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京の走り坊さん その1

2011年07月06日 00:48

京の走り坊さん

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絵本『京の走り坊さん』(文・東義久、画・無㠯虚几(むいきょふう))は1995年に株式会社クレオから出版されました。


檀家の家にお札を配ったり、和尚さんの言づけを伝えるため、京都中を走り回っていたという足のはやいお坊さんの話です。

一年三百六十五日、毎日毎日、二百軒以上の檀家をまわり、人々はお坊さんのお札をありがたがり、その一途な姿を弥勒菩薩の生まれ変わりだと噂し・・・。
そして、お坊さんの足のはやい評判を聞きつけた殿様から“はやあし比べ”に出されるも、褒美にも目もくれず、すぐに京都に戻ってせっせと飽きもせずお札を配って走る日々。
京の都に大きな台風がやってきて大変な被害が出た時のこと。その日から走り坊さんは寺の仕事のほかに、薬や食べ物を困っている人たちの元へと持って回り、人々にはたいそう喜ばれ、京の人たちが走り坊さんの姿を見かけるとみんながこぞって手を合わせるようになった・・・という、そんなお坊さんの物語です。


この「走り坊さん」にはモデルとなる実在の人物がいました。それが絵本の時代から下ること、明治から大正にかけて京都の町を走り回り「今一休」と崇められた大蓮寺の役僧“籏玄教(はた・げんきょう)”さん、その人です。


その町中を走り回る姿は、当時の大阪朝日新聞で「珍物畫傳(ちんぶつがでん)」の一人として紹介されるほどの奇行の人物として有名で、流行性感冒によって49歳でなくなった際には新聞記事にもなりました。


「今一休と褒められた 走り坊主の大往生 三十年を走つて走つて走り抜いた」

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〈大正7(1918)年12月4日付『大阪朝日新聞 京都附録』(大阪朝日新聞の京都版)〉


お経を読むのもままならぬほどだったといわれる「走り坊さん」のことです。僧侶としての階級(僧階)は最下級に近かったのでしょうが、果たして現代における法主クラスの僧侶の訃報記事でも、これほど大きく扱われることはない、というくらいの記事の大きさ。
いかに「走り坊さん」が当時の京の人々に愛されていたかがわかりますね。

おそらく仙台でいうところの「仙台四郎」さんのような存在・・・でもあったのでしょう。



現在も大蓮寺は東山二条のお寺の多い一画に、“安産祈願の寺”として、また10世紀に造られた由緒ある十一面観音立像を安置することから“洛陽三十三所観音霊場”の第八番札所として存在しています。

しかし、もともとは仏具屋通五条下るの毘沙門町にあって、太平洋戦争時の道路拡張に伴い現在地に移転。つまり実在した「走り坊さん」の話は五条通にまだ大蓮寺があった頃の話なのです。



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京の走り坊さん その2

2011年07月06日 00:48

さて、当時の大阪朝日新聞の記事によると・・・、
飛ぶが如く走るが如く洛中洛外を走つて走つて走り通した京都市佛具屋町五條坂下る大蓮寺の役僧籏玄教も流行性感冒には敵し兼ねて眠るが如く大往生を遂げた(中略)第一彼れは大の健脚家で雨が降らうが風が吹かうが彼れの走る姿を見ないことはなかつた
と綴られています。


「走り坊さん」こと籏玄教(本名・新田常治)は、1872(明治5)年に大阪の和泉泉南郡に生まれ、18歳の時に京都の大蓮寺に弟子入りします。
大阪にいた頃は病弱で体も小さく、汽車に乗るのも毎回子ども料金で通るほど。
ところが、入門した大蓮寺は当時、本堂や観音堂の再建途上にあって「走り坊さん」はその勧募(勧進)のため檀家まわりを中心に京都の町を走り回らざるを得なくなります。
すると生まれつき病身だった「走り坊さん」も自然と健康な体となって、むしろ常人以上の健脚ぶりが目につき始めるのです。その頃には町の皆から「常さん」との愛称で呼ばれていたようです。
そして月に一度は未明に起きて、四明ヶ岳(比叡山山頂)から鞍馬山を駈け、さらには愛宕神社に詣でるという到底今では想像できない行程を踏破していたのだとか。しかも『珍物畫傳』によると、その月一回の参詣も「市内數千軒の得意先の商賣繁昌家内安全火難除け等を祈願する爲」だというのです。
また、「常さん」の健脚ぶりに新米の郵便配達員は度々教えを乞いに来たりもして・・・。

そしてこれだけ一日中走り回れば腹が減るのは必定。小さい体ながらもすごい大食漢だったようで「日に飯一升酒一升餅一升に彼れの健啖を語るには餘りに貧弱すぎる正月の雑煮餅なら五十は譯もない、三度の食事は徑五寸に垂んたる朱塗の大椀に五杯乃至六杯は缼かさぬ」というほどに。


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〈大正7(1918)年12月4日付『大阪朝日新聞 京都附録』。新聞の記事には「走り坊主」こと籏玄教の写真の他に、生前愛用していた大椀の写真が載せられるほどの大食漢〉


大好物の酒に関しては幾度も大失敗をしていて、電柱に鼻をぶつけて帰ってきたり、酩酊の末に交番に引っ張ってこられ「走り坊主」とわかって放免されることもあったのだとか(笑)。


それでも人々は「走り坊さん」が「大きな坊主頭の法衣姿に汚い頭陀袋を下げてグッと丹田の邊りに力を罩め乍ら、彼れは緩急よろしきを得た一定の速力を以て毎日毎日」走り回る姿を、ありがたがったのです(亡くなる10年前に紹介していた『珍物畫傳』では「寒中でも貿易品の大扇子をあふりつゝ流汗淋漓と飛び廻つて居る」と形容されています)。


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〈仏画師・藤野正観氏作「走り坊さん」の図。「大蓮寺」と染め抜いたリュックのような頭陀袋。そして番傘に扇子。どこか滑稽で愛嬌のある人柄がにじみ出ています。図は、大蓮寺さんのHPより無断借用です〉


多少のお酒の失敗も許されるには訳があって、この「走り坊さん」、酒が好きな他は全くの無欲で、女性に声を掛けられても見向きもせず、檀家の家々を回る合間に有名だった彼に富豪が喜捨を授けても、いつも貧民窟に出入りしてはそこで困った人々に私財を分け与え、寺に帰ってきた時には嚢中には一文無しの状態だったという有様。そんな“僧侶の鑑”たる彼を人々が「今一休」と崇拝するのは当然のことでした。


さて、往生を遂げる際も、「走り坊さん」の真骨頂たる奇人の様子が見て取れます。
流行性感冒を患い寝込んでいた時、こっそりと起き出しては台所で酒をあおり、その姿に医師も飲酒を許してしまいます。死の直前には師僧の名を呼んでから「末期の酒一杯に舌鼓を打つてグーグー寝込んだ儘で」と酒に関しては満足の限りを尽くして彼岸へと旅立ったのです。1918(大正7)年11月20日、享年49歳でした。

「走り坊さん」の死に際し、師僧である芳井教岸氏(のちの大本山金戒光明寺六十五世法主)のコメントに「到頭西宮に走り込みました」とありますが・・・、いい言葉です(もちろん、酒所としての「西宮」と西方浄土とを掛けているのでしょうネ)。





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