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京都大学の近代建築 その1

2011年07月15日 00:29

京都大学の近代建築 武田五一

京都における建築シリーズとして伊東忠太を取り上げましたが、京都の建築物を語る上で欠かせない人物と言えば・・・そう、武田五一です。

しかし・・・この人、「関西建築界の父」と呼ばれるだけあって、京都にある作品だけでもかなりの数に上ります。

ということで、今回は武田五一の携わった建築物があり、他にも数々の名建築の宝庫でもある、京都大学の建築物をまとめて見てみましょう。

新撰京都名所圖會 巻一 京都大学 - コピー
〈新撰京都名所圖會 巻一 京都大学〉

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〈google earth より〉

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〈google map より〉

京都の大学でもとりわけ、京都大学と同志社大学は開学当初から同じ場所にあって、明治期からの多くのレンガ建築が残っていることで知られています。
同志社は田辺への移転が計画された当時、今出川のレンガ建築群の行方を心配する市民の声も多かったようですが、今もウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計に代表される美しい建物は健在です。
唯一の例外は、1991年に学校OBや多くの市民の反対を押し切って取り壊された同志社女子大学の静和館(1911(明治44年)完成)でしょうか・・・。しかも、この静和館は武田五一の設計でした(苦笑)。もったいないですねえ。


武田五一(1872(明治5)年―1938(昭和13)年)は、備後福山藩(現在の広島県福山市)に生まれ、5歳年長の伊東忠太と同じく東京帝国大学工科大学で“日本建築界の父”辰野金吾に学びます。
東大助教授になって間もなく、イギリスに留学。1903(明治36)年の帰国後は東大に戻らず、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となったことが、関西(特に京都)を中心に活躍するきっかけとなったのです。

WS000001.jpg 〈武田五一〉

1918(大正7)年にはいったん京都を離れ名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)校長となるも、1920(大正9)年には京都帝国大学に工学部建築学科を創設し、初代教授に就任。多くの後進を指導しながら、自らも晩年まで設計意欲は衰えませんでした。

残念ながら、関西を中心とした武田五一の活動が、彼の日本建築界における過小評価に繋がっているとの意見もあります。しかし、京都の目を引く建築物は、あれもこれも、武田五一の設計だったりするのです。


ちょうど、武田五一がヨーロッパに留学した1900年代初頭は、アール・ヌーヴォーそしてアール・デコといったデザインや意匠の新しい潮流が出てきた頃で、武田五一の一連の作品にはその風潮が色濃く映し出されています。



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京都大学の近代建築 その2

2011年07月15日 00:29

京都大学 工学部建築学教室本館(1922(大正11)年竣工)

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設計は武田五一の単独。

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京都大学初の鉄筋コンクリート造。アズキ色の落ち着いた色調が重厚感を醸し出し、白い窓枠を際立たせています。

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細かな意匠が、いかにもアール・デコっぽい(笑)。門灯も洒落ています。

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裏側(北側)にも曲面をもった壁面があり・・・、

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突き出した空間があったり。

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京都大学 百周年時計台記念館(旧本部本館、1925(大正14)年竣工)

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設計は武田五一・永瀬狂三・坂静雄。

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言わずと知れた京大のシンボル。長年、法経学部の講義施設として、また近年は本部事務局として使用されていた時計台が創立百周年記念事業の一環として免震工法を取り入れ、大幅に改修。外観や内装の雰囲気はそのままに2003(平成15)年12月、「百周年記念ホール」や「国際交流ホール」を備えた斬新な改装を経て、完成しました(同じような工法は京都府立図書館にも見られますね)。

WS000008.jpg 〈google earth より〉

かつて建物の背面にあった法経第一教室は京大で最大の教室で、滝川事件(1933年)の際には学生大会や、大学紛争時の団交の場としても使われました。東大の安田講堂と並び、西の学生運動の象徴です。

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時計台と対になった大学のシンボルであるクスノキですが、初代は1934(昭和9)年の室戸台風で折れてしまい、現在のものは二代目だそうです。





京都大学 保険診療所(旧電話拡張交換室、1925(大正14)年竣工)

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設計は武田五一と永瀬狂三。

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竣工の後、1931(昭和6)年と1936(昭和11)年の二度にわたる改修(増築)が行われているようです。

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小さな連続アーチ窓や張り出したアーチ形の庇が印象的。





京都大学 人文科学研究所(旧外務省東方文化学院京都研究所、1930(昭和5)年竣工)

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設計は武田五一と東畑謙三。

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京大キャンパスから少し離れた番外編です。場所は左京区北白川小倉町47番地。
武田五一のデザインである重厚さからは離れた、地中海風の建物(スパニッシュ・ミッション様式と呼ぶそうです)。東方文化学院京都研究所として建てられましたが、1949年から京大の施設となっています。

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京大農学部グラウンドの東南部に位置し、近くには花折断層が走る防災上安全とはいえない場所にもかかわらず、この瀟洒な建物があるために、まわりが高級住宅地となったともいわれています。



京都大学の近代建築 その3

2011年07月15日 00:30

京都大学の近代建築 山本治兵衛と永瀬狂三、そして大倉三郎

京都大学の多くの建築物営繕に携わったのが、山本治兵衛、永瀬狂三、大倉三郎の三名です。


山本治兵衛(1854(安政元)年―1919(大正8)年)は代々、江戸で大名屋敷の営繕に携わっていた家に生まれ、自身も長じて東京府庁土木課に入庁します。
明治草創期の河川整備、鉄道敷設に関わり、京都との関係で言えば文部省の営繕に属していた時に第三高等中学校(第三高等学校の前身)建設の現場責任者として名を連ねていました。
1898(明治31)年に京都帝国大学へ出張し、大学の創立工事の責任者を担当。その後、文部省技師として各地に続々と設立された旧制高等学校の工事監督を歴任し、1907年に京都帝国大学に創設された建築部の初代部長となったのです。

永瀬狂三(1877(明治10)年―1955(明治30)年)は東京帝国大学建築学科を卒業後、辰野金吾の設計事務所等で働いた後の1909(明治42)年に京都帝国大学建築部に入り、部長であった山本治兵衛の下、大学施設の多くの建築を手がけることになります。
1919年(大正8)年には死去した山本の後任として第二代建築部長(後に組織改編により営繕課長)となっています。1929(昭和4)年に大学を退職するまで大学の営繕を一手に引き受けていましたが、残念ながら学外の建築物は多くありません。

大倉三郎(1900(明治33)年―1983(昭和58)年)は、武田五一が創設した京都帝国大学建築学科の第一期卒業生でした。民間の建築事務所を経て1928年(昭和3)年から京都帝国大学営繕課に勤務し、1930年からは永瀬狂三の後の営繕課長に就任。1940年(昭和15)年に台湾総督府の技師営繕課長に転じるまで、京都大学の営繕に関わりました。後年は京都工芸繊維大学学長も務めています。




京都大学 学生部(旧石油化学教室本館、1889(明治22)年竣工)

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設計は、山本治兵衛(1922(大正11)年に増築され、増築部分は永瀬狂三の設計)。

もともと大阪にあった第三高等中学校(後の第三高等学校)が京都に移転してきた際に物理学実験場として建てられた京大に現存する最も古い建物。山本治兵衛が文部省の営繕に勤めていた時に現場責任者として設計した建物です。

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一階部分と二階部分とタイル(特に目地の白さ)の違いがわかるでしょうか。二階は1922(大正11)年に永瀬狂三の設計により増築された部分です。

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この建物のすごいところは、湯川秀樹(1907年―1981年)、朝永振一郎(1906年―1979年)、福井謙一(1918年―1998年)と三名ものノーベル賞受賞者を輩出したこと。別名“ノーベル賞の館”です。
ちなみに湯川と朝永は京都一中、三高、京都帝大が同窓という関係でもありました(年齢は朝永が一歳上でしたが、湯川が一学年飛び級したため三高、帝大では同学年でした)。

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京都大学 工学部電気工学教室本館(1900(明治33)年竣工)

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設計は、山本治兵衛と永瀬狂三。

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現在の本館は建て替えられ、竣工当時の面影は残念ながら玄関部分に残されているのみ。

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京都大学 医学部 旧解剖学教室本館(講堂)(1901(明治34)年竣工)

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設計は山本治兵衛。

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当初、医化学教室は時計台のある旧三高の位置にありました。しかし、この旧解剖学教室をはじめ医科学教室、講義室、実習室が現在地に建築され、1903年には本格的な教育が開始されることとなりました。
旧解剖学教室本館(講堂)は当時の様子を伝える最も古い建築物のひとつ。現在は扉が閉ざされたままです。
また、医学部正門横にある外観が同じ守衛室も同時期に建てられたものと思われます。

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レンガの煙突が特徴的。





京都大学 医学部 図書館第二書庫(旧解剖学教室標本室、1902(明治35)年竣工)

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設計は山本治兵衛。

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旧解剖学教室本館(講堂)と同時期に建てられたものですが、こちらは一転、レンガ建築。
1984(昭和59)年に大改修が行われ、半分ほどの大きさに縮小されました。



京都大学の近代建築 その4

2011年07月15日 00:30

京都大学 尊攘堂(文化財総合研究センター資料室、1903(明治36)年竣工)

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そもそもは吉田松陰が勤王の志士を祀るため、京都に尊攘堂の建設を計画していましたが、1859(安政6)年に刑死します。吉田松陰の門人であった品川弥二郎が師の志を受け継ぎ1887(明治20)年に高倉錦に尊攘堂を建造。勤王の志士の霊を祀り、収集した史料や遺品など納め、建物は人々の参拝の対象ともなっていました。

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品川の死後、知人たちによってその頃創立されたばかりの京都帝国大学に建物と資料を寄贈することが決定し、1903年に新築の建物として竣工しました。設計者は不明です。

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京都大学 学生集会所(旧第三高等学校学生控所、1912(明治45)年竣工)

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設計は、山本治兵衛と永瀬狂三。

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学生集会所のすぐ隣に建つのが京都大学吉田寮(かつての第三高等学校の寄宿舎)です。
現在も合唱団を初めとするクラブ活動の拠点として使用され、吉田寮とともに学生の自治の象徴として健在ですね。

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京都大学 文学部陳列館(1914(大正3)年竣工)

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設計は山本治兵衛と永瀬狂三。

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文学部の収集資料を収蔵する建物。一見地味な建物ながらも、ペディメント(日本建築で言う破風)や楕円形の小窓、棟上げの小塔など凝った作りがなされています。

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シックな外壁に対して、緑色の窓枠、扉の色使いが際だっています。特に青銅色のエントランスとの色使いは絶品。

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京都大学 医学部 旧生理学教室研究室(1914(大正3)年竣工)

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設計は山本治兵衛と永瀬狂三。

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1917年竣工の工学部土木工学教室本館とよく似た設計。ただし、こちらは小建築物のためか瓦葺屋根となっています。

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京都大学 留学生ラウンジ(旧防災研究所事務室、(1916(大正5)年竣工)

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設計は山本治兵衛・永瀬狂三。

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京都大学の近代建築 その5

2011年07月15日 00:31

京都大学 工学部土木工学教室本館(1917(大正6)年竣工)

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設計は山本治兵衛・永瀬狂三。

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大正期の京都大学の赤レンガ建築の代表。明るめの赤レンガと真っ白な花崗岩のコントラストが構内でも一段と映えています。

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かつての工学部電気工学教室本館と似た意匠を持ち、変わり果てた電気工学教室本館の旧観は、この土木工学教室本館からうかがうことができそうです。

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建物の裏側(北側)です。木々の緑と赤レンガの色彩が実にすばらしい。

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この階段のデザイン! しかも地面すれすれの位置にまでこだわりがっ!

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ちなみに・・・、映画「廓育ち」(監督・佐藤純彌、1964年)で主演・三田佳子の恋人・新田を演じる梅宮辰夫が研究室として通っているのがこの建物でした。





京都大学 医学部 E棟(1928(昭和3)年竣工)

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設計は永瀬狂三。

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京都大学には珍しいモダン建築。永瀬狂三が京都大学営繕課を辞める直前の作品です。





京都大学 農学部演習林旧本部事務室(1931年(昭和6)年竣工)

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設計は大倉三郎。

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スパニッシュ瓦を用いたバンガロー風の木造建築。外周や中庭にベランダを配し、牧歌的風情を漂わせています。
事務室はもちろん、会議室、図書室としても当時は使用されていました。





京都大学 法経済学部本館(1933(昭和8)年竣工)

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設計は大倉三郎。

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鉄筋コンクリ-ト造三階建ての建物ですが、当初は西面のみを竣工し、その後1953(昭和28)年にかけて順次増築されました。

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法経済学部本館_R
〈google earth より〉





おまけ・・・・・・

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工学部土木工学教室本館の裏手にあるのが、この石造りの階段です。
すごいバランスで立っているようですが・・・昇っても大丈夫なのでしょうか(笑)。

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さて、この階段は京都大学の中でも知る人ぞ知る構造物のひとつで、実はテニスの審判台なのです。
土木工学教室本館が造られた1917(大正6)年当時に、同時に造られたとも言われていますが・・・本当でしょうか。

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かつてコートがあった場所は、今では砂利敷きのガレージと化していて、この石の審判台とネットを張るための錆び付いたポールが遺っているのみ・・・。

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いつまでも遺しているところを見ると、それなりに皆さん、この存在をおもしろがっているのでしょうね。





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