茶人 堀宗凡 その1

2011年06月12日 01:40

茶人 堀宗凡


茶人にして花守、その人の名は、堀宗凡(1914―1997)。
この人も京都が誇る奇人の一人ですが、奇人は奇人でも・・・大いなる数奇人(すきびと)ですね。

どうしてこの人が奇人と称されるのかといえば・・・、
堀宗凡の自宅兼茶室「玄路庵」は下鴨にありました。庭には六百種類もの草花が彩る広大な邸宅だったようです。
そして、その自宅から河原町通りを通って、京都でも人通りの最も多い四条までの道のりが彼の日課の散歩コースでした。
その散歩の際の奇抜なファッションが行き交う人の目に奇異に映っていたのです。
時には女装をしたり、ドレスをまとっていたりして・・・(笑)。
といってもこの人、男色ではありません。むしろ今の若者がファッションでスカートをはくように、時代に先立って二十年、三十年以上も前から、まわりに流されない非凡な美意識を持った御仁だったのです。

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〈写真は『茶花遊心』(1987年、マフィア・コーポレーション刊)より〉

堀宗凡は、本名・堀保夫。
1914(大正3)年に料亭を営む裕福な家庭に生まれます。フランスから雑誌『ヴォーグ』を取り寄せるほどファッションに関心を持ち、当時流行の「モダン・ボーイ」の一人でもあったのです。そして旧制京都市立第二商業学校を卒業後、おしゃれが高じて5年ほど自ら洋服店を経営していました。

ところが弱冠20歳にして、「なんのために生きるのか」という問いに行き当たります。
その悩みの末に飛び込んだ世界が、茶道だったのです。茶の道を選んだのには、祖父が遠州流の茶人だったことも影響していました。
裏千家十四世・淡々斎に師事し、厳しい指導のもと15年後には茶名を与えられます。それが「宗凡」でした。

しかし、形式にとらわれすぎる現代の茶の道は、宗凡にとっては窮屈すぎたのです。
突如、還暦を前にした58歳の時、いったん流派から離れ、下鴨の自宅「玄路庵」で独自の茶事を開拓します。

民族衣装や女装姿で点前を披露し、BGMには流行のポップスやクラシック、果てはフラメンコからハワイアンまで・・・。
そんな革新的すぎる宗凡の茶事をさげすむ茶人も多くあったと聞きますが、それでも「玄路庵」には文化人から学者、近所の友人から興味本位の若者まで、多彩な顔ぶれが集まり、茶道を楽しく嗜んだのです。

独自の茶道を追求したのちも、「裏千家茶道教授」の看板を掲げ、裏千家との関係は続いていました。そして十五世からは「宗風」に名を変える提案をされるも、これをやんわりと固持。
奇抜なファッションはあくまで外見だけのことで、点前そのものは無駄が一切ない流れるように見事なもので、最後まで“平凡”にこだわった人なのでした。

1997年、82歳で亡くなった際の葬儀では、シューベルトのアベマリアに見送られ、旅立ったのだとか。最後まで、“らしい”生き方を貫いた格好いい人なのです。
その頃には、「なんのために生きるのか」の答えは見つかっていたのでしょうか。

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茶人 堀宗凡 その2

2011年06月12日 01:41

堀宗凡には『茶花遊心』(1987年、マフィア・コーポレーション刊)という主著があります。

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〈堀宗凡・著『茶花遊心』(1987年、マフィア・コーポレーション刊)〉

といっても、自費出版本だったのか、今では古本としてもさほど流通しておらず、さらに堀宗凡の著作もこの他には見あたりません。

『茶花遊心』は400ページにおよぶ大著で、和歌と花の写真と随筆が三位一体となった風流な随筆風読み物とでも言いましょうか。ただし、装丁を見てエキセントリックな内容を期待してはいけません。あくまでスタンダードでオーソドックスな随筆です。そして堀宗凡という人物が、やはり数奇人だったということが理解できるものの、おもしろいかといえば・・・残念ながら、ですね。


しかし、この著作によると、

実家は二、三軒の料理屋を営み、幾十人も人を使っていた母親の気苦労は相当だったようで、いつも母親は「煙草屋さんを一人でしたい」とつぶやいていたのだとか。そんな母親を見ていた宗凡もいつしか清貧にあこがれるようになり、幼い頃から花に魅せられていたこともあって「ききょう咲く陽あたりよき土地少しあるならば」と20歳にして“花守”の人生を本当に始めてしまうのです。

時には道を求める情熱ゆえ、仏門に入ろうとしていた時期もあったようですが、母親の反対にあい、断念したのだとか。

そんな生来の生真面目さから、
「茶を清々と生きたい心は弟子取りに夢中になる先生とは肩を並べてはいられない」
「足がとまると風流は止りその人の血、宗が立つ、宗は意地の表現となり道の元祖の一派となる。宗旨といわれている」
「茶道修養も心の水源をたずねる事から始り、同時に花に通じるのであり、根に錬金術を得ることとなる。茶の湯も水からはなれられないし花も最も然りとなる。新鮮な初心の水に身を没入してこそ浮ぶ瀬がある」
(すべて『茶花遊心』より)・・・との心境に至るのも当然のことで、裏千家を離れ、独自の茶道を開拓する思いにいたった気持ちも理解できます。

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庭で丹精込めてつくった花で床を飾って客をもてなし、自由に誰もが楽しめる茶道。それこそが、茶の道を確立した千利休の精神であり、堀宗凡が行き着いたカタチでもあったのです。


若者雑誌『BRUTUS』で、「昔は京都一のモダンボーイ、今は日本一のハイカラ爺さん」と謳われて、うれしがったりもするお茶目な堀宗凡さん。
未確認ながら、どうやらこの人、8ミリ映画にも出演されているようで。
寺嶋真里さんという方の作品『幻花』では、そのものズバリ、女装老人を演じているのだとか。ぜひ、拝見したいものです。