--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

小説家 加能作次郎

2011年06月28日 22:20

小説家 加能作次郎

IMG_0002_20110628133303.jpg
〈『加能作次郎作品集 世の中へ/乳の匂い』(講談社文芸文庫、2007年、荒川洋治編〉


加能作次郎(かのう・さくじろう)は1885(明治18)年に石川県で生まれた小説家です。
13歳の時に高等小学校を中退し、継母との折り合いが悪かったこともあり、貧しい郷里の実家から出奔します。中学校に行かせてもらえるかもしれないとの一縷の望みを持って、素封家の伯父がいる京都にやってきたものの、待っていたのは伯父が営む薬屋の丁稚仕事。
加能が京都に出てきて二年後にはその伯父も亡くなり、頼るべき人もいなくなってからは、代書人の書生や弁護士の事務員をし、その傍らで夜学にも通い、本来望んでいた勉学の道は諦めませんでした。

その後、郷里に戻り、小学校の教員になるも、文学への志が次第に募って20歳にして上京。牛乳配達などで生活費を稼ぎながら、いくつかの習作をつくり、22歳にして早稲田大学高等予科文科に入学。その翌年には『ホトトギス』に「アルフォンス・ドォデェの作風」を発表し、高浜虚子の知遇を得ます。
たびたび『ホトトギス』に海外文学者の評伝や作風紹介を書きながら学資を稼ぎ、1910(明治43)年に同じく『ホトトギス』に処女作となる「恭三の父」を発表。

大学卒業後は早稲田大学出版部を経て、博文館に入社。博文館では『文章世界』の編集者として従事し、翻訳や文芸時評を書き、また多くの小説を発表し、大正時代を代表する自然主義作家として名を馳せたのです。
1941(昭和16)年、急性肺炎のため死去。享年58歳。


戦後は長らく忘れ去られていた作家でしたが、詩人であり文芸評論家の荒川洋治が編んだ『加能作次郎作品集 世の中へ/乳の匂い』(講談社文芸文庫)が2007年に刊行されるに及び再評価される・・・はずだったのですが、いまだにマイナーな作家のままのようです。


加能作次郎にはいくつかの京都を題材にとった作品があります。つまりそれは加能にとって、もっとも苦難に満ちた時代を描いた作品なわけなのですが・・・まぎれもない名作揃いです。


なお、加能が勤めた博文館は当時としては最大手の出版社で、『文章世界』は田山花袋を初代編集長に1906(明治39)年から1920(大正9)年まで発行された文芸雑誌。『早稲田文学』とともに自然主義文学の一拠点ともなっていました。



スポンサーサイト

迷児

2011年06月28日 22:20

迷児 加能作次郎 1918年


「もう二十五六年前、数え年の七つの時であるが、私は本家の叔父に連れられて、京都へ行ったことがある。」
この文章から始まる短編小説「迷児」の初出は1918(大正7)年6月号の『早稲田文学』でした。

まだ著者・加能作次郎が郷里を出奔する前の幼い日の出来事を綴った小説です。京都で仏壇屋を営む祖母の家にやってきた秋から冬にかけての寒い時期、見知らぬ街で迷子になった時の、ほんの短い小品ですが、短編の名作・志賀直哉の『小僧の神様』や芥川龍之介の『トロツコ』に比す、いえ、それ以上の名作の匂いが漂っています。


あらすじは・・・、

能登から京都へと人生初の長旅で寝小便の心配をする主人公。案の定、途中で泊まった宿でも寝小便をしてしまい、叔父に怒られはしまいかとビクビク恐れるような小心者で健気な幼き日の著者が主人公です。

主人公の父親は幼い三つの頃に京都から能登へと養子に出されたこともあり、祖母は遠くに住む末っ子を気遣い、さらにその子の息子で能登からはるばるやってきた主人公をも「恭やん」と呼んで、たいそうかわいがってくれるのでした。
私は別段淋しいとも思わず、その日から祖母の家の子供のようになって居た。口にしたこともない旨いお菜を食べたり、従兄姉達と一緒におやつのお菓子を貰ったり、見物に連れて行かれたりして、田舎で継母の側に居るより、どんなにいいか知れぬと、子供心にも思った。着物も、常さんといって、私より三つ位年上の、従兄の古いのらしいのを着せられた。
と楽しい日々を過ごし、田舎では着たこともなかった羽織を着せられもしたのです。

ある日、幾度か行ったことのある六条に住む伯母の家へ一人で遊びに行った帰りのこと、主人公は迷子になってしまいます。六七町しか離れていない伯母の家と祖母の家を、その時は何故か一人で帰れなくなって、道を尋ねる勇気もないまま、ついに泣き出してしまうのです。

そこに声を掛けてくれたのが「四十頃の角帯をしめた優しそうな小父さん」でした。
ところが、小父さんに祖母の家の町名「万年寺」を告げたにもかかわらず、彼の発音が悪かったのか「万寿寺」とでも聞こえてしまったのか、歩けど歩けど、見知った家には辿り着きません。いつしか四条大橋に出て、夕暮れも迫ってきました。

DSC00574_R_20110628134008.jpg
恐らくその人は、私を途中に撒き捨てたかったに違いない。撒こう撒こうとして居たのかも知れない。けれどもその後から、とぼとぼと、泣きながら従いて来る私を見ては、さすがに捨てるに忍びなかったのであろう。
幼い主人公の目にも小父さんが困り果てているのがわかるものの、彼も見知らぬ土地ではこの小父さんについて行くしか仕方なかったのです。

ところが、人通りの淋しいところに来て、ついぞ小父さんは立ち止まり、泣き出す主人公をなだめながら、「一寸ここに待っといなはい、じき帰って来るよって。」と主人公が追いかけようとする間もなく、立ち去りました。
そして意外にもすぐにその小父さんは戻ってきて、彼に言うのです。
「今晩、芝居見に連れてってやろ。それでな、あて、今、家へ行って子供連れて来るよってな、おまはん、それまで此処に待っといで。」
(中略)
「それでな、家の子は羽織持ってへんのや。何なら、おまはんの其の羽織貸してんか。」
そう言って、小父さんは豆板菓子を三枚、彼の手に握らせ、背後にまわって羽織を脱がせにかかったのです。
「じき戻って来るよってな、泣かんと待っといなはい。」との言葉を最後に小父さんは路地の奥へ姿を消し、もちろんそれ以降、姿を現すことはありませんでした。

すっかり日が暮れ、大声を張り上げて泣き叫ぶ彼を大勢の人が取り囲み、ようやくその中の一人が、祖母の家がある「万年寺」まで送り届けてくれたのです。

祖母の家に帰った主人公はひどく叱られながらも、よく無事であったと皆から喜ばれ、そして事の顛末を聞き及ぶにいたって、「羽織を持って行った人は善い人であったか悪者であったかということについて、暫く皆の間にいろいろ議論され」、結局、「駄菓子の豆板三枚で絹の羽織を騙り取られた私の愚直が皆を笑い興じさせる種となった」のです。

著者は最後にこう締めくくっています。
あの人は、私を京の街中連れて歩いて、終いに羽織を持って行ったまま帰って来なかったあの人は、どうしたろう?――私は時々その人のことを憶う。もう死んで了ったであろうか? それともまだ生きて居るだろうか? そして二十五六年前に出会ったあの小さな出来事が、今だにあの人の記憶に残って居るだろうか? 或いはまた曾て一度でもその事を思い出したことがあったろうか?

善人だったのか悪人だったのか、わからない小父さん。この小父さんを責めるわけでもなく、自分の愚直さが引き起こした笑い話として綴る、そんないかにも著者の優しさと人としての上品さが滲み出た最後の括り方が、後味のよい小説に仕立て上げているのです。

白樺派の多くの作品に見られるような、単なる人道主義や理想主義や人間礼讃ではなく・・・、おそらく宿命としての貧しさと、生来の体の弱さを背負わされ、人生の艱難を味わってきた著者・加能作次郎だからこそ描けた、一服の清々しさと人間の生臭さを同時に感じられる名作なのです。



世の中へ

2011年06月28日 22:21

世の中へ 加能作次郎 1918年


「世の中へ」は1918(大正7)年10月から12月にかけて『読売新聞』に連載され、加能作次郎の出世作となった長編小説です。


この作品も加能作次郎の自伝小説のうちの一つで、彼が13歳で故郷・能登を出奔する旧暦の盆から、15歳の春に伯父が再び四条で洋食屋を開業し、そこで下足番として働くまでの一年半ほどの期間が描かれています。


加能作次郎の実母は彼が生まれた年に亡くなり、その後、彼が物心も付かぬうちに継母がやってきました。
実父と継母との間には三人の子供があり、思春期にさしかかった彼は継母との折り合いも悪く、また貧しい家では中学校に通わせてもらえそうにありません。さらに持病の足の関節炎も悪くなる一方で、13歳にして自ら人生に活路を見いだすべく、継母には内緒で故郷を“出奔”することを密かに計画。父親にだけ気持ちを打ち明け、勉学が出来るかも知れないという希望を胸に、京都に住む資産家の伯父の元へと向かうのです。
私が居る為に、家の中がいつも陰気で湿っぽく、父までがどんなに人の知らない心の苦労をして居たか知れなかった。私は子供心にもそれを感じながら、味気なく淋しい日々を送って居た。殊に私の為に唯一の味方であり、不幸な境遇を共に憐れみ合って居た姉が京都へ行ってからは尚更だった。
京都行きを決断したのには伯父の存在とともに、三つ年上にして同じく13歳で能登を出て、伯母の営む六条の宿屋で働いていた実姉の存在も大きかったようです。

継母が寺へお盆のお参りに行っている間に、仏壇の前で父親との別れを描くシーンや、父の手はずで用意してあった船に乗り、だんだん村から遠ざかりつつある光景を眺めながら、大きな寺の本堂にいる父親を思い浮かべ「父は恐らく説教も耳に入らないだろう。父は折々後を向いて沖の方を眺めるに違いない、そして穏やかな、日光に光った海を沖から沖へと馳せて行く此の小舟の中の私を思いやって居るであろう。」と想像する情景は、なんとも切なく感動的。

そして突然深夜に京都六条の宿へと現れた彼を、伯母も姉も驚きながらも快く迎え入れ、姉にいたっては京都が自分のものと言わんばかりに、弟を東山へと見物に連れ出し、嬉々として街を自慢するさまは心温まります。しかし「能登へ行ったかて、お母さんも居らへんし、妾等(わてら)は京の者になろえな。」と街の路傍に立ち止まって弟に諭すように呟く言葉が物語るように、彼にとっては伯父の家に身を寄せることが唯一残された希望だったのです。

DSC04929_R.jpg

そんな希望を持って「世の中へ」出たはずの彼を待ち構えていたのは、毎日、気むずかしく苦り切った顔をしている伯父の姿。
伯父は四条大橋の西詰めで一階では薬屋を、二階と三階で「浪華亭」という宿屋を営んでいました。しかも本妻の“お文伯母”は別宅にいて、妾である“お雪伯母”と一緒に住んでいるという複雑な人間関係・・・。さらに伯父はかつて何人かの妾がいたり、そして実子のいない伯父には幾人かの養子がいたりして・・・。

複雑な人間関係に気を遣い、時には打擲するヤクザ気質の伯父の顔色をうかがいながら、彼は「学校に通いたい」という本来の目的も口に出せず、退屈で窮屈な薬屋の丁稚として奉公する日々を送るのでした。

仕事にも慣れ、人から「いい丁稚となった」と褒められれば褒められるほど、「自分の望みに反することだという気がして居た。ああして薬屋の丁稚をして居て、行末どうなるのだろうというような考えが漠然ながら私の胸にあった」と著者はたびたび、当時の不安を主人公に口にさせています。


小説が語る一年半の間には・・・、

伯父が四条の店を人に貸し、清水の三年坂に別荘を建てて、伯父、お雪伯母、そして主人公の三人がそこに移り住んで隠居同然の生活をしたり、
主人公が意を決して、夜学に出してくれと頼むものの、学問嫌いの伯父に烈火の如く怒られ、
彼の持病であった関節炎が悪化し、三ヶ月に及ぶ病院生活を余儀なくされ、その間に看護婦の藤本さんに淡い恋心を抱き、彼女から『金色夜叉』や『不如帰』を借りて文学的な目覚めを覚え、
見舞いに能登からはるばるやってきた父親との感動的な再会があり、
事業好きな伯父が清水で勧工場を開き、
伯父の本妻である“お文伯母”が亡くなり、
もう一度、伯父が四条に飲食店を開く計画を準備し出した矢先に“お雪伯母”が腸チフスを患い入院し、
厳しいはずの伯父が彼に二十五まで辛抱して働けば、暖簾を分けて好きな店を出させてやると心優しい言葉を掛けてくれたり、
六条で宿屋を営んでいた伯母が亡くなり、
目を患った“お雪伯母”が医者に通わずに行者の祈祷にすがるようになったり、
そして、主人公の姉が私生児を産んで、六条の宿屋を追い出されたり・・・。

DSC04393_R.jpg


短いたった一年半の間に、主人公を取り巻く環境は目まぐるしく移り変わり、最初、薬屋の店番に出た頃には「お出でやあす」「お帰りやあす」といった掛け声さえも恥ずかしくて言えなかった主人公が、再度、伯父が店を出した四条の食堂の店開きの日には、下足番として、
『お出でや――す。おあがりや――す。』
『お帰りや――す。』
私は声を張りあげて間断なく呼ばわって居た。
と、変貌を遂げているのです。
タイトルの「世の中へ」は京都に出てきた彼を指していたのではなく、様々な人間関係や人生の機微を思い知らされ、学問への断ちがたき思いはさておき、下足番という仕事を与えられて一所懸命生きる溌剌とした彼の姿を言い表していたのでした。



乳の匂い

2011年06月28日 22:22

乳の匂い 加能作次郎 1940年

1940(昭和15)年8月号の『中央公論』に掲載されたのが、この「乳の匂い」で、亡くなる一年前の作品にして加能作次郎の中でも最も傑作と評される短編小説です。


この作品は「世の中へ」と時を同じくした物語です。ただし主となる登場人物は、「世の中へ」では、ほとんど触れられることのなかった“お信さん”。
“お信さん”は伯父の養女の一人で、つまり主人公にとっては義理の従姉にあたる人物です。
彼女はもともと四条の橋の下に住む乞食の子でした。“お信さん”が七つか八つの時に、彼女の器量のよさと、かわいそうな境遇に伯父が引き取ることを決め、乞食の実の親と縁を切らせたのです。


ただし、主人公が“お信さん”に初めて出会ったのは、薬屋の丁稚をしていて伯母の“お雪さん”に使いを言い渡された先でのこと。
その後も、直接“お信さん”と会ったのはたった二回のことなのですが、主人公である著者にとってタイトルとなる印象的な出来事と共に四十年経った今でも思い出される女性として描かれているのです。


当時、“お信さん”は伯父の反対した相手である“森田”の子を産み、勘当同然で西洞院の“お雪さん”の姉の家に住んでいました。そして主人公が伯父には内緒でその家に使いに行かされた際、京都に一人で出てきて心細かった彼が、人生で初めてのラムネをご馳走してもらい、名前や境遇を優しく尋ねてくれる美しい“お信さん”に心惹かれたのです。

その後も、西洞院へと使いに出されるたびに、“お信さん”との出会いを期待する主人公でしたが、いつも出てくるのは“お雪さん”の姉。そして失望に似た淋しい気持ちで四条の薬屋へと帰っていくのでした。

DSC04427_R.jpg

それから何ヶ月か経って、伯父や主人公が清水の三年坂に住んでいた時のこと。突然“お信さん”が伯父の家を訪ねてきました。
彼が隣室から盗み聞いた話によると、“森田”が仕事の関係で上海に行くこととなり、“お信さん”もついて行くにあたって、いくら勘当されている身とはいえ、親に黙っては行けないと挨拶に来たのです。
しかし、伯父は相も変わらず不機嫌なままで、話を聞こうともしません。

そして、親子は不和の関係のまま“お信さん”が暇を告げて帰る時に、主人公は坂の上の人力車の帳場まで提灯をつけて送ってやるのです。
宵を少し過ぎたばかりの帳場には、あいにく人力車の姿はなく、二人は季節外れの寒い風が強く吹く中、空車を待っているうちに、“お信さん”が自らの境遇を語ったり、彼女が彼の田舎の父親を知っていることなど聞くに及んで「知らぬ土地で、自分の親兄弟を知っているという人に出会うということは、自分自身を知っている人に会ったと同じ程度にも懐かしく嬉しく思うものである。まして日頃ひそかに慕わしく思っていたお信さんのことだった。私は実際その時お信さんを、肉親の姉のようにも親しみ深く感じたのであった。」と親愛の情をいっそう深めるのです。

そんな坂の上の帳場で、思いもよらぬ出来事が起こります。
強い風が砂塵を巻き上げ、主人公は目つぶしを食らい、目も開けられないくらいの痛みを感じます。
そんな彼の様子を心配そうに覗き上げる“お信さん”。
「礫(いし)でも入ったんかいな。一寸お待ち、矢鱈こすったりしたらあかへん。わて今取って上げまほ。」
そう言って、彼を通りから小舎へと導きました。半巾(ハンカチ)の先を唾液で濡らし、こするように拭き取ってくれても、一向にゴミはとれそうにありません。ついには“お信さん”は「何が入ったんやろ、執(しつ)こいえな。どないしまほ。舌で嘗(ねぶ)ってみまほか。」と言い出します。慌てて拒む彼をよそに、「あ、そや、それがいい。」と名案を思いついたようです。

(前略)いきなり、私の膝の上に跨るように乗りかかって、無理に顔を仰向かせたかと思うと、後はどんな工合にそうしたものか、私は眼で見ることが出来なかったが、次の瞬間、あッと思う間もなく、一種ほのかな女の肌の香と共に、私は私の顔の上にお信さんの柔かい乳房を感じ、頻りに瞬きしている瞼の上に、乳首の押当てられるのを知った。

“お信さん”は自らの乳汁(ちち)で、彼の眼を洗ったのです。

「気持悪るおしたやろ。そやけど、そんなこと言うて居られへん。外と違て、大事な眼どすよって、愚図愚図してたらあかん思うてな。」
「おほきに!」
私はまたも繰返して心から礼を述べた。
その刹那、何だか急に胸が迫って、思はず歔欷(しやく)り上げそうになった。単なる好意とか親切とかいうもの以上の、何か別のもの、謂って見れば一種人間的な、本然的な優しい真実な思ひ遣り、そういったようなものが、お信さんの胸から、じかに熱々と感ぜられたのであった。

結局この時が、主人公が“お信さん”と話した最後となるのです。
しかし彼にとっては「あの乳汁で眼を洗って貰った時の事が、一種惑わしい幻となって、絶えず私の眼の前にあった。私は温い母の懐を慕うと同時に優しい恋人の胸に憧れるような気持ちで、お信さんを思い出すのであった」と、その時の“乳の匂い”と共に生涯その出来事が鮮明に刻まれることとなるのでした。


さて、その後、主人公は21歳になり遊学のため東京に出てきます。その時、“お信さん”の近況が気になり、連れあいである森田の実家を訪れ、森田の老母からその後の彼女の消息を知ることになるのです。
“お信さん”は上海に渡った一年後には日本に戻り、森田の任地である鳥取に住んでいたものの、二年前に森田が亡くなり、森田家と“お信さん”は離縁。
主人公が京都で丁稚をしていた頃にいた子供も上海で亡くなり、上海で生まれたその下の子も、一月か二月で亡くなってしまったと・・・。

さらに森田家を訪れた時から三年ほど経った後、私立大学に通っていた主人公が郷里に帰る途中で久しぶりに京都へと立ち寄ります。その時、宮川町の“お藤さん”という伯父の養女の一人だった人から、“お信さん”の近況を知らされるのです。

「あんたお信さんを知ってお居やすな。あの人、今どないしてるお思いどす? 七条新地(はしした)で娼妓してはるんどっせ。」
「えつ! 娼妓? 本当ですか?」
あまり私の驚き方が激しかったので、お藤さんが却ってそれを不思議がって、じろじろと私を見つめた程だった。

主人公は“お藤さん”の家を辞した後、“お信さん”が勤めているという七条新地界隈へと足を運びます。

DSC01082_R.jpg
〈かつて「七条新地」と呼ばれていたのは現在の「五條楽園」〉

半時間ばかり後、私は七条新地の通りを歩いていた。五条の大橋際から下の方へ、鴨川の流れを背にした狭い、穢(む)さくるしい一筋街で、丁度六条の宿への途すがらであった。同じような格子造りの二階家が南側に並んで、娼婦の名前を沢山書き列ねた掛行燈が戸毎に掛っていたが、既にその行燈に明るく灯が入って、涼みがてらの嫖客の姿もぼつぼつ見られる頃合だった。
「ちょいと、ちょいと、お寄りやす。ちょいとお寄りやしてお行きやす。」
どの家も同じように、表格子の隅っこに、小さい桝形の窓、というよりも穴を刳り抜いてあって、そこから白い首の女が顔だけ覗かして、そう頻りに呼びかけているのであった。
私はどの顔もどの顔もみなお信さんの顔に見え、どの声もどの声も、みなお信さんの声に聞えるような気がした。そして若しも奇蹟が、私にお信さんと邂逅させたらどうだろうと思う心と、動(やや)もすれば袖をとられて、何れかの一軒へ引きずり込まれそうなのを恐れる心とに胸を轟かしながら、用ありげにすたすたと、而も二度も、端から端を往きつ戻りつした。


「世の中へ」と「乳の匂い」を読み比べてみると、どうやら、どちらか(どちらも)が純然な私小説というわけではないようです。乳汁で眼を洗うというエピソードも実際にあった出来事なのか、フィクションなのかはわかりませんが、実際の出来事だとすれば“お信さん”の無垢な優しさには驚きですし、作者の創作だとすれば小説家としての想像力に脱帽です・・・。
しかしこのエピソードは、ややもすると下品な、もしくは官能的すぎるシーンになりかねないはずが、主人公の少年と“お信さん”の持つ孤独な境遇や控えめでおとなしい性格と相まって、読者にとって忘れられない文学的一場面となってしまっているのです。





Twitterボタン

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。