日新聞社に入り、「小学生新聞」の編集長を勤めた人物です。1939(昭和14)年に織田と宮田一枝が結婚する際は独身にもかかわらず媒酌人をつとめました。
どうやらこの脱出劇の時には「こういう仕事には向かない」との理由で白崎は呼ばれなかったようですが、後に、織田が下鴨にあった宮田一枝の実家に求婚の申し出に行った際には友人のよしみで白崎が同行。しかし・・・あまり役には立たなかったようです。

ともあれ、「ハイデルベルグ」を脱出した宮田一枝と織田は、銀閣寺の終点近い線路に沿った通りに部屋を見つけて暮らし始めます。かといって貧しい実家に金を入れなければならない一枝は遊んでいるわけにもいかず、彼らの部屋とちょうど向かい合った、広い電車通りを隔てた場所にある酒場「リッチモンド」に勤めるようになるのです。しかし女給という仕事柄、彼女に言い寄る三高生や京大生も多く、織田の嫉妬や焦燥も募って一枝に暴力を振るったりすることも、たびたびあったようで。同棲当初、織田が一枝に暴力を振るっていたという話は、1944(昭和19)年に30歳で一枝を亡くした時の織田の悲しみぶりからは想像できない逸話です。

DSC01656_R.jpg 〈銀閣寺道〉

さてその後、織田作之助は・・・、青山光二が呼びかけ人となり、東大生の柴野方彦や深谷宏と、三高に残っていた白崎礼三らと同人誌『海風』を創刊。三高を中退した織田は日本織物新聞社や日本工業新聞社(現・産業経済新聞社)に勤めながらも『海風』で作品を発表し続け、1939年9月の『海風』6号に「俗臭」を発表。これが第10回芥川賞候補となり注目を浴びます。そして1940年9月の『海風』10号に発表した「夫婦善哉」が改造社の第一回文芸推薦作品に推されて、作家としてやっていく自信をつけ新聞社を退社したのでした。



織田作之助と京都 その2

2011年07月31日 01:00

織田作之助と京都 その2


織田作之助にとって青春時代の詰まった京都を舞台にした『それでも私は行く』ですが、青山光二の著作の中でも、織田の足跡をなぞるように当時の様子が懐かしげに出てきます。

その隙に鶴雄はさっさと路地を出て行ったが、四条の電車通りを横切って、もとの「矢尾政」今は「東華菜館」という中華料理店になっている洋風の建物の前まで来ると、急に立ち停った。
〈織田作之助『それでも私は行く』より〉
おなじみ「東華菜館」はもともと西洋料理店「八尾政」でした。1926年にウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で生まれた建物が、1945年に北京料理店「東華菜館」となり、現在に至っています。

DSC04382_R.jpg 〈四条大橋西詰めの「東華菜館」〉


先斗町の芸者が常連として通う木屋町の南車屋橋(小説中では紅屋橋)のほとりにあった「べにや」(紅屋)というしるこ屋も登場。
この店のまわりは疎開跡の空地になっているが、ここだけは巧く疎開をまぬがれたらしい。店の軒には紅屋に因んだ赤提灯が、いかにも助かりましたという感じで、京都らしくぶら下っている。
〈織田作之助『それでも私は行く』より〉


三条河原町を西に行ったところにあった「そろばん屋」という名の書店は、1980年代中頃まで営業していたようです。
鶴雄は河原町の方へ歩き出した。アンテナをつけたM・Pのジープが通ったあと、三条河原町のゴーストップの信号が青に変った。
西へ渡って、右側のそろばん屋という妙な名前の本屋へ、鶴雄は何の気なしにはいって行った。
〈織田作之助『それでも私は行く』より〉
M・Pのジープや、ゴーストップの信号という言い方が、いかにも戦後ですネ(笑)。
私は三高生の頃、河原町三条の「そろばん屋書店」でツケがきいたので、新刊書のなるべく定価の高いのを棚から抜いて包んでもらうと、その足で寺町三条を上った古書店の京屋へ行き、半値近い値段で売っては軍資金をつくったものだった。
〈青山光二『懐かしき無頼派』所収「京都・文学的回想」より〉

DSC00938_R.jpg 〈三条河原町〉


今も三条寺町の角にある、すき焼き店「三嶋亭」。
「三島亭」は古い牛肉店で、戦争前は三高の学生たちがよくこの店でコンパを開いて、
「紅燃ゆる丘の花……」
という校歌やデカンショ節をうたいながら、牛飲馬食した。当時は会費は一円か二円で済んだという。想えば昔なつかしい青春の豪華な夢であるが、しかし、鶴雄が学校へはいった時はもうコンパなぞ開こうと思っても開けず、「三島亭」のコンパも、鶴雄にとってはもはや想像も出来ない古めかしい伝説であった。
〈織田作之助『それでも私は行く』より〉
おそらく織田作之助が三高に在籍していた時代は、たびたびこの「三嶋亭」でコンパを開いていたのでしょう。青山は次のように述懐しています。
寺町三条の三嶋亭などでクラスのコンパを催すと、会費は五十銭で、仲間入りさせられる教授は一円か二円といったところ。私も一時籍をおいていたラグビー部の、先輩もまじえた年に一度の大コンパなども三嶋亭で行なわれたが、歌ったり踊ったりで二階座敷の床が抜けそうな、盛大なものだった。
〈青山光二『懐かしき無頼派』所収「京都・文学的回想」より〉


蛸薬師富小路にあった旅館「ちぎりや別館」(千切屋別館)での小田策之助こと織田作之助の生活の様子も出てきます。この時、織田の実生活では、二人目の妻となるソプラノ歌手の笹田和子と結婚し、妻の実家である笹田家に同居していたものの、二ヶ月ほどで家を飛び出し一方的に婚約を解消。京都に赴き「ちぎりや別館」をはじめ三条河原町の「秋田屋」、京都日日新聞が執筆のために用意した木屋町仏光寺の「大つる」、河原町二条上がる銅駝中学校(現在の銅駝美術工芸高校)裏の「鴎涯荘」などを移り住むという放浪生活を送っていました。そして一方では輪島昭子という元女優の愛人がいて、他方では三条河原町のキャバレーのダンサーに「織田の子を孕んだ」といわれて金をせびられそうになったりして・・・。
笹田家を出た理由も、分身“小田策之助”の口からサラッと説明されています(笑)。
追い出されたんですか、だらしがないですねときくと小田は、
「家がないんで、女房の親たちと一緒に、養子みたいに暮していたんだが、おれのものの考え方がデカダンスだというんだね。デカダンスな男とは一緒に暮せないというんだ」
「デカダンスというと……?」
「頽廃のことだと、ひとは思っているらしいが、デカダンスというのは高級な思想なんだ。つまり、デカダンスというのは、あらゆる未熟な思想からの自由という意味だ。何ものにも憑かれない精神のことだよ。たとえばだね」
と、小田は新しい煙草に火をつけて、
「――林檎は実が円熟して地に落ちる時が一番うまいんだ。これがデカダンスだ。が、日本人って奴は、偏狭な道徳への思想に憑かれているから、青くても樹になったままの林檎の実が清潔で健全だというんだね。健全たア一体なんだい」
食って掛るような口調だった。
〈織田作之助『それでも私は行く』より〉

さすが、太宰治、坂口安吾とともに、“三無頼”と並び称された織田作之助らしいデカダンスの説明です(笑)。





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